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少年時代の記憶を黒曜石に込めるものづくり。十勝工芸社・中編

上士幌市街地から国道273号線を糠平方面に向かって進んでいくと、白樺の木々に囲まれた白い建物が見えてきます。そこは「十勝工芸社」という工房で、黒曜石(十勝地方では十勝石とも呼ばれます)を加工し、石の魅力を引き出す工芸品を製作されています。今回はそんな十勝工芸社の店主 陶守統一さんのもとを訪ねたお話「その2」をお届けします。

上士幌町で黒曜石を彫り続ける理由。十勝工芸社・前編

WRITER

竹中 勇輔(たけなか ゆうすけ)

1994年生まれ。上士幌町出身。理学療法士。ホロロジーライターというチャンスを生かして会いたい人に会いに行きます。上士幌に帰ってきてけん玉にハマっています。よく聞かれますが町長と親族関係ではありません。


前編では「十勝工芸社」の陶守統一さんと工芸品の紹介、そして上士幌町で工房を開いた理由や製作についてのお話をまとめました。製作のお話では、エゾシカの角を利用して黒曜石を加工していることなどを伺い、とても興味深い内容でした。「その2」では黒曜石との出会い、弟子入り時代のこと、引き継いだ技術の伝達についてのお話をまとめました、ご覧ください。

黒曜石との出会い

竹中

次は黒曜石との出会いのお話を聞きたいです。どんなきっかけがあって、黒曜石に興味を持ったんですか?

陶守さん

最初に黒曜石に興味を持ったのは小学生の頃。私は足寄町の上利別というところで生まれたんですけど、家から学校まで20~30分くらいかけて歩いて通っていました。その通学路の両側は畑なんですが、雨が降るとその畑の中に、キラキラした黒曜石の鏃(やじり)が見えるんですよ。

竹中

黒曜石がそのままあったわけではなくて、鏃があったんですね。

陶守さん

これは何だろう?と興味を持って、それが鏃だということが分かってからは、どうやって作ったものなのかと興味が深まっていきました。

竹中

好奇心が広がったんですね。

陶守さん

実際に拾ったものを見せましょうか。(工房の方へ鏃を取りに行く)

陶守さん

私が見つけたものは縄文時代の石器なんですよ。

竹中

おぉ!

陶守さん

この石って、地中にあると水和層(すいわそう)という、電子顕微鏡で見ないとわからないような膜ができるんです。その膜の厚さを図ることで、石の年代がわかるんです。

竹中

木でいうと年輪みたいなものですか?

陶守さん

そうですね。それで昔は顕微鏡で膜の厚さを調べてたらしいんです。今は放射線で調べるから、かなり詳しい年代までわかるみたいですよ。

竹中

放射線で石の年代を調べる方法があるのは知りませんでした。

陶守さん

それで、こういう鏃が畑に落ちていて、雨が降るとキラキラ光るんです。拾ってからは、これをどうやって作ったのかということが気になって仕方がなくてね。

竹中

見ていて驚いたんですが、縄文時代のものがこの鋭さを保っているのがすごいですね。

陶守さん

すごいでしょう。これはきっと吹き矢かなにかだと思う。これを獲物に向かって吹いて、一つひとつ拾いに行くわけはないだろうから、柄は風化するけど、石は残ったんだね。狩猟に必要な道具だから、きっと大量に作って、それがあちこちに埋もれちゃったんだと思うんですよね。

竹中

へぇー。

陶守さん

話を戻しましょうか。あとは私の実家が商業をやっていたんだけど、林業の全盛期って、木をどんどん切り倒していくから、木がなくなっていくんです。そうすると人口も減少して経営状態が悪くなってね。そんなときに父が本別町で、黒曜石の加工をやってる人に出会って。それをきっかけに父は黒曜石の加工の仕事を始めたんです。

竹中

では、陶守さんが始める前にお父様が先にやられていたんですね。

陶守さん

そうなんです。父が始めたのは僕が中学生くらいのときでした。振り返れば、帰ってきては父の仕事を見たり、ちょっといたずらして加工したりしてたなぁ。石もいっぱいあるから、石器づくりに挑戦してみたりしましたね。

竹中

こどもの頃からものを作るという行為が好きだったんですね。

陶守さん

そうですね。とにかく手を動かすことが好きでした。

竹中

陶芸をやっていると、すごくその気持ちがわかります。

陶守さん

私は高校を卒業して神奈川県で勤めました。そのころは仕事が忙しくて石器作りどころではなかったですね。でも良かったこともあって、それは以前から興味のあった東京国立博物館に行けたこと。そこには北海道から産出された大きな石器が展示されていました。そこで再び興味が沸き起こっていくわけですよ。

竹中

石器への情熱が再燃したんですね。

陶守さん

そうそう(笑)。それを機に北海道に帰ってきて、黒曜石の仕事をやりたいと思い始めました。それで42歳のときに仕事を辞めて帰ってきたんですよ。

竹中

そういう経緯があったんですね。陶守さんが帰ってきたとき、お父様はまだ仕事をされていたんですか?

陶守さん

やっていたんだけど、体調を崩していてね。3年ぐらい一緒に仕事をしたあと亡くなりました。

弟子入り時代に学んだこと

竹中

お父様が亡くなられたのはとても辛かったと思いますが、3年間一緒に仕事をできたことは、陶守さんにとって宝のような時間だったのではないでしょうか?

陶守さん

そうですね、始めるのが何年か遅れていたら一緒に仕事ができなかったわけだからね。

竹中

お父様と仕事をしていた期間は、陶守さんにとっていわゆる弟子入りの期間だったと思いますが、一番勉強になったことは何かありますか?

陶守さん

石を磨く技術ですね。この石を見てください。石を磨いていく目の順番です。一番端が原石で、粗い目からどんどん細い目で磨いていきます。

竹中

荒い目はその辺りに落ちている黒曜石の質感と似ていますね。

陶守さん

落ちている石は河原で他の石とぶつかりながら転がるから、ザラザラしてますよね。そんな状態から粗い砥石から石を磨いていくんです。少しずつ砥石の目を変えていって、仕上げはフェルトで磨きます。これらの工程は黒曜石の加工の基本で、光沢の違いを使い分けて作品を作っていきます。

竹中

光沢の調整はかなり繊細な作業なんでしょうね。

陶守さん

黒って傷が目立つから、傷が残らないように磨くことは並大抵のことじゃないですね。父はおよそ40年の間で試行錯誤して、どんな順番で作業し、どのような道具を使うかを決めていきました。それは何十年もかかって生み出された磨き方、基本形なんです。

竹中

そんなに長い時間をかけて出来上がった技術なんですね。

陶守さん

私は突然帰ってきて、息子だからいろいろと教えてもらえましたが、そうでなければどうだったかわかりません。だから私は、その試行錯誤の時間がなかったおかげで、応用を考えるために時間が使えました。もし父がいなければ、磨く技術だけで20年以上かかっていたかもしれません。それが伝承できたのはラッキーでしたね。

引き継いだ技術の伝達について

竹中

陶守さんはお父さんの技術を引き継いだわけですが、陶守さんの元で勉強をしたいという方はいらっしゃいましたか?

陶守さん

石器作りは、累計だと300人以上に教えていました。高校生の修学旅行の体験や、社会科教諭の石器作りの研修会などでも教えましたね。上士幌町だと生涯学習センターでも3回ぐらい教えましたよ。でも教えるって大変ですよ(苦笑)。 黒曜石は石を割る工程が難しいから、私が全部破片を事前に作って準備しなければいけないんです。それでも体験中はバラバラになったり、手が切れちゃったりすることも多くて。

竹中

ガラスの破片と同じように鋭利だから、作業では危険も伴いますしね。

陶守さん

磨きを学びたいという人が来たこともありましたね。そのときは1週間その人につきっきりになってしまって、自分の仕事ができなくなったときもありました。技術を伝達するというのは非常に難しいなと感じていますよ。

竹中

陶守さんが今持っている技術を次の世代に引き継げないとなると、ここで失くなってしまうことになると思います。それについてはどんなふうに考えていらっしゃいますか?

陶守さん

できれば身内に引き継ぎたいと思っていました。でも息子は違う仕事をしていますし、娘も結婚しています。だから難しいかなと思ってます。

竹中

そうだったんですね。日本の伝統工芸も後継がいないければ衰退していくし、十勝でいうと農業も状況は似ている気がします。 

陶守さん

そうですね。技術というのは1回失うと取り戻すのにかなりの時間と労力を要しますよ。

竹中

ある技術を持つ世代が次の世代に引き継ぐことができないと、またゼロに近いところからスタートになるということですよね。

陶守さん

うん、そういう悩みを持った職人さんはたくさんいると思います。今私は70歳だけど、父は72歳で亡くなったんです。でも亡くなる直前まで磨いていましたよ。そういうことを考えると、私もあと何年できるか分からないけど、やりたいことはいっぱいある。ただ時間が少ないこともわかっています。

いかがでしたでしょうか?実はまだまだお話は続くのです。最後となる後編は、私が個人的に一番聞きたかったことに迫ります。ものづくりに対する姿勢や考え方、アイデアの源泉など、何かを作っている人にとって勉強になるお話になるかと思います!ご覧ください。

陶守さんのものづくりへの原動力や姿勢。十勝工芸社・後編

上士幌町で黒曜石を彫り続ける理由。十勝工芸社・前編

上士幌市街地から国道273号線を糠平方面に向かって進んでいくと、白樺の木々に囲まれた白い建物が見えてきます。そこは「十勝工芸社」という工房で、黒曜石(十勝地方では十勝石とも呼ばれます)を加工し、石の魅力を引き出す工芸品を製作されています。今回はそんな十勝工芸社の店主 陶守 統一(すえもり とういつ)さんのもとを訪ね、お話を伺ってきました。


WRITER

竹中 勇輔(たけなか ゆうすけ)

1994年生まれ。上士幌町出身。理学療法士。ホロロジーライターというチャンスを生かして会いたい人に会いに行きます。上士幌に帰ってきてけん玉にハマっています。よく聞かれますが町長と親族関係ではありません。


陶守さんと工芸品のお話

まずはお話の中を見ていただく前に、店主の陶守さんと工芸品の紹介を簡単にさせてください。陶守さんは足寄町出身で、高校卒業後は就職を機に神奈川県で23年暮らします。その後、少年時代から持っていた黒曜石への興味、陶守さんのお父様が黒曜石の加工の仕事をされていたことなど、さまざまな要因が重なって、黒曜石の加工を仕事にする決意をし、神奈川での仕事を退職され北海道に戻ってきました。もともとはお父様の工房があった本別町で仕事をされていましたが、上士幌町へ工房を移転します。(詳しいお話はこの後の対談をご覧ください!)

店内にはたくさんの工芸品が並んでいます。陶守さんによると大きく9つのジャンルに分けて製作をしているようです。その中からいくつか紹介をすると、まずは石器・ナイフ。縄文の技術で再現した石器・ナイフは黒曜石の原石をエゾシカの角と小石で剥離して作っています。

次は宇宙シリーズ。黒曜石の漆黒を生かして、宇宙の星々を彫刻しています。「石も人もみんな宇宙のひとかけら」そんな思いをこめて、小さな星の位置も星座図に基づき正確に彫っています。

さて紹介はこのあたりまでにさせていただき、ここからは陶守さんとのお話へ。上士幌にお店を開いた理由、製作のお話、黒曜石との出会いなど、今に至るまでのさまざまな背景を語ってくださいました。

上士幌にお店を開いたわけ

竹中

はじめまして。今日はお話を聞かせていただけるということで、楽しみにしていました。よろしくお願いします。

陶守さん

どうも、陶守です。よろしく。

竹中

まず、陶守さんがこの工房を上士幌町に建てた理由は何だったのですか?

陶守さん

初めは父が工房を持っていた本別町でやっていたんだけど、上士幌町は黒曜石の原産地ということを知ったんです。それで、どうせやるなら原産地でやりたいと思い、退職金を使ってここの土地を買って、工房を建ててやり始めました。

竹中

お父様もこの仕事をされていたんですね。上士幌町の中でも、この場所に工房を建てたのは何か理由があったのですか?

陶守さん

もともと僕は上士幌町のことは詳しくなかったんですよ。足寄から帯広へ行く時には、ちほく高原鉄道というのがあったから、車を使わない限り上士幌は通らなかったんですよね。 学生の頃は車を持っていなかったから、どこへ出かけるにしても、ちほく高原鉄道を使ってたんですよ。

竹中

そうだったんですね。

陶守さん

この上士幌町の壮大な平野を見たのは、就職して免許を取ってからなんですよ。当時住んでいた神奈川からの帰省中にドライブしてるときだったんです。足寄は山に囲まれた土地なので、上士幌町のこの広い平野と山岳が調和した景観を気に入ってしまいました。

竹中

上士幌から足寄までは軽い峠道ですしね。

陶守さん

この土地は、上士幌にいた父の友人にお願いをして見つけてもらったんです。国道沿いで、糠平に行くお客さんが来てくれるし、なにより住んでいて気持ちがいいものです。

納得いくものは3割しか作れない

竹中

製作のことを伺いたいんですが、実は僕もものづくりで陶芸をしているんです。でも失敗も多くて、頭に思い浮かべているものを形にするのはいつも難しいなと思いながらやっています。陶守さんはものづくりをされていて、失敗と成功はどんな割合ですか?

陶守さん

お店には完成品しか並べていないから、お客さんから見ると全部成功しているように見えるかもしれないけど、実際に成功しているものは例えば石器でいうと3割くらいですね。うまくいかないことの方が多いです。何より、自分が納得できないと商品にはできないしね。

竹中

そうなんですね。

陶守さん

例えば石器は機械を使わず、エゾシカの角で石を剥がしていきます。私の仕事道具、ご覧になりますか?

竹中

いいんですか?ぜひ見たいです!

陶守さん

これが石器を作る道具です。エゾシカの角の根元の部分はハンマーとして使っています。右のものは押圧剥離という技法で使う鹿の角の先端。まずは大きな原石からバンッと叩いて、破片を取り出します。

陶守さん

するとこういう状態で剥がれます。ただ黒曜石は必ず湾曲して剥がれるので、例えばナイフを作り出すにはこれを平らにしなければいけないんです。 その工程で石はどんどん小さくなっていくし、加工の工程で割れてしまうこともあります。

竹中

その上で成功が3割ということなんですね。

陶守さん

ものにもよりますがそういうことです。細かく削っていくにはこの鹿の角の先端で圧をかけて剥がしていって、そういう作業の繰り返しで作品を作っています。

竹中

気になることがあるんですが、黒曜石はどんなふうに剥がれていくんですか?

陶守さん

一般的に考えると表面を削っていくように思うでしょ?黒曜石の場合、下の方向へ剥がしていきます。 

竹中

そうすると欠片は下に落ちていくわけですね。

陶守さん

そうです。でもどうして湾曲して剥がれるのか、ここが面白いんです。

(陶守さんが球体を手元にもってくる)

陶守さん

これは球体に作ったものなんですが、頂点に打撃を加えると円錐状に割れていくんです。

竹中

円錐状?波紋のようですね。

陶守さん

そう。石器人は同じような角度で打撃を加えると、このように割れていくことを見つけたんです。

竹中

へぇー、この性質から黒曜石を道具として加工していったんですね。でも思うように剥がすには、力の調節がとても難しそうですね。

陶守さん

それは経験と技術がものをいいますね。あとは石の質が良いか悪いかも関係があります。時々ヒビが入っている石もあるから、間違えてヒビのあたりを叩いちゃうと完成しかけていても割れてしまうんです。そういうのも含めると完成できる石器は3割というところですね。

竹中

長年やられている陶守さんでも、成功率が3割というのには驚きました。

陶守さん

でも、あのイチローだって成功率が3割じゃないですか。彼は「3割で打ち続けられていれば最高だ」なんてインタビューで言っているけど、それを聞いたら自分の3割って大したものなのかもしれないって思えますね。

とても興味深いお話が続きますが、前編はここで終わりです。「中編」では黒曜石との出会い、弟子入り時代のこと、引き継いだ技術の伝達についてのお話をお伺いしました。ぜひ、ご覧ください。

少年時代の記憶を黒曜石に込めるものづくり。十勝工芸社・中編

腹筋する木彫りの熊 好きで好きで彫り続けた伊藤さんの60年

上士幌町に変わった木彫りの熊を彫る人がいる。そんな噂を聞きつけたホロロジー編集部。上士幌町に住んでいる人でも知っている人が多くなかったというこの木彫りの熊を彫る伊藤幹男さんにお話を伺ってきました。そこには、実直に自分の好きなことを追い求めて過ごしてきた、伊藤さんの人生が込められていました。


WRITER/PHOTOGRAH

野澤 一盛

帯広市在住。2011年から北海道に住み始め、2016年に十勝に。上士幌の魅力を「人」を通してお伝えします。


上士幌町のとある住宅街の家先に、伊藤さんご自身で建てたというトタンに覆われた工房があります。工房に入り、少し薄暗い物置を通り越すと、伊藤さんの作業場が現れました。

「散らかっていてごめんね。何も話すことはないけど、とりあえず、お茶でも飲んでいってもらえれば」

このあと、紹介する木彫りの熊から溢れ出る優しさは、きっとこの伊藤さんから滲み出る優しさからなんだろうなと、最初の挨拶で垣間見ることができました。

「僕なんか本当に話すことないですよ。ただずっと彫っているだけですから」

そんな謙遜する言葉を並べられても、この木彫りの熊を見ていたら、聞きたいことしか出てきません。

頭を持ち上げている姿が愛らしいこの作品は、最近制作している「腹筋熊」です。

この「腹筋熊」は、猫が日向ぼっこをして寝ている姿を見て、腹筋する熊が面白いのではないかと着想したそうです。

「60年近く熊を彫ってるんですが、腹筋熊を作りはじめたのは2年前くらいなんです。動きがある熊を作って欲しいというリクエストがあって、動物のテレビや本を見ながら、何か面白い動きはないかなって考えて。あるとき体を丸めて気持ち良さそうに寝ている猫を見て、熊も体を丸めたら面白いかなって。それで腹筋をさせようと思ったんですね。偶然できたんですよ(笑)」

伊藤さんのユニークな閃きから、このかわいい熊が生まれたんですね。ちなみに、この腕が腰に向かっている腹筋熊は、初期に製作したものだそうです。見比べるだけでも楽しいです。

「今になってね、絵本とか写真で見る熊が本当にかわいいんですよね。親子の熊なんてたまらない。小熊がかわいいなって。」

伊藤さんの言葉の節々に、熊が大好きだということが伝わってきます。熊への愛も、伊藤さんの木彫りの熊が優しく見える理由なんだと思います。

「こういう写真を見て、イメージしながら彫ってるんです」

そうして写真からヒントを得た作品は、伊藤さんの手に掛かれば、そこに本当に熊の親子がいるかのような作品に生まれ変わってしまうのです。

聞けば、伊藤さんは小さい頃から木彫りの熊を彫り続けてきたと言います。

「10歳のときに、兄が木彫りの熊を買ってきたんですよ。それを目の前にあった木と彫刻刀を使って真似して作ってみたら、大した作品ではなかったと思うんですが、みんなに褒められたんですよね。それからずっと熊を彫っています。10歳から15歳のときまでずっと彫っていたんですよね。よっぽど褒められたのが嬉しかったんでしょうね」

新得町出身の伊藤さんは、中学校を卒業後、糠平にある木彫りの作家さんに弟子入りします。15歳の少年は糠平で10年ほど、木彫りの熊を彫り続けました。

その後、今の場所に居を構え、工房を作り、熊を彫り続ける日々が続きます。

「木彫り熊はお土産としての需要がすごく高かったのだけど、40歳くらいの頃にバブルが崩壊してからは需要が減り続けてね。その頃くらいからは、山に仕事に出たりしながら休みのときに彫っていました」

どれだけ疲れていても、仕事が大変でも、熊を彫ることは止めなかった伊藤さん。

「彫っていたら疲れないから。楽しいんですよ」

そんな木彫りに人生を賭けた伊藤さんの作品は目を奪われるものばかりです。


納得できたものを作れたことがない

「完璧だってご自身が思った作品はありますか?」そんなことを聞くと…。

「ないですねえ」と一言。

「完成しても、あっちが悪いこっちが悪いって思ってしまうんですよ。いつも途中で妥協して…。これだってここ…削れないから仕方がないんだよな…」

と一言。

「妥協して、これで勘弁してもらうかっていつも思ってます。それでも僕の作品を買ってくれる人もいる。申し訳ないなって思うけど、感謝しかありません」

伊藤さんは、熊を彫り続ける理由を「彫ることしかできないんだ」といいます。

「木ってのは面白いんですよ。今使っているえんじゅの木は、へりだけ色がつくんですよね。こんな風に白く。この白くなる部分を活かしながら、彫っていたりするんですよ」

この写真の熊の足裏のように、えんじゅの木が白くなる部分を活かして彫ることも。

「もう手に入らないかもしれないよ、僕の木彫り」

「もう手に入らないかもしれないですよ、僕の木彫り」

なんて不意に伊藤さんが言いました。こう見えて70歳を超えている伊藤さん。

「昔のように元気なわけじゃないので。カラダが思うように動くわけでもないですし」

続けて、

「星野道夫さんが大好きなんですよね。もちろん写真も大好きなんだけど。星野さん、熊に襲われて亡くなったでしょ」

探検家、写真家として活動をしていた星野さんの本を、伊藤さんは参考にしている。

「あまく見すぎたんだよな。熊を…。でも、熊に食われても襲われても良いって考えだったかも知れない。僕もこうやって彫っていて、そのまま死ねたらいいなって思ってて」

憧れの人になぞらえて、自身の最期も好きなことをやっている途中に終わりたいという伊藤さん。それほどにまで打ち込めるものがあるからこそ、こんなにも素敵な作品が出来上がるのだろうと、伊藤さんの木彫りに対する想いをヒシヒシと感じる一言でした。

でも、もっと作り続けてほしい。

いつまでも見ていることができる木彫りの熊に背を向けて、楽しい時間は過ぎていくのでした。伊藤さん、ありがとうございました。

人生初体験!狩猟に同行させてもらいました!~熊にも遭遇!?~

以前、じゃがいも収穫体験でお世話になった加藤農場の加藤宣夫さんは、上士幌町の猟友会に入会されています。狩猟がどのように行われているのかを見たことがない私は、「見学させていただけませんか」とダメもとでお願いしてみると「私で良ければ」と快く引き受けてくださいました。さて、どのような1日が待ち受けているのでしょうか。人生初の狩猟同行の一部始終をお伝えします。


WRITER

宮部 純香

上士幌町で生まれ、高校まで上士幌で過ごした編集サポートメンバー。小さい頃からお世話になった上士幌を新しい視点で見てみたいと取材を進めています。


狩猟体験当日は、吐く息が白くなるほど寒くなった11月上旬。朝7時に宣夫さんと待ち合わせをし、狩猟場所へ案内していただくことに。

あやか

おはようございます。今日はよろしくお願いします!

加藤宣夫さん

おはよう!今日は寒いね。これ、1本ずつ持って!

なんと、私たちのために温かいお茶を用意してくれていました。

あやか

ありがとうございます!

寒い体に宣夫さんの優しさが染みわたりました。さっそく、山へ出発します。

あやか

加藤さんたちは狩猟だけでなく、鹿の駆除もするとお聞きしたのですが、それはなぜですか?

加藤宣夫さん

鹿が畑の作物の味を覚えてしまって、農林業への被害も出ているんだよね。だから駆除を目的に山に入ることもあるよ。

あやか

捕った鹿はどうするんですか?皆さんで食べてしまうんですか?

加藤宣夫さん

引き取ってくれるところに卸すか、自分たちで持って帰るかかな。

あやか

今日は捕れたらジビエ料理をして食べたいですねー

加藤宣夫さん

いいね、そのために頑張らないとね。

宣夫さんたちとお話をしていると、あっという間に目的地周辺に到着しました。

時刻は午前8時過ぎ。いよいよ鹿の捜索が始まります。

草木の紅葉具合に目を奪われながらも、畑を過ぎて農道を通り、山の中へと進んでいきます。

その道中で、熊の糞を発見!(遭遇したのは熊の糞でした…)

あやか

これって近くに熊がいるということですか?

加藤宣夫さん

いや、この糞は日にちが経っているものだから、今ここに熊がいるわけではないね。

あやか

でも怖いですね。

加藤宣夫さん

ちなみに糞の色が紫なのは、山ブドウを食べたからだよ。

あやか

へー、こんなに色に出るんですね!

歩みを進めていくと、木の皮がはがれていることに気づきました。

加藤宣夫さん

これは、鹿が木の幹で角を削ったあとだよ。

あやか

痕はありますけどなかなか見つけられませんね。

加藤宣夫さん

大丈夫、林道はたくさんあるからね。

あやか

目視で見つけるのはなかなか難しいですね、木なのか鹿なのか見分け辛いです。

加藤宣夫さん

そうだよね、今は冬毛に変わってきているからね。

あやか

見つけたら、どのくらいの距離からなら狙い撃つことができるんですか?

加藤宣夫さん

そうだね、木が混んでいる場所では200mを超えると難しいかな。

あやか

やっぱり1発で仕留めるのが良いんですか?

加藤宣夫さん

そうだね。狙うのは首か頭だね。もし1発で仕留められずに体に当たったら、葉や地面に落ちている血の色で判断するんだよ。血が赤いとかすっていて、赤黒いと内臓にあたっているなとかね。

あやか

なるほど!そうやって判断するんですね。

宣夫さんとの話は弾みますが、鹿とは遭遇できないまま、次の場所へ移動します。

あやか

なかなかいないですねー。

加藤宣夫さん

鹿は天気が崩れる前に動くというからね。明日から天気が崩れるから、今日は良い日なはずなんだけどな。

残念ながら鹿を見つけることができないまま、お昼になってしまいます。宣夫さんの提案で、小川の見える場所でご飯を食べることに。宣夫さんは自分の分だけではなく、チョコレート、ゆで卵など、ほかのみんなの分までご飯を準備してくれていました。

お腹も心も満たされて、いざ午後の部へ。ふと窓の外を見ると、草の上に何やら白いものが。

加藤宣夫さん

あ!鹿の角だ。

あやか

え!拾いに行ってもいいですか!

   

あやか

やっぱり鹿の角だ!たくさんある。 

加藤宣夫さん

これね、犬を飼っている人だったらほしいと思うな。犬が噛むおもちゃにもなるんだよ。あとは、飾ってもいいし、加工してもいいね。

あやか

もしかしたら近くにいるかもしれないですね!あ!これって鹿の糞ですよね!

あやか

鹿の糞からもここにいたかどうかってわかるんですか?

加藤宣夫さん

糞の光沢でわかるかな。光沢があるのは昨夜から今朝の間のもの。光沢がないものは昨日から前のものかな。

宣夫さんが丁寧にいろいろなことを教えてくださるので、私も鹿についてわかってきたのではないかという錯覚に陥ります。

目視で探していると、陽の光が射したり、影が揺れたりするだけでも鹿に見えてしまいます。何度か本物の鹿にも遭遇することができましたが、危険を察知してかすぐに逃げられてしまいました。

あやか

なかなかうまくいかないですね。

加藤宣夫さん

そうだね。日の入り時間わかるかな?

あやか

調べますね・・・16時18分になってます。

加藤宣夫さん

ありがとう。じゃあ、この場所が最後かな。

あやか

どうして日の入り時間を確認するんですか?

加藤宣夫さん

法律で銃を発砲できる時間が日の出から日の入りまでと決まっているんだよ。

狩猟もいろいろなルールが決められているんですね。勉強になります。

あやか

ここ、なんかいそうですけどねー。

加藤宣夫さん

あっ!いた!

あやか

え!ほんとにいた!

加藤宣夫さん

いやー、あれ仕留められるかな。

そう言いながら、少しづつ距離を縮めていく宣夫さん。鹿に走って逃げられては困るので、私たちは一言も発することなく、息をするのにも気を使うほど張り詰めた空気が流れます。

そして・・・

ズドンッ!

あやか

当たった!当たりましたよね!

鹿が走って奥の方へ入っていってしまったので慌てて追いかけます。

さらにもう一発。

ズドンッ!

少し離れたところにいる宣夫さんの様子を不安になりながら見ていると、両手で大きなOKサインが!

あやか

すごいっ!!やりましたね!!

仕留めた鹿を見るために宣夫さんに続いて山を登っていくと、

仕留めました!時刻は16時8分。無事に最後のチャンスをものにすることができました。

すぐに血抜きをしないと鮮度が落ちてしまうということで、手際よく処理をする宣夫さんともう1人のハンターさん。

最低限の処理を済ませた鹿を車に積み、解体場まで運び解体します。生々しい光景に目をそむけたくなりましたが、なんとか最後まで見届けました。

今回仕留めた鹿のお肉はいただいたので、後日調理してみました!

こちらは、鹿肉を鉄板で焼き、塩コショウと焼肉のタレにつけていただきました。

そしてこちらは、鹿肉カレーです。鹿肉と玉ねぎだけで作りました。

どちらも、とても美味しかったです!

鹿肉ときくと、獣臭いのかなと想像されると思いますが、宣夫さんが処理された鹿肉は絶品です!皆さんもぜひ機会がありましたら、”ジビエ料理”お試しください!

また、「美味しい食べ方があるよ!」という方がいましたら、教えていただきたいです。

今回の狩猟体験を快く引き受けてくださった宣夫さん、本当にありがとうございました!

「地方でデザインの仕事ができるわけがないと思っていた」上士幌町で好きなことを思い出した、ワンズプロダクツのこれまで

十勝にあふれる魅力的な食べ物、イベント、ヒト。それらを楽しく可愛らしくデザインするご夫婦が、ここ上士幌町にいます。お二人の屋号は「ワンズプロダクツ」。瀬野航さんと祥子さんの二人組デザインユニットです。上士幌町を中心に十勝の商品のパッケージデザインやイベントフライヤー、ロゴ制作など多岐にわたってデザインを手がけるお二人ですが、元々デザイン関係のお仕事に就いていたわけではありませんでした。2016年に上士幌町に移住し、現在に至る瀬野さんご夫婦のこれまでの歩みを奥様の祥子さんに伺いました。


WRITER

須藤 か志こ

釧路市在住の24歳。北海道の各地域に出向き、取材や執筆をしています。この記事の執筆のため、上士幌に初めて訪れ、その面白さに心が惹かれています。


仕事も家も決まっていないけれど「移住したい!」

服飾専門学校の文化服装学院で出会った航さんと祥子さん。その後アパレル関係の仕事に就いたお二人は、2014年にご結婚されたそうです。上士幌町に惚れ込んで東京からやってきて、仕事も住む場所もアテはなかったけれど、とにかく移住への思いが強かったというお二人。旅行先として訪ねた北海道で航さんから告げられた夢「いつか北海道に住めたらいいなあ」が、こんなに早く実現するとは思っていなかったと、祥子さんは話し出してくれました。

瀬野祥子さん

私たち夫婦は、よく理想の家族像を話すことがあり、その中の一つに「大自然の中で子育てをしたい」というものがありました。結婚して子供が産まれてからもしばらく東京に住んでいたのですが、その理想に近づくために移住を決意し、1年以内に実現させると決めたんです。それと同時に、夫は東京での勤め先に「あと1年で退職します」と伝えて。どこに住むかも何の仕事をするかも決まっていない状態で、一から移住先を決めることになりました。

須藤

なぜ移住先に上士幌町を選ばれたんですか?

瀬野祥子さん

移住先を調べるために北海道の自治体を調べていたとき、気になった町の一つが上士幌町でした。実際に移住フェアで話を聞いてみると、子育て支援が手厚く、当時2人目の子供を妊娠していた私たち夫婦にとっては大きな決め手でした。主人に実際に上士幌町に行ってもらい、送ってもらった町の写真を見て「ここにしよう!」と決めたんです。

須藤

そして2016年に移住されたんですね。

瀬野祥子さん

上士幌町で移住相談に乗ってくれる「上士幌コンシェルジュ」の方に協力していただき、町営住宅に住むことが決まり、私たちも仕事が決まりました。「北海道に住むなら自然と関わる仕事がしたい」という夫は林業に、私は近所のコンビニでパートを。二人とも今までアパレルの仕事しかしてこなかったのでわからないことばかりでしたが、理想の環境がそこにあることがとてもうれしかったですね。

とある生地との出会い

瀬野祥子さん

ただ、しばらくして夫が「仕事を辞めるかもしれない」と言い出しまして。以前から膝を怪我していたこともあり、体力的な負担も大きかったようで、朝ごはんを食べられないくらいになってしまって。そこで、「せっかく理想の暮らしができるようになったのに、無理して身体を壊したり、それで家族の時間が減るのは本末転倒だよね」という話をしまして。

須藤

そうだったんですね。

瀬野祥子さん

ただ、夫が林業を始めていなかったら出会わなかったものがあるんです。

須藤

出会わなかったもの?

瀬野祥子さん

林業に携わる人が使う前掛けがあるのですが、夫はその生地をとても気に入っていて。仕事が終わって家に帰るたび、その生地の話をしてくれました。私も手に取ったとき、「たしかにこれはいい生地だな」と思いました。夫が職場の先輩にその前掛けに使われている生地の話を訊くと、実は特注だったんです。陸別町の本田商店というテント屋さんが縫っているということでした。人伝てに紹介していただき、陸別町の本田商店の方に会いに行ったんですよ。

須藤

さすがアパレルご出身、生地への熱意が溢れていますね。

瀬野祥子さん

本田商店の本田学さんは、テント屋さんでもあり、陸別町の町議もされている人。本当に手広くいろいろなことに挑戦されている方なんです。「しばれ君・つららちゃんまんじゅう」というお土産品を知っていますか?

須藤

いえ、知りません。

瀬野祥子さん

本田商店はテントを作るほかに、そのおまんじゅうも作っているんです。陸別町の人気土産なんですよ。

須藤

テント屋さんでもあり、町議も務め、そしておまんじゅうを作る本田さん……。バイタリティがすごいですね。

瀬野祥子さん

そうでしょう?本田さんは突然訪ねてきた私たちにとてもよくしてくださって、生地の話をしてくれました。その話を聞いて、夫が「この生地でサコッシュを作らせてくれませんか?」ってお願いしたんです。

須藤

サコッシュですか?あの小さな鞄の。

瀬野祥子さん

当時夫が「サコッシュが欲しい」とよく言っていて、自分たちで試作品を作っていたんですよ。そのことを話したら、本田さんが「面白いね!作ってみるよ」と、その生地でサコッシュを作ってくださったんです。そのときは趣味の延長線上だったんですが、いま思えばあの出来事がワンズプロダクツの始まりでした。

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やっぱり好きだったモノ作り

瀬野祥子さん

この出来事をきっかけに、私たち二人が大好きだった「モノ作り」に立ち返ることができた気がするんです。二人とも3年間服作りを学び、アパレル関係の仕事に就いていましたが、どこかで「移住して地方に住むなら、アパレルの仕事は諦めなければいけないんじゃないか」と思っていたんです。接客の仕事だけではなく、服を作ったりグッズを作ったりすることも、地方ではできないんじゃないかって。でも、地方でも「自分たちが欲しいと思ったものを、ここでできる限り作ってみる」ということはできるんじゃないかって気づくことができたんですよね。

須藤

二人の共通の好きだったことに立ち返ることができたんですね。

瀬野祥子さん

商品開発やデザインを仕事にすることができるんじゃないかと思ったのはこのときですね。そう思ったら、どんどんやりたいことや作ってみたいものが増えてきてしまって(笑)。その度に本田さんに相談して、「こんなもの作ってみたいんですけど……」というように相談しても、いつも「いいよ〜!」って笑顔で了承してくれるんですよ。

須藤

優しい……。そしてなんでも作ってくれる……。では、サコッシュなどのアパレルグッズの制作を始めてからはずっとお二人でモノ作りを?

瀬野祥子さん

当時はそれだけじゃ食べていけなかったので、私もパートを続け、夫も新しい仕事を探していました。移住時にもお世話になった「上士幌コンシェルジュ」の方に相談したところ、無事に新しい仕事が見つかり、また新しい上士幌生活が始まりました。

須藤

そうだったんですね。

瀬野祥子さん

ただ、やっぱり自分たちが楽しくできそうなことを見つけられたので、どうにかモノ作りで仕事ができないかなとは思っていたんです。でも周囲の皆さんには本当に心配されまして。

須藤

え、どうしてですか?

瀬野祥子さん

「そんなデザインやモノ作りじゃ食べていけないから!」って(笑)。ほとんどの人に反対されたんですよね。それは私たちも実感していたので、当時は何も言えず……。なので、それぞれ別々の職場で働きながら、お互いの仕事の隙間を合わせながらデザインやモノ作りの仕事をしていました。

瀬野祥子さん

私たち二人はアパレルのことはわかるけれど、パッケージデザインやグラフィックデザインのことは何もわからなかったので、一から勉強を始めました。上士幌で仕事をしていくなら、幅広くデザインができた方がいいと思ったんです。

それから、当時作っていたアパレルグッズは東京のお店に置いてもらっていたのですが、上士幌の人にも見てもらえるようなデザインやモノ作りの仕事もしたいと思いはじめました。そこで、上士幌町役場に伺って「上士幌町のノベルティグッズをつくりませんか?」という話をしに行ったんですね。上士幌町のタウシュベツ橋梁をプリントしたTシャツのデザインを持って行きました。そうしたら、「200枚お願いします」と言ってくださって。

須藤

すごい!初仕事ですね。

瀬野祥子さん

それをきっかけに、上士幌町の移住促進のTシャツや、北海道バルーンフェスティバルのTシャツだったり、少しずつお仕事をいただけるようになりまして。北海道バルーンフェスティバルでは、自分たちのオリジナルグッズもいくつか作り、出店させていただきました。タオルやマグカップなど、まさに「フェスグッズ」のようなラインナップでしたね。上士幌町役場の方も出店を応援してくださってうれしかったです。

作ったモノが、ヒトに出会わせてくれる

瀬野祥子さん

北海道バルーンフェスティバルに出店した際、私たちが作った帽子を士幌町道の駅 ピア21しほろの代表である堀田悠希さんが「可愛い!」と褒めてくださいまして。「ぜひ一度お話ししましょう」と声をかけてくださったんです。その後、道の駅に伺って「こんな感じのものが作れますよ」とプレゼンをしたんです。当時の私たちが作れるものはアパレル商品がメインだったのですが、堀田さんに「アイスのパッケージは作れますか?」と言われまして。

須藤

ほお。なんだか新しい展開が。

瀬野祥子さん

今だから言えるんですけれど、私は少し不安だったんです。やったことがなかったので……。でも、隣で夫が「できます!」と(笑)。

須藤

即答(笑)。

瀬野祥子さん

そこで作ったのが、しほろアイスクリーム4種類のパッケージです。このパッケージを堀田さんが採用してくださり、SNSなどで告知をしてくださったおかげで、パッケージの仕事もいただくことが増えました。このお仕事をきっかけにデザインの仕事が忙しくなり、夫はワンズプロダクツ1本で仕事をしていくことになったんです。

瀬野祥子さん

堀田さんはとてもバイタリティのある方で、いろんな方を紹介してくださるんですよ。おかげで今まで営業をかけて仕事をさせてもらっていたのが、「堀田さんから聞いたんですけど……」というように口コミで仕事をお願いしてもらえるようになったんです。

須藤

わあ、うれしいですね。

瀬野祥子さん

本田さんは制作過程だけではなく、私たちの仕事もとても応援してくださっているんです。本田さんの事務所に行くと、私たちが今まで作ったサコッシュやベルトなどのグッズが壁に飾ってあるんですよ。

須藤

お二人のことを親御さんのように見守られているんですね。

瀬野祥子さん

本田さんにはいろいろなことを教えてもらいました。本田さんのところには、地元のおばあちゃんが「孫のランドセルが壊れたから直してくれ」というような依頼も来るんですって。直すだけで1日かかるような仕事なんだけれども、お金はほとんどいただいていないそうなんです。「そういう仕事は断らないようにするんだよ。なんでも引き受けなきゃいけないということではないけれど、小さな仕事でも大事ね」って教えてくれて。

須藤

身に染みます……。

瀬野祥子さん

私たちも、できる限りご依頼いただいた仕事は断らないようにしています。断ることがあるとすれば、「納期で相手にご迷惑をおかけしそうなとき」くらいですね。それでも大変なことはあるんですが、そういうときは仕事場に飾ってある本田さんの選挙ポスターを見て、勇気をもらっています(笑)。

須藤

あ、そうか、本田さんは町議員さんでもあるんですもんね!(笑)

瀬野祥子さん

そうなんです。本田さんの笑顔を見て、教えていただいたことを思い出しています(笑)。

「やめときなよ!」の、その後

デザインやモノ作りの仕事を始めた当初は、周囲のほとんどの方から心配されていたというワンズプロダクツのお二人。移住してきて5年目のいま、多くの方に応援され、頼りにされるデザインユニットとして活躍中です。

瀬野祥子さん

今まで「大丈夫?」「やめておいた方がいいよ」と言ってくださった皆さんは、意地悪などではなく本当に心配してくださっていたんですよ。そういうことで食べていける人が今まであまりいなかったからだと思うんですね。デザインをするとかモノを作ることを趣味でやっている人はいても、「それでどうやってお金をいただくの?」という疑問があるみたいで。それから家にずっといるので、周りから見るとちょっと怪しいですよね(笑)。

須藤

なるほど(笑)。

瀬野祥子さん

でも、最近では「いつも見てるよ、本当によかったね」って声をかけてくれる人もいます。もちろんモノ作りは大変なこともあるけれど、とっても楽しいですよ。

須藤

2020年は変化の激しい年でした。新型コロナウイルスの影響はいかがでしたか?

瀬野祥子さん

新型コロナウイルスといえば、こんな出来事があったんですよ。新型コロナウイルスの話題で持ちきりで、マスクがマナーになりつつあった頃、こども園に通う子供たちが最初はマスクをしたがらなくて、どうしようかと思っていたんです。

この話とはまた別に、上士幌町のPTCA(上士幌町ではPTAではなく、PTCAとして、家族だけでなく地域で子供を見守ろうという取り組みがある)での企画で、上士幌町のオリジナルヒーロー・エゾレッドを考案したんです。100均ショップでエゾレッドの衣装や小道具を作っていて、子供たちとのイベントに登場してもらうようなヒーローなんですけれど。

須藤

すごい!かっこいいですね。

瀬野祥子さん

このエゾレッドは上士幌町の子供たちにも人気があったので、「エゾレッド柄のマスクを作ったら、みんなつけてくれるんじゃないか?」ということで、エゾレッド柄の布をまず作ったんですよ。

須藤

ええ!すごい!

瀬野祥子さん

そうしたら、こども園の先生方も一緒にその布を使ったマスクを作ってくれて。こども園に通う子たち一人ひとりにプレゼントしたんです。

須藤

子供たち、絶対喜びますよね。

瀬野祥子さん

そうなんです。やっぱりヒーローの力ってすごいですね(笑)。だから、上士幌町のこども園に通う子たちはエゾレッドのマスクを必ず持ってると思いますよ。エゾレッドにあやかって、「みんなでコロナをやっつけよう!」という啓蒙ステッカーも作ったりしたんです。このことだけじゃなく、少しずつ自分たちができることで町に関われている実感があります。初めは自分たち自身も不安でしたし、町の皆さんにもご心配をおかけしていたと思うんですが、いまは自分たちが手掛けたデザインが上士幌町に広がっていることが感慨深いですね。

「自分たちに、地方でデザインの仕事なんてできるわけがない」。心のどこかでそんな風に思っていたお二人が、周囲の人に応援されながら駆け抜けた4年間のお話を伺いました。

「周りの皆さんには心配ばかりおかけして……」と笑う祥子さんですが、それはきっと瀬野家の皆さんが愛されているからだと思わずにはいられないほど、チャーミングな祥子さん。

ワンズプロダクツのInstagramには、パッケージからロゴ、イベントフライヤーまで、お二人が手掛けられたデザインがずらり。そのどれもが生き生きとしていて、デザインを通じて瀬野家の皆さんが上士幌町での生活を楽しんでいる様子が伝わってきます。

【ワンズプロダクツ】
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Facebook https://www.facebook.com/onesproducts/

常に楽しく働いてもらえるように 〜ルピナの星代表にインタビュー・後編〜

町の人たちの生活を長きに渡って支えるルピナ。83歳になった星さんは社長に就任して40年になります。前編では、社長が今でも現役でいることの秘訣をお聞きすることができましたが、後編は、長く続くスタッフさんがたくさんいる理由や、独自の商品などを開発する理由などをお聞きしました。


WRITER

西村 奈々子

大阪出身。父が上士幌に移住。大学卒業まで、父が愛した上士幌に来ている大学生。私もこの町を愛したい。好きなことは上士幌の町を自転車で駆け抜けること。


温かな社長と従業員の関係性

西村

ルピナの従業員の皆さんは、長く働いてらっしゃる方が多いと聞きました。

星さん

おかげさまでね、たくさんいますよ。長い人で、10年もいる人もいるし、5年以上も多いです。

西村

居心地がいいとか働きやすいという理由でしょうか?

星さん

そうですね。皆さんそう言ってくれますね。

西村

星さん自身、従業員の皆さんに対して、何か意識されてることはありますか?

星さん

やっぱり、コミュニケーションをお互いにうまく取っているのがいいのかなあって考えています。どうしても社長とは話しづらいとか、あるでしょう。でもそれがないように考えながらやっているね。

西村

いいですね。

星さん

従業員もその気になって接してくれるし、冗談なんか言ったりしてね。そういう意味では、いいのかなと思ってるね。

西村

どういうコミュニケーションを意識されているんですか?

星さん

仕事のことのほかにも、世間話とか。こっちから声をかけたりして、話してるよ。

西村

なるほど。

星さん

仕事ってやっぱり、なんも話さなかったら楽しくないでしょう。

西村

毎日同じ作業も多くなってきますものね。

星さん

そうそう。だからね、冗談言ったりなんかしてやるのが、みんなも楽しいんじゃないかと思ってる。そういう面ではね、前向きに話しかけたりしてるね。

西村

従業員の方を褒められたりもするんですか?

星さん

そうですね。刺身が上手にできてたら、「いやあ、上手にできてるね」って。いろいろやる中でそういう風に言われると相手は喜ぶでしょう。嬉しいでしょう。

西村

嬉しいですよね。失礼ながら、星さんの年代って、私自身の祖父くらいなんですけど、その世代の人たちのイメージって頑固な人が多くて、褒めずに、怒ってばっかりという印象が凄くあるんです。

星さん

はい。それはね、私も昔働いていてそういう風なこともありました。

西村

それが逆に嫌だったから・・・

星さん

いやもうね、それじゃ従業員も育たないし、長く居ないんじゃないかなと思って。私自身は相当昔怒られましたよ。

西村

それで、ご自身が社長に就任されるときには、そういうことがないようにと意識しておられたんですね。

星さん

そうですね。やっぱり褒めるなどのコニュニケーションを取っていかなと、怒ってばっかりいたら、育たないしついてこないですしね。

西村

楽しくないですもんね。

星さん

そうそう、その通りなんだよね。失敗しても、それはそれでまた次できるようになればいいんだから、「ダメだよ」とかそういう風には言わない。「これはもう仕方ないよ」っていう風にやらないと。従業員に対してそうやって気をつかえないとついてこないですよ。

西村

凄いなあ。めちゃめちゃ素敵です。働いてもらう人がいないと事業にならないですもんね。

星さん

うんうん。だから、常に楽しく働いてもらえるように考えないとね。

西村

でもそういうお父さんの姿を見てるから息子さんもついていきたいと思うんでしょうね。きっと憧れなんですよ。

星さん

いやあ、ありがたいなあとは思ってます。おかげさまでそうやって、店舗全体のことは息子が見てくれるから。

西村

(インタビュー前に)お話で聞いた経営の役割分担のイメージなんですけど、新しい事業をやって攻めておられるのが専務。店長が全体の総括を担っていて、雰囲気づくりを社長がされているのかなと。(店長も専務も息子さん)

星さん

うんうん、そうですね。やっぱりそうして、分担していかないとね。

西村

素晴らしいバランスですよね。ルピナの建物自体も古き良きをずっと残されていて、残しながらも、トカトカ(パン屋さん)みたいな新しいものもつくっていくという。そうやって上士幌町の人に愛され続けてるんだなあって。

星さん

おかげさまでね、パン屋さんをやることによって会社全体も良くなっています。スーパーは帯広とかからもチラシがたくさん入ってくるので、町の人が週末帯広に行ってしまうんですよね。

西村

その対策として、地元の人に向けて、なにか意識されていることはあるんですか?

星さん

特売は、毎日し続けてますからね。

西村

本当に!いつも特売でびっくりします(笑)。

星さん

毎日やってるからね(笑)。

西村

いつも特売だから、いいものを見つけたら買っちゃいますよね!

星さん

そうですね。

西村

何かしらの目玉商品を毎日置いてるんですね。

星さん

本当に帯広から大手スーパーのチラシがどんどん入ってきますから。バルーンフェスティバルのときなんて、コンビニに人が凄い来たみたいです。

西村

この規模の町だと、本当に人の流れが変わったらすぐにわかりそうですよね。

星さん

そうですね。だから5000人くらいの町でやっていくとなると、帯広に人が流れてしまうといなくなっちゃいますよ。

西村

上士幌町でこうやって良い商品や、美味しい地元のお肉が買えるのは、魅力だし地元の人にこそ買ってほしいですよね。

星さん

わざわざ、ガソリンを使って帯広まで行っても。帯広も目玉の商品は安いですけど、定番の品は高かったりしますからね。

西村

取り扱っている商品でこだわっているものはなんでしょう?

星さん

やはりうちは肉と惣菜とかかね。魚もそうですけど。やっぱり肉を一番メインにしていますね。惣菜も種類をたくさん用意して喜んでいただけるように考えています。

ルピナで買いたい、おすすめの商品

西村

この間、取材で使って美味しくいただいた上士幌ポークを販売しておられるのは、ルピナさんだけですよね?

星さん

そうだね。

西村

上士幌ポークの販路は?

星さん

全農さんが北居辺で飼育している豚なんですよ。

西村

なるほど。上士幌ポークの特徴ってどんなところですか?

星さん

ほかの豚と比べると、全然臭みがないんですよ。豚丼などに調理してもすぐわかるから、帯広などからも買いに来られる方も多いんです。一般の店で上士幌ポークを販売してるのは、うちだけだと思います。あと、ふるさと納税で上士幌ポークとナイタイ和牛はかなり使われていますね。

西村

北海道の内陸部なのに魚介が揃ってるとこも、町の人は嬉しいと思います!貝から魚まで種類が豊富ですよね。

星さん

ありがとう。それでもまだ少ないかなって、また開拓していかなならんなとは思うね。

西村

そうやっていろんな場所から仕入れるとなると、それだけお仕事が増えて大変になるじゃないですか。それでも仕入れる理由ってなんでしょう。

星さん

やはり、お客様に良いものを提供したいという気持ちですね。なかなか難しいけど。

西村

いやいや、いつもここに来ては欲しいもの見つけて、美味しくいただいています。

星さん

ありがとうございます。お客様の心理を読んでね、提供してあげないとダメだなあと思ってます。

西村

何が良いかなあっていつも考えて、仕入れているんですね。

星さん

そうそう。

西村

仕入れも同行されるんですか?

星さん

今は仕入れは全部ファックスで送ると、品物を揃えてもらって送られてくるんです。

西村

なるほど。

星さん

大体、前日の午後3時から4時までに頼んだものが次の日の朝7時に届くようになってます。

西村

知らなかったです。そういったお仕事もされているんですね。

星さん

そうですね。あと、若い人に任せたりしつつ。ある程度、頭は休めないとね(笑)。

西村

はい、そうしてください。本当に働き者すぎます(笑)。

星さん

一つひとつ従業員に教えながらね。

西村

心強いですね。

星さん

いやあ、その通りです。今の人たちはみんなすごく覚えるのが早いですからね、教えがたいもありますしね。なんせ厳しい世の中ですからね。

西村

そうですね。移り変わる世の中ですもんね。そんな中でも続けていかれて欲しいです。

星さん

はい!これから頑張っていきます。

西村

いつも食卓を支えていただいてます!

いつも町の人を、従業員を想い、熱心に働き続ける。そんな社長だからこそ、周りの人は心からついていきたい、一緒に働きたいと思うのだと感じました。社長の笑顔からは、優しく温かい人柄が滲み出ています。これからも、ルピナでその姿を見ていたい!ずっとお世話になりたいスーパーです。

星さん、本当にありがとうございました!

働いているから83歳になっても元気な理由 〜ルピナの星代表にインタビュー・前編〜

町の人たちの生活を長きに渡って支えるルピナ。83歳になった星さんは社長に就任して40年になります。働き始めた当初のお話や、今でも現役でいることができる秘訣などをお聞きしました。そこには「町の人を思いやる心」「社員を思いやる心」が詰まっていました。心がほっこり温かくなるお話となっていますので、ぜひご一読ください。


WRITER

西村 奈々子

大阪出身。父が上士幌に移住。大学卒業まで、父が愛した上士幌に来ている大学生。私もこの町を愛したい。好きなことは上士幌の町を自転車で駆け抜けること。


白いユニフォームを着た男性  自動的に生成された説明

ルピナの辿った歴史

白いシャツを着ている男性  自動的に生成された説明
西村

こんにちは!お忙しい中、お時間を作っていただいて本当にありがとうございます!

星さん

いえいえ、私にお話しできることならなんなりと聞いてください。

西村

はい!よろしくお願いします!

温かく微笑む社長に出迎えていただきました。

西村

星さんは上士幌町の出身ですか?

星さん

いえ、違います。出身は本別町で、上士幌に来たのが昭和29年。18歳のときかな。

西村

何がきっかけで上士幌町に来られたんですか?

星さん

前の社長の片原さんが家のそばにいたんですよね。それで、後継者がいないと言われて。じゃあ、まあ働いてみるかっていうことで働きはじめました。来てから苦労したけどね。

西村

来てすぐに働かれたんですね。

星さん

そうですね。次の日から、社長の家族のところに住み込みでね。結婚するまでずっと働いてました。やっぱりね、長くなってくると大変でしたよ。石の上にも3年って言うけれど、本当にね、いろいろありました。

西村

当時はどういうお店だったんですか?

星さん

大体、30坪くらいの店舗でね。

建物, 屋外, 写真, 立つ が含まれている画像  自動的に生成された説明
創業年1924年(大正13年)屋号 片原商店/ 店名 片原マート(現ルピナ)
西村

創業当初は酒の量り売りをされていたと聞きました。

星さん

そうです!酒も、醤油も、砂糖も、油も全部量り売りでした。袋詰めの商品が当時なかったですからね。配達も車がなかったので自転車で配達。

西村

自転車ですか!

星さん

そうですね。ご用聞きと言って、個人宅に注文を取りに行ってました。市場は帯広ですから、朝5時に上士幌の同業者などと一緒に手配した車で帯広に行って、上士幌に帰ってくるのが10時過ぎ。そこから店頭に並べたり、自転車で配達をしてましたよ。

西村

1日何軒くらい行かれてたんですか?

星さん

大体ね、10軒くらいかな。2人で分けて毎日20軒くらい配達していました。自転車に山盛りに荷物乗せて走っていたから大変ですよね、なんせ車がないんだから。

西村

いやあ、本当ですよね。道も悪いし。

星さん

そうそう、砂利道だからね。昔は寒いから。

西村

え!冬場も自転車ですか?

星さん

うん、冬場も関係なく配達するよ。マイナス30度の中で。

西村

走れるんですか!?

星さん

まあ、リヤカーとか使ったりしてなんとかしてたなあ。すごく寒いよ。

西村

想像を絶します。

星さん

道が悪くてバランス崩して、酒を壊したりもしました。冬場は今と違って寒かったね。

西村

ご用聞きのお客様はどういった方ですか?

星さん

病院とか、普通の家庭の人たちのところにご用聞きに行って、品物を持っていくと喜んでくれました。若い人は買いに来れるけど、年配の方は出歩くのが大変だから助かるんだって。

西村

そうですよね。

店の前を歩く人  低い精度で自動的に生成された説明
1957年(昭和32年)5月17日 片原マート(現ルピナ)
西村

そういう時代だったんですね。この写真は今のルピナがあるところですか?

星さん

いや、神社の下の大通りにあった。昔は国道で一番メインの通りだったんです。今は町道だけどね。

西村

昔はそこが栄えてたんですね。

星さん

そう。そこから今のルピナの場所に移転してきたのが平成11年。そのときに店名もルピナになったんです。

西村

元々は八百屋のような店舗を別の大通りに構えておられてそこがスーパーになり、今の場所に移転したという形ですか?

星さん

そうですね。前の店舗は土地が狭いし困っていたときに、ちょうど農協が小売事業をやめるという話になって。そのあとを継いで今の場所でやることになったんですね。

社長になったきっかけ、続ける理由

西村

社長になられたのはいつですか?

星さん

代表になったのは昭和56年。43歳のときですね。前の社長が任せてくれてから、いろいろ悩むことはあったんだけど、この店を続けていきたかったからずっとやってきたね。今は息子たちも後を継ぐと言ってくれて。

西村

星さんの息子さんですか?

星さん

そうそう。

西村

えー素晴らしい!

星さん

息子が2人いるんだけど、一人はルピナの店長を、もう一人は専務としてトカトカのパン屋さんとか肉屋さんの事業をやっています。

屋内, 食品, テーブル, 座る が含まれている画像  自動的に生成された説明
西村

じゃあ、社長が就任されたときにはもう息子さんも働いておられたんですか?

星さん

店長は1〜2年違うところに行っていて、そこからこっちに来て。専務は高校が終わって半年後に戻ってきたんだよ。

西村

二人の息子さんもここでやるから、お父さんは社長に就任したということですね。

ベッドの上に座っている男性  低い精度で自動的に生成された説明
星さん

ええ、そうですね。息子に対しては、自分の好きな道を選んでいいんだよって言っても、やるって言ったから。それでずっとやってもらってるって感じですね。

西村

えー、嬉しいことですね。

星さん

そうですね。

西村

今年で社長を続けられて40年目になるんですね。

星さん

そうなるね。

西村

それだけ長く社長をされていて、続けられる理由ってなんでしょう。

星さん

働いているから体が動くのかなあと思っていてね。これで家にいたらボケちゃうから。

西村

現場に出るっていうことはずっとモットーにされておられるんですか?

星さん

そうですね。朝5時半に来て、いろいろ下準備しなくちゃならないからね。それが体にいいのかなと思ってるね。

西村

鮮魚コーナーに立たれているのをよくお見かけします。

キッチンでピザを作っている男  低い精度で自動的に生成された説明
星さん

そうだね。そのほかにも野菜とか、お肉とかも見て、足りないもの足したりしてやらないと、お客様にご不便をかけますからね。

西村

何時まで働いてるんですか?

星さん

今は19時ごろまで、大体ね。休みは週に1回から2回でシフトしていますけどね。

西村

朝早くから夜までですね。

星さん

でも、それがいいと思うよ。動いているから元気でいられるね。

西村

本当にお元気ですもんね。

星さん

おかげさまで。やっぱり年々体が言うこと聞かなくなってくるけどね。もうここで働いて50年になるからさ、そろそろ引退しなくちゃならないかなとも思うけど(笑)。引退しちゃうとボケちゃうよね。動いてるうちはいいよ。

西村

現場に立つ以外にも、心掛けてらっしゃることってありますか?

星さん

元気なうちに家内と一緒に旅行をしたいなっていう構想は持ってるんだけど。

西村

素敵〜!

星さん

今は休みでも、なんだかんだお客様が来たりしてね。

西村

長いお休みを取られてないんですね。奥様とはどこにも行けてないのですか?

星さん

そうですね。月に1回か、実家に行ったりとかするときもあるけどね。いやあ、動いてるうちはいいなあと思って。気分的にも違うかなと思ってる。

西村

うんうん。

星さん

あんまり休むと体が、ついてこなくなるよね。

西村

なるほど。息子さんに「休みをとって、お母さんとどこか出かけておいでよ」と言われても体が鈍るからいいかなということですか?

星さん

そうそう!本当にそうなんだよね!1日いっぱいゴロゴロしてると、逆に体が疲れてきちゃうんだよね(笑)。

西村

そうなんですね(笑)。

星さん

だからやっぱり動いてる方がいいなあって。

西村

休みの日は何をされてるんですか?

星さん

休みの日はね、書類をちょっと書くね。

西村

仕事をされているんですか!

星さん

仕事というか自分のちょっと書類をまとめるとかしてるね。

西村

それは休みじゃないですね(笑)。

星さん

なかなかね(笑)。

西村

そうやってずっとお仕事されている中で、何か楽しみとか喜びはどういうときに感じられるんですか?

星さん

そうですね。たまに、ゆっくり休みたいと思っても、さっき言ったようにあんまり休んでも逆に体が鈍るから。

西村

動くのが大切なんですね。

星さん

そうですね、以前はパークゴルフもやっていたんだけど、そんなに時間がないからやってなくて。休みと言ったって、半日ゆっくりしただけでそれ以上休むと逆に体が疲れちゃう。

西村

それは昔からそうなんですか。

星さん

そうですね。なんせもう、動いてる方がいいもんね。みんなには少し休みなさいなって言われるけど(笑)。

西村

あはは(笑)。

星さん

休んだらボケちゃうんだよって言ったら、そうだよねって言われるけど、本当にそうなんだよ。

社長が今日まで元気な理由は「働き続けること」といいます。その根底には、喜んでいる、求めてくれているお客様がいるからということも理由の一つのようです。生きている限り元気でいたいと思う私は、星さんの生き方にとても学ぶことがあるように思いました。

次回、後編は長く働いている方が多いという従業員への接し方などをお聞きしています。一緒に働く方との接し方についても学ぶべきことが多い素敵な考え方をされている星さんのお話。ぜひ後編もご期待ください。

大人も、子どもも「新しい自分が開く場所」をつくりたい〜齊藤 肇さん〜

「十勝の素敵な食材を、みんなでおいしく食べるためのスパイスをつくりたい」。齊藤肇さんは、そんな思いで「かみしほろ起業塾」に参加し、念願のスパイス専門店「クラフトキッチン」をオープンしました。そこにある齊藤さんの思い、そしてその先にあるビジョンとは――。(制作:ホロロジー編集部)


クラフトキッチン店主

齊藤 肇

|さいとう・けい|東京生まれ。子ども関係の仕事を30年以上続ける傍らでスパースメーカーにも籍を置き、幅広い仕事を経験。2014年、上士幌町へ移住。地域の方からの声を機にオリジナルスパイスの開発・販売を手がけるようになる。2019年度「かみしほろ起業塾」への参加をきっかけに、2020年4月スパイス専門店「クラフトキッチン」をオープン。


移住を機にスパイスづくり

東京で生まれ育った齊藤さんは、スパイスメーカーに勤務したことをきっかけに、スパイスの世界を深く探求するようになりました。メーカー時代は、レシピ開発やスパイスコンシェルジュとしてスパイスのご案内役などを経験しました。

そんな齊藤さんは、2011年の東日本大震災を機に、「食」についての意味を深く考えるようになり、2014年においしくて安全な食を求めて上士幌町へ移住します。

移住したあと、町に住んでいる方たちと手料理をつくって持ち寄る会に参加していました。そのときにスパイスメーカーで得た経験を活かして、スパイスを使った料理を提供したところ「このスパイスをブレンドしてぜひ販売してほしい」という声が上がったのです。

齊藤さんはそれを機に、知り合いにスパイスの販売を開始。少しずつ評判になり、2017年にはお店の運営に詳しい知人に初歩的なことから教えてもらいながら、商工会のチャレンジショップを活用して、地域の方たちに手づくりの品を販売するお店「クラフトキッチン」をオープンしました。

ですが、チャレンジショップの店舗が活用できるのは3年間だけ。お店を続けながら、その先の展開を模索していました。そんなときに、まちづくり会社で「かみしほろ起業塾」が開催されることを知ったのです。

「かみしほろ起業塾」を経て開業

「何かのきっかけになるかもしれない」

そう思った齊藤さんは、2019年度の「かみしほろ起業塾」に参加。そして起業塾で学んでいくうちに、「みんなのためにスパイスを提供したい。自分のお店を開業しよう」と決意していきます。

そして作成した事業プランで見事に最優秀賞を獲得。開業に向けて動き出します。

2020年4月、「旅するスパイス」をコンセプトとしたお店「クラフトキッチン」をオープン。ここでは、一振りで世界中の料理の味が楽しめるオリジナルブレンドのスパイスを販売しています。

「クラフトキッチンは、単にスパイスを販売するお店ではなく、地域の食文化をベースに、さまざまな提案や発信もしていきたい」と話す齊藤さん。実は、そのほかにもう一つ、このお店をつくりたかった理由があります。それは「子どもたちの遊び場をつくりたい」ということでした。

もう一つの夢「子どもたちの遊び場づくり」

齊藤さんは、幼稚園教諭として社会人をスタートしています。その経験から子どもたちの主体的な心を育むことの大切さを実感し、東京にいたころから子どもたちのために独自のワークショップを主催してきました。

上士幌に移住した2年後の2016年、齊藤さんは地域のお母さんたちと一緒に「ぽんぽろ」という遊び場を立ち上げました。そこは、お母さんと子どもたちが一緒に自由に自分の意思で遊び、楽しめる場所でした。しかし2019年春、スタッフ全員ボランティアで運営していたそのやり方には年月の積み重なりとともに無理が生まれ、当時それを解決する術もなく「ぽんぽろ」はやむなく解散してしまいます。

「上士幌でスパイスを作り始めたきっかけの一つに、『ぽんぽろ』に参加してくれていたお母さんたちの声もあったんです。十勝のおいしい食材を安全に子どもたちに提供したい、毎日の料理を楽しく、おいしくつくりたいという声に応えたいと思ったのです」と、齊藤さんは当時を振り返ります。

そして起業塾に参加したことで、あることにも気づきました。

「スパイスと遊び場って、別々のことだと思っていました。ところが、その思いのルーツをたどってみたら、根っこではつながっていたんです。起業塾に参加して、講師の先生やさまざまな経験・考えをもったたくさんの方々と対話を重ねていくなかでそれに気づきました。それを事業プランで言葉にして伝えたら、応援してくれる人や助けてくれる人が少しずつ現れて。とてもうれしかったです」

齊藤さんは、「将来は、今はなくなってしまったぽんぽろに満ちていた、子どもも大人も開ける場としての遊び場をつくりたい」と言います。

「一人ひとりのワクワクがふくらみ、実っていく。そんな『新しい自分が開いていく場所』をつくりたいんです。それがクラフトキッチンであり、ぽんぽろです。クラフトキッチンを手伝ってくれているお母さんや、ぽんぽろに参加してくれた子どもたちが、新しい自分を発見して、ワクワクして成長できる。そんな場所をつくっていきたい」と話す齊藤さん。

クラフトキッチンが最初の起業なら、「ぽんぽろ」はいわば第二の起業といえるかもしれません。道のりはまだまだ長いかもしれませんが、齊藤さんは次の夢に向かって進んでいきます。

【クラフトキッチン】
〒080-1408
北海道河東郡上士幌町上士幌138-4
電話:01564-7-7207
営業日:10:00-16:00(不定休)※営業日は問い合わせください
URL:https://tabi-spice.com/

勢多小学校の今と、廃校の住人                             

上士幌町では現在までに10校以上の小学校が閉校となっています。僕自身「閉校」という言葉をどこか遠くに感じていましたが、上士幌町で生活する中でその存在が変わるきっかけが、「2020年3月に糠平小学校が閉校した」と聞いたことです。そのとき、「近い将来、自分の通っていた学校もなくなる日が来るのかもしれない」と思いました。同時に「閉校になった学校は今どうなっているのだろう?」という思いも頭をよぎり気になっていたところ、昭和56年(1981年)に閉校となった勢多小学校で暮らしている方がいると聞き、行ってきました。


WRITER

瀬谷 友啓

JICA訓練生。栃木県出身。自然溢れる北の大地で景色を楽しみ、人と話し、美味しいものを食べる。様々な機会に触れて、町の魅力を感じて自分の言葉で伝えることができたらいいなと思っています。


勢多小学校へ

勢多小学校は大正11年(1922年)創立、昭和56年(1981年)に閉校しました。東大雪の麓、雄大な自然の中で勢多の開拓と共に歩み、地域文化の発展に大きな役割を果たしてきた小学校で、58年間で645人の児童が卒業しました。

現在、勢多小学校は、教員住宅に旭川から引っ越してきた小川史生さんご夫婦が住んでいます。今回は特別に校舎内に立ち入ることも承諾してくださいました。早速見て行きましょぅ。

校舎はモダンなつくりで、おしゃれです。

こちらが小川さんご夫妻が住む教員住宅です。

昇降口から校舎へ

校舎の中に入ってみます。

年季の入った木製の下駄箱があります。持ち帰って家具にしたいくらいおしゃれです。

こちらは廊下です。

校舎の中は、当時のまま変わらず残っているようです。初めて訪れましたが「懐かしい」と自然に口から出てしまいます。廊下は校舎の端の体育館まで真っ直ぐ繋がっています。ここに通っていたら、先生がいないときを見計らって友だちと競争をしていたと思います。窓側の方が、人の出入りが少ないので、勝率が高そうです(笑)。

賞状などは当時のままに、そのまま貼られていました。中には昭和45年の町内小学校体育大会の記録証がありました。賞状の様式は今とほとんど変わらないのですね。

窓から見える景色は、当時と変わらないのでしょうか。空が広く感じます。

昇降口から入ってはじめに職員室がありました。「職」が現在の漢字とは違います。教室は職員室の奥にあるため、毎朝子供たちの顔を見ることができる動線がいいですね。しかし、寝坊して遅刻したときには職員室の前を通らないと行けないのでドキドキしそうです。

職員室の黒板には、月行事予定表や児童出欠表がありました。ペンキで書かれたと思われる数字や枠は当時のままで、時の流れを感じさせません。黒板には閉校後に書かれたと思われる文字がそのまま残っていました。

湯呑場です。ここには今ではほとんど見かけなくなった竃と井戸がありました。昭和32年から給食の実施がされていたそうです。

ここからは教室です。

机に座り、当時の小学生の気分を体験してみました。

大自然に囲まれたこの学校では、のびのびと小学校生活を過ごすことができたと思います。羨ましいです。休み時間が一瞬で終わってしまいそうです。開校時は、319名の児童が在籍していたそうです。

音楽の授業で使っていたものと思われるスピーカーも残っています。

当時、授業で児童が製作した作品が残っていました。共同作品「ジャックと豆の木」です。

廊下の一番奥には体育館がありました。ここは閉校後に地域住民がゲートボールなど室内で活動できるようになっていました。

住人の小川さん

最後に、ここで生活する小川さんについてご紹介します。

小川さんが上士幌町に来られたのは15年前。以前は、旭川で家具を作られていたとのことでした。ここに来るきっかけは「林業をしたい」「田舎で暮らしたい」との想いがあったからだそうです。山が好きな小川さんは、林業ができる場所を探しながら、知床や日高が近ければ理想の生活ができるのではないかと考えていたそうです。

そこで出合った土地が上士幌。それから15年間、林業に携わりながら生活しているそうです。

小川さんは上士幌での生活を、「星が綺麗で、熱気球を見ることができる。空に浮かんでいる気球を見ると、違和感を感じる。非現実的。サーカスの国にいるみたい」とおっしゃっていました。また校舎の周りには、野ウサギやテンなどの野生動物がよく足跡を残しているそうです。暮らしはじめて15年が経った今でもワクワクが止まらないんだとか。そんなワクワクした暮らしに僕は憧れてしまいました。

「閉校になって40年が経過し、広い敷地を管理することは難しい。しかし、手入れをせずに廃屋のようになってしまうのはさみしい。草刈り、木の管理など林業の経験を活かせる分野を活かしてここで生活していきたい」と、小川さん。

この風景とこの環境が守られているのは当たり前ではなく、小川さんの生活があるからこそなんだということを理解することができました。

勢多小学校には、多くの子供たちの思い出と、林業に携わり、自然に囲まれた場所で暮らす小川さんご夫婦の生活がありました。閉校になり、学校へ通う子供の姿はそこにはありませんが、思い出は色あせることなく今日まで引き継がれていました。

小川さん、ありがとうございました!

子どもたちの生きていく力を育む「ナッツクルクル団」(後編)齊藤肇さんインタビュー

今回は、クラフトキッチンにて齊藤肇さんが主催する「ナッツクルクル団 アートスタジオ」に訪問。肇さんは、ナッツクルクル団は子どもたちの生きる力を育むための活動だとおっしゃいます。(前編)では、ナッツクルクル団の1日を紹介しましたが、その取材後に、肇さんからナッツクルクル団への思いを伺いました。


WRITER

西村 奈々子

大阪出身。父が上士幌に移住。大学卒業まで、父が愛した上士幌に来ている大学生。私もこの町を愛したい。好きな場所は、クラフトキッチンの2階のバルコニー。


ナッツクルクル団への思い

西村

絵本の読み聞かせから始まるのが印象的でした。そこに理由があればぜひお聞きしたいです。

肇さん

今回は「森の、たからもの」がテーマだったので、木に関する絵本を選びました。絵本からいろいろなことに興味をもつ心だったり、想像力が育まれたらなと思っています。

西村

なるほど。詳しく聞きたいです。

肇さん

例えば、絵本の中から「どの葉っぱが好き?」「今の季節の景色と同じものはどれだろう?」って子どもたちに聞いていくことで、子どもたち自身が木のことをいろいろと自分ごとにしていくんですよね。はじめは他人事のように眺めていた子も「え、どれだろう!」って眺めたときに自分のことになって。自分ごとになったあとに「木の本」で葉っぱのかたちを見せると「本当に僕はどれが好きだろう?」って真剣に考えてくれる。これによって、外に出たときにいろんなことに気がつくアンテナが研ぎ澄まされるようになるんです。

西村

子どもたちが、だんだんと発言するようになって、興味を持ちはじめるのが見ていて伝わってきました。

肇さん

いきなり絵本を見せて興味をもつ子もいれば、そうではない子もいます。みんなに短い時間で興味を向けてもらうようにするんですけど、そこで「こっちを向いて」とか「これを考えてみて」って指示をするんじゃなくて、ワークショップをやっていく中で自然と興味が向いてくるような仕掛けを作っている感じです。その土壌を作ることを本当に大切にしています。木の絵本を読み聞かせたあとに、外に出て実際の木を見ると、絵本の中の世界が自分ごとになって子どもたちはワクワクできるんです。

指示するのではなく、実際にやってみせる

西村

素敵です。読み聞かせのあと、肇さんがレクチャーをしたときに、説明するのではなくて子どもたちと一緒にやっている印象がありました。そこにも意味があるのでしょうか?

肇さん

「こうやります」って言わないようにだけ気を付けています。「私はこうやってみようかな〜?」と言いながら、子どもたちと一緒になってやるように心がけています。すると、「ここに貼ってみて」「こうしたらかわいい!」と子どもたちが自らのイメージを私に伝えてきてくれるんです。「指示するのではなくて、実際にやってみせることで自然に導いていく」を大切にしています。

西村

そのほうが、子どもたちものびのびとできる気がしますね。

肇さん

そうなんです。子どもたちがレクチャーのあとに、「やりたい!やりたい!」とやる気を見せてくれたら成功です。そこでもう私の役目は大体終わりです。ここまでで行った絵本の読み聞かせとレクチャーがその日の8〜9割を決めてしまうんです。F1でいったらもう、アクセル踏んだらブーンってスタートできちゃうような、その状況にしておかないと、短い時間ではできない(笑)。これを普通の幼稚園とか保育園でやるなら、時間をかけて段階を踏むんだけど。それを私は全部で2時間でやろうとしているから、こういうやり方になるんです。

西村

材料が驚くほど充実していたのですが、そこにも何かこだわりがあるんですか?

肇さん

子どもたちの作品のクオリティが下がらないように、材料にはこだわっています。自然と組み合わせても違和感のないもの。素材のせいで安っぽく見える材料は選ばないようにしています。

西村

子どもたちのために、ほかにも気にかけていることはありますか?

肇さん

透明人間になった気持ちでその場にいることです。提案はしますが、大人からこうしたらいい、などの「指示」は出さない。それはその場に居合わせた大人の方々にもお願いしています。子どもたちが思いのままに考えて、作れるように環境を整えるのが大人の役割なんです。

西村

最後に、肇さんが理想とするナッツクルクル団のあり方を伺いたいです。

肇さん

子どもたちはみんな生きていく力を宿して生まれてくると思っています。その生きていく力に期待する大人が増えてほしいと思っています。そんな可能性を持っている子どもたちにとって大人がお節介にならないようにしたくて。生まれながらに持っている本能を最大限に活かして子どもを育てることが、大人の役割だと思います。そして、その生きていく力を育む環境がナッツクルクル団でありたい、思っています。

肇さんがつくりたいのは、

子どもたちの生きていく力を育む

ナッツクルクル団

子どもたちの生きていく力を育む「ナッツクルクル団」(前編)ナッツクルクル団の1日〜のびのびと自由に~

上士幌小学校の向かい側、はげあん診療所のお隣りに佇む小さなお家が本日の目的地、クラフトキッチンです。玄関先には、紅葉した柏の葉が舞い散っています。子どもたちとお母さん方がもう集まってきていて、子どもたちは楽しそうに落ち葉の中を駆け回っています。


WRITER

西村 奈々子

大阪出身。父が上士幌に移住。大学卒業まで、父が愛した上士幌に来ている大学生。私もこの町を愛したい。好きな場所は、クラフトキッチンの2階のバルコニー。


今回は、クラフトキッチンにて齊藤肇さんが主催する「ナッツクルクル団 アートスタジオ」に訪問。肇さんは、ナッツクルクル団は子どもたちの生きる力を育むための活動だとおっしゃいます。持って生まれた力を、のびのびと自由に発揮する子どもたちに密着してきました。

この日のテーマは、「森の、たからもの」。

まずは絵本の読み聞かせ

肇:おはようございます!みんな、絵本読むからおいで〜!

(ざわざわざわ)

肇さんが子どもたちの方へ寄っていって、子どもたちは絵本が見えやすい場所に座っています。

肇さんはずっと場づくりを意識して進めていきます。どの子がどんな感情か、みんなの意識がどこへ向いているか、いろんなことを観察して場を整えていきます。

始まったらきちんと座って、読み聞かせを聞く子どもたち。

背中から集中して聞いているのが伝わってきます。

子どもたちに「今はどの木だろう〜?」などとたくさん話しかけながら、みんなの興味をぐんぐん引きつける肇さんの読み聞かせ。

肇さんが選んだ絵本は『木がずらり』『木の本』の2冊。

今回のワークショップのテーマ「森の、たからもの」に合わせた絵本です。

コロナのため、本当に久しぶりに開催されたナッツクルクル団。

すこーしずつ、子どもたちの緊張も溶けていきます。

子どもたち:私はこの葉っぱが好き!あ!これ見たことある!

元気にお話する子どもたちがギュギュッと集まってきました。

子どもたちと一緒にやっていく

続いて、肇さんがまず今日することを子どもたちと一緒にやっていきます。説明するのではなく、子どもたちを巻き込んで、材料を見せて、技術を見せて。「できるかな?」の不安や緊張はなくなっていきます。

それが終わると子どもたちから次々に「やってみたい!」の声が。

よし!みんなで、「やってみよう!」

森の、たからものを探しに行こう!

いよいよ外に出て、森の、たからもの探し!この日は、風が冷たかったけれどキラキラとお日さまが輝いていました。

クラフトキッチンの隣、はげあん診療所の安藤先生にお庭を使っていいよと言っていただいてみんなで探検。安藤先生のお庭は広くていろんな木や植物を見ることができます。

みんなはどんな素敵なたからものを見つけたでしょう!

子どもたち:見てみて、なんか赤いのあったよ。おっきい葉っぱ見つけた〜!袋いっぱいになっちゃった!

不思議なかたちの葉っぱ。丸っこい木の実。赤く膨らんだホオズキ。体よりおっきい葉っぱのついた枝。袋いっぱいに、袋から溢れ出しちゃうくらいに子どもたちはたからものを見つけてきました。

私もあまりに綺麗に紅葉している草木を見て、子どもたちと一緒にたくさんのたからものを見つけてきました(笑)。

自由に作ってみよう!

次は、みんなが一人ひとり集めてきた「森の、たからもの」を使って作品づくりです。

肇:どの材料を組み合わせてもいいよ〜!自分のカゴに好きな材料を取ってきてください!

全ては自由。

子どもたちはみんな思うままに材料をカゴに入れていきます。

どうしよっかなあ〜

ウキウキ!

なににしよう〜

ワクワク!

黙々と、真剣に材料を選ぶ子どもたちから、そんな感情が伝わってきました。

多種多様な材料がずらっと並んでいます↑

女の子:ちょっとこれ塗りたいから、押さえてて!

ななこ:はーい!わかった!

ぬりぬり

女の子:あ、手についちゃった〜(笑)。

ななこ:いいよいいよ(笑)。いいね〜!綺麗に塗れたね!

女の子:えへん!(ニコニコ)

こうして子どもたちが思いのままに作品を作っていく中で、大人の助けを必要とするときがあります。大人たちはそのときにはじめて子どものお助けマンになります!

集めてきたたからものが、素敵な作品になっていきます。

子どもたちはすごい集中力で作り進めていきます。

肇:この葉っぱここにつけたの?かわいい!この考え、私は思いつかなかったな〜。素敵すぎるよ〜!

肇さんは子どもたちの作品を見て回って、素敵なポイントを見つけては子どもたちに伝えます。子どもたちはそれを聞き、嬉しそうに作り続けます。

小さな画伯、自分の体より大きな柏の枝木を拾い集めてきました。「見て〜これにする!」と嬉しそうに見つけて、頑張って持ってきたたからもの。一生懸命になって色塗りしていきます。

こうして、自分より大きな作品を作り始められるのも、思うままに自由にやっているから。一人ひとりの自由な発想が、その子自身も周りの子も「あ、あんなこともしていいんだ!好きにやってみよう!」って、だんだん心が自由になっていくと肇さんはおっしゃいます。

肇:見てみて!光に当ててみるとすっごい綺麗だよ〜。

静かに黙々と作っていた子どもも、こうして肇さんと自分の作った作品を見ているときは、なんだか嬉しそうに見えました。

肇:おうち帰ったら、かわいく飾ってもらおうね!

子どもたち:見て〜できた!

そういうと、次々と作品を見せてくれる子どもたち。

どの作品も、みんな違って、みんな素敵。

(後編)では、齊藤肇さんにナッツクルクル団への思いをインタビューしています。ぜひそちらもご覧ください!

夫婦円満の秘訣とは?キーワードは「尊敬、補う、一緒にする」

フォーシーズンのご夫婦の取材して、素敵なご夫婦に出会った私は、上士幌町にもっと仲良しご夫婦がいないか探してみたくなりました。すると、斉藤さんご夫婦のお名前が上がってきました。早速、お会いしに行ってみるとダンディーな旦那様の明宏さんと隣には、可愛らしい奥様の敦子さん。今回は、そんな仲良しご夫婦にお話を伺いました!上士幌町役場に勤められていた明宏さんからは、知る人ぞ知る役場野球チームのお話を!お2人には、夫婦仲良しの秘訣をたくさん教えていただきました!


WRITER

西村 奈々子

大阪出身。父が上士幌に移住。大学卒業まで、父が愛した上士幌に来ている大学生。私もこの町を愛したい。好きなことは上士幌の町を自転車で駆け抜けること。


上士幌町役場は野球が驚くほど盛んだった!

ななこ

明宏さんは上士幌町のご出身ですか?

あきひろさん

父親は上士幌町なんだけど、僕は苫小牧市で生まれて、小学校2年生で幕別町札内に行きました。高校は帯広北高校に行きました。その後に、上士幌町役場に就職しました。

あやか

中高では野球部だったんですよね。そのまま野球をやろうと思わなかったんですか?

あきひろさん

大学でやりたいとも思ったんだけど、野球はあちこちの町村役場でも盛んだって聞いていたから、そこでもできるなと思ってね。

あやか

それで役場に。

あきひろさん

そう。公務員になりたいと思っていたから、夏の野球予選が終わったらずっと公務員を目指して勉強していた。

あやか

そうなんですね。

あきひろさん

当時は、公務員を志望する人が多くて、町村会の登録試験に400人くらい受けていた。その中から受かったのは80人くらいでした。

ななこ

すごい倍率ですね!

あきひろさん

そうそう。そこでなんとか初年度で受かって。

あやか

おおお!すごい。

あきひろさん

第一希望を親の出身地でもある上士幌町にしたんですよ。当時、士幌線に乗って面接を受けにきて、面接のあと帰りの列車を待つのにすぐ近くあった親の家で待っていたら電話がかかってきて、「斉藤くん、内定したから、うちに来てくれ」ってすぐに言ってもらって。

ななこ

早い!おめでとうございます!

あきひろさん

そして、4月に上士幌町にやってきました。入庁してすぐに役場の野球部に入ったんだ。僕が社会人になった昭和50年から平成の初めくらいまでは役場に入った若い職員はみんな野球チームに入る文化みたいなものがあったんだよ。いわゆる野球ブームだね。

ななこ

そうなんですね。

あきひろさん

ええ、その中で交流が生まれるんです。例えば、役場にいても教育委員会にいる人と総務課にいる人とでは建物も違うから、普段は接点がないんだけれど、みんなほとんど毎日グラウンドに来て野球やってたんだよね。そこで話の場が生まれ、チームワークも育まれていたんです。

ななこ

毎日ですか!すごい、素敵。

あきひろさん

野球部に入ってるんだけど、飲み会しか出てこない人もいたし(笑)。でもそれはそれでいいのさ。どこか遠征や試合に一緒に行ったときにボールや道具を運んだりするだけでもいいから、入って一緒に活動していたんだよね。

ななこ

なるほど。

あきひろさん

ただ、野球はレギュラーで試合に出れるのは9人だから、補欠を入れてもチームは15人くらいでいいんだけど。あの当時は25〜26人いたね(笑)。

ななこ

大所帯だ(笑)。

あきひろさん

そうそう、飲んだり食べたりするときは必ず出ておいで〜ってやってた。そこで話すことによっていろいろ交流できるしね。仕事の後の一番の楽しみがみんなで一緒に飲みに行くことだったな。

ななこ

本当、楽しそうです。

あきひろさん

楽しかったね、そのときはね。

ななこ

今なかなかね、仕事してから飲みに行く若者が減っちゃいましたよね。

あきひろさん

そうだねえ。減ってきてるんじゃないかなあ。

ななこ

今はわざわざ職場の人とプライベートを過ごすことをしない気がします。でも当時のお話を聞くと、職場の人だけど、野球のチームのメンバーという認識もあったんだろうなあと思います。

あきひろさん

そうだね。

ななこ

そしたら、仕事の話をしなくても一緒に飲みに行けて、野球の話をしていたら楽しいだろうなって思います。

あきひろさん

本当にそうだね(笑)。

上士幌町役場としての成績も各自治体(200以上)の中で全道大会3回出場、十勝町村対抗野球トーナメントで3度の準優勝

ご夫婦円満の秘訣① 「お互いの好き・苦手を補い合うこと」

ななこ

今日はお二人の夫婦円満の秘訣もお聞きしたいと思っていたのですが、まずは二人の馴れ初めを伺いたいです!

あきひろさん

僕の同級生が家内の妹で、ご縁があって出逢って。そして、僕が22歳、家内は一つ上の23歳で結婚したね。

ななこ

えーー!早い!私の歳です。今ちょうど22歳なので。

あきひろさん

そうだよね、若いよね(笑)。

ななこ

その頃からずーっと今まで一緒にいるんですもんね。

あつこさん

そうだよ〜(笑)。

ななこ

ご夫婦がこんなにずっといて仲がいいのって、本当にすごいことだと思うんです。喧嘩とかしないんですか?

あつこさん

めったにしない。1回か2回か大喧嘩した?かな(笑)。

ななこ

長続きの秘訣は?

あきひろさん

昔、先輩に言われたのは「相手を見るときには片目をつぶって見なさい。両目でしっかり見るんじゃない」って。あんまり細かいところまで見ないで、ある程度大きく見て、細々したことは言わない方がいいよっていう。

ななこ

なるほど、勉強になります。

あきひろさん

はは(笑)。あんまり気にしちゃうとね、そのことで喧嘩になったりしちゃうから。人間は感情の動物だから、細かいことを言われると面白くない部分もあるから、言わないようにするのもあるし、言われたくもないなって。

ななこ

うんうん。

あきひろさん

退職してからは、外回りの庭仕事と朝の掃除は僕がやっているんです。「食事を作って」とも言われるんですけど、それはなかなかできない(笑)。

ななこ

そこまでされてるのが、すごいです。

あきひろさん

僕は掃除は苦にならないんだけど、奥さんは料理や洗濯が好きなんですよね。だからいつもしてくれるよ。だけど片付けがあんまり得意じゃないの。だから、片付けや掃除は僕がやるようにしています。

ななこ

あはは(笑)。お互いに補い合っていて、素敵ですね。

あつこさん

それでも私がいないときには洗濯を頑張って覚えて回してくれたり、干すのを手伝ってくれたりするものね。シワが伸びてないからちょっと気になったりはするけど(笑)。まずは「ありがとう」を言うのが先だね。

ななこ

うんうん。 

あつこさん

やってくれたら助かるし、最近は洗い物とかもやってくれるし。私がのほほんとしたいときもあるので、ありがたいです。私が疲れて帰ってきてご飯も作りたくないときは、旦那が「ちょっと食べにいこっか!」って言ってくれるので、それで一緒に行ったり。

ななこ

え〜もう、優しいですね。

あつこさん

そう、だからやりたくないときは察知してくれるので(笑)。

あきひろさん

言わなくてもね。

ななこ

ダンディーだ。かっこいい。

ご夫婦円満の秘訣②「お互いに尊敬し続けていること」

あつこさん

今まで話したみたいにお父さんは、ありがとうと気配りがよくできる人ですね。

ななこ

そうやって口に出すことって難しいけど、大切ですよね。

あつこさん

うん。あと、本をたくさん読むんですよ。そうやっていつも学んで、そのことを整理整頓できるからすごい。私には真似できないので(笑)。仕事で部署が変わっても、毎回すごく勉強して適応していくんです。

ななこ

お父さんの部屋の膨大な資料が、綺麗にまとまっているのを見て、その凄さが伝わってきます。

あつこさん

本当に、こんなことよくできるな〜って思いながら尊敬しちゃいます。

ななこ

本当に素敵な関係性ですね。反対に明宏さんから見て敦子さんの何がすごいんでしょう?

あきひろさん

この人はね、免許をたくさん持ってるんですよ。調理師免許、着物の着付け、介護福祉士、ケアマネージャーの資格も持っています。

ななこ

えーすごい!敦子さんも勉強家ですね。

あきひろさん

そう(笑)。免許でいったら僕は普通運転免許証しか持っていないんですけど、国家資格の免許でいったらお母さんの方がすごい持ってるんですよ。だから絶対どこでもやっていける人なんです。

ななこ

本当ですよね。免許は社会人になってから取られたんですか?

あつこさん

そうですね。

ななこ

すごい!どの免許が一番大変だったんですか?

あつこさん

介護福祉士は教科がたくさんあって大変だったかな。一次試験を受かった後に、実技もあったから大変だった記憶があります。

ななこ

資格を取り出したのは何がきっかけだったんですか?

あつこさん

役場で異動になって、町民課に移ってホームヘルパーの仕事を10年やったんですけど、そのときに仕事をするには勉強していかなきゃならないって思って。どこに行ってもそうだけど、その仕事に必要な知識は持っていた方がいいと思ったんです。

ななこ

なるほど。

あつこさん

そうやって勉強して資格を取っていたら、取りたい免許が増えてきたんです。その頃も、旦那は何も言わず協力してくれてね。

あきひろさん

その頃は僕も仕事が忙しかったからね。

あつこさん

忙しい合間を縫って趣味もさまざまと楽しんでましたね。着物や紙粘土をしてみたり。ビーズアクセサリーをやっているうちに、サポートセンターからお手伝いに呼んでいただいたりしていますね。趣味もこうしてつながっていくので面白いですよね。

ななこ

いろいろとされていてすごいです。

あつこさん

そんな感じで今は私の方が家にいないかもね。でも、楽しんでやってる感じかな!

ななこ

そうだねえ。多趣味で、努力する人ですよね。

ご夫婦円満の秘訣③ 「なんでも“一緒に”すること」

あきひろさん

趣味もね、僕がゴルフをやりはじめたら、彼女もゴルフに一緒に行くんですよ。自転車も。スキーなんて僕よりも上手かったりします。

あつこさん

なるべくね、これをやろうってなったら「じゃあ私も一緒にやろうかな!」という感じで。そうすると、“一緒に”共有できるじゃないですか。趣味の買い物なんかも、一緒に選んだりできるし。

ななこ

楽しいですよね。

あつこさん

お父さんは、仕事もそうだけど調べたり前準備がすごいんですよね。私は調べないから、その辺ちょっと違うけれども、一緒にいろんな部分でやってるかなあって思う。

ななこ

ここでもまたいいバランスですね。

あきひろさん

キャンプにも行ったりして。そのときはレモンちゃん(わんちゃん)も連れて行けるし。

あきひろさん

野球も一緒に見に行っていて、今はプロ野球の日本ハムファイターズを応援してるんだよね。

あつこさん

毎年、札幌ドームに観に行ってるね。2020年はいろんな機会がなくなっちゃってしまったので残念ですけどね。

マツダスタジアム  (2018.6)
ななこ

また、いろんなところに行ける日々が戻ってくるといいですね。

あつこさん

本当に、そんな日が楽しみです。

ずっと仲良し夫婦でいるには相手を思いやる心が大切。お互いを尊敬し、それを言葉にして伝え合えるお二人を見て感じたことです。苦手なことや大変なときは助け合って、楽しいことや幸せなときはいつも一緒に。そんなお二人の関係に憧れを抱きました。

明宏さん、敦子さん、ありがとうございました!ずっとずっと素敵な仲良しご夫婦でいてください!

「未来に向けて資料を残す」ひがし大雪自然館で、学芸員の仕事体験

東大雪の自然や生態系が学べるひがし大雪自然館。以前訪れた際には、学芸員さんの案内によるバックヤードツアーにも参加させていただき、糠平の大自然に心を打たれました。学芸員の仕事は、調査研究や資料の保存のほか、展示や教育普及など多岐に渡っています。そんな学芸員の仕事に興味を持った僕は、ひがし大雪自然館で、学芸員の仕事の一つである資料整理をお手伝いすることができると聞き、1日体験をしてきました。


WRITER

瀬谷 友啓

JICA訓練生。栃木県出身。自然溢れる北の大地で景色を楽しみ、人と話し、美味しいものを食べる。さまざまな機会に触れて、町の魅力を感じて自分の言葉で伝えることができたらいいなと思っています。


参考記事「東大雪の自然、世界の昆虫、そしてバックヤードへ!ひがし大雪自然館」

本日の作業内容

今回は、図書館や道の駅など、他の施設に貸し出していた自然館の資料を、保管庫にある標本箱に戻す作業をしました。実は自然館のバックヤードには普段展示している資料の数十倍の資料が保存されていて、必要に応じて他施設に貸し出されていたりするのです。資料をきっちりと保存し、後世のために残すことは、博物館の重要な仕事の一つなのです。

今日作業を行う標本箱

与えられた仕事内容を聞いたときは「1日あれば終わるのかな」と思いましたが、学芸員の乙幡さんから「慣れていないと1日では終わらないよ」と言われました。乙幡さんにかかれば数時間で終わるそうです。なんとか頑張りたいと思います。

まずはデータベースで検索

時刻は10時。早速作業を始めます。

資料にはそれぞれに番号が割り振られ、さまざまな情報が紐づけられています。番号をデーターベースで検索すると、その資料の学名や採取地など詳細なデータを確認することができます。

資料の中には番号が割り振られていないもの、番号のラベルが紛失したもの、検索しても詳細なデータが入力されていないものもあります。例えば資料に番号が割り振られていない場合、保管されていても探すことが難しくなり、見つけることができない可能性が極めて高くなるそうです。

データベースから必要な資料の番号を検索して、保管場所を見つけます。

100以上ある保管庫の中から特定の資料を探すのは骨が折れます。

探していた番号がありました!

細心の注意を払い、コツコツと作業

次に展示用の箱に入っている資料を、元の標本箱に戻します。

資料を壊さないように気をつけながら、ピンを抜き、元の箱に戻します。

このとき手元を注意していても、服の袖や、首にかけている名札が当たり壊れてしまうことがあるそうで細心の注意が必要です。

今回はピンセットと、平均台と呼ばれる道具を使用しました。ピンセットは、細かい作業をするときに使います。ほかの資料と接触して破損しないようにするためです。平均台は、資料に付けるラベルの高さを合わせるための道具です。

上ピンセット、下平均台

コツコツ作業を進めていると、あっという間に2時間が過ぎました。たしかにこれは1日で終わらなさそう…。

お昼休憩を挟み、午後も引き続き同様の作業を行います。

徐々に慣れてきて、どこにどの資料があるか把握できるようになってきました。

本日の標本の中で一際大きなものがありました。ナナフシです。ピンの刺さっているところが中心かと思いきやそうではありません。広げられた羽根にも注意が必要で、持ち上げるだけで一苦労です。

ここは乙幡さんに頼りました。手際よく、数分で作業を終えていました。

先ほど登場した平均台の出番です。ラベルの位置を平均台を使って確認します。

資料を整理するときに、ポイントを教えていただきました。

頭の位置で揃えると綺麗に見えます。

ここで作業を終了する時間となりました。

5年先、10年先を考える仕事

1日の体験でしたが、あっという間に時間が過ぎてしまい、3箱分しか整理できませんでした。一度出した標本箱を戻す作業も大変です。しかし僕自身は好きな生き物に囲まれ、楽しい時間を過ごすことができました。自分の好きな昆虫を見つけたときは、見入ってしまうこともありました。

この作業を通して、学芸員という仕事は質を落とさないように資料を保存し、その価値を後世に伝えていく重要な役割を担っていると感じました。

何万点と数え切れない資料の管理は手作業で行うことが多く、その数も時とともに日々積み重なっていきます。「5年、10年先を考えてやることが大切」と乙幡さんはおっしゃっていましたが、その言葉の意味を知ることがました。

学芸員の資格取得者は1年で約10,000人ほどいると言われていますが、実際に学芸員として活躍できる人は少なく、その割合は1%に満たないそうです。経験と知識が求められ、仕事は大変なこともありますが、意義深い仕事だと感じました。未来に向けて資料を保存する重要な仕事を体験することができて幸せでした。

この資料整理は、ボランティアとして体験することができるそうです。興味のある方は、ひがし大雪自然館に問い合わせてみてください。

ありがとうございました!

【ひがし大雪自然館】
ttps://www.ht-shizenkan.com/
開館時間:9:00〜17:00
休館日:毎週水曜日
入館料:無料
電話:01564-4-2323

クラフトキッチン「のはらのカフェ」~子どもから大人まで、みんなのあそび場として人々に愛される憩いの空間~

上士幌町でクラフトキッチンというスパイス専門店を営む齋藤肇さん。今回、私たちは肇さんがクラフトキッチンで開催したイベント「のはらのカフェ」にお手伝いとして参加しました。このイベントは肇さんのスパイス販売の拠点であるクラフトキッチンが1日限りのカフェとしてOPENするというもの。カフェでは肇さんのつくるスパイスを使った料理、町内こだわりの作り手さんたちの手づくりお菓子や手づくりパンなどがいただけます。そこにはどんなカフェとも違う、肇さんがつくりだす非常にユニークで楽しい空間が広がっていました。今回はそんな「のはらのカフェ」での1日をレポートしていきます。


WRITER

中山 舞子(なかやま まいこ)

1992年生まれ。千葉県在住。青年海外協力隊としてインドに派遣予定。海外派遣の目途がたたない現在、上士幌町に5ヶ月間滞在中。外からの目線で上士幌の魅力を掘り下げて行きます!


仕込み作業開始!

朝8時に集合すると、すでにクラフトキッチンのスタッフが準備を始めていました。私たちもさっそく調理と設営のお手伝いに取り掛かかります!

まずは野菜を切るお手伝いから。ちょっと味見をさせていただいた、地元の農家さんからもらったというトウモロコシの甘さに衝撃!こんな甘いトウモロコシを食べたのは初めてです。

「とにかく素材が美味しいから同じように調理しても格段に料理が美味しくなるの」

以前そう肇さんが話していたのを思い出します。

肇さんは独自のスパイスを使ってまるで魔法のように次々に鍋の中の具材を変身させていきます。焦げない絶妙なタイミングを見計らって、お鍋をまぜまぜ。

パンの作り手である鎌田香奈さんの作業場にもおじゃましました。

なんと酵母は自家製。近所の方からもらったベリーや木の実、無農薬レモンなどでつくるそうです。発酵はそのときの気候や酵母によってかかる時間が大きく変わるそうなのですが、このときは一次発酵で大体9時間程度。かなり手間がかかっています。

さて、長い時間をかけてじっくり煮込んだお鍋料理が出来上がりました!

特製チリビーンズ。本場メキシコで味わえるかのようなエキゾチックな香りが広がります。

こちらに入っているスパイスは肇さん特製のメキシカンチリミックス。

こちらはクラフトキッチンの定番メニュー。バターチキンカレー。

クローブ・コリアンダー・カイエンヌペッパー・カスリメティなど、本格的なホールスパイスを使ってじっくり煮込んだインドカレーです。さらにこのカレーには「子ども用熟成カレーパウダー」が使われているので、お子さんも食べられるまろやかな優しい味わいです。この子ども用スパイスは、肇さんがママたちから「子どもが食べられる辛くないカレーパウダーがほしい」という悩みがあるのを聞き、独自で開発したものです。

お鍋料理が続々と出来上がってくる頃、鎌田さんのパンの香ばしい匂いが漂ってきました。今回店頭に並ぶのはプレーンのバケットとナッツやベリーが入ったパンの二種類です。

ようやくすべての料理が完成したときにはすでにオープン間近。みんなで協力しながら出来上がった料理を急いで外に並べていきます。

いよいよ「のはらのカフェ」のオープン!

開店と同時にさっそくお客様が来店。見たことのないメニューに戸惑いながらも、スパイス入りミルクのコーヒーと手作り蒸しパンを買って席につき、その独特なスパイスの香りを楽しんでいます。

料理は店の前に設営したテントで来客者に提供します。テントの中では手伝いに来てくれている高校生が、料理を用意しています。メニューは特製バターチキンカレー、チリビーンズ、ジャンバラヤ。その他サイドメニューと、上士幌町内の作り手さんたちの手づくりおやつがあります。

オープンから間もなく、あっという間にお客様でいっぱいになりました。地元の子供からお年寄りまで、はたまた神奈川県から糠平に観光に来たというカップルなど、多種多様な人たちがそれぞれ思い思いにのはらのカフェという空間を楽しんでいます。

のはらのカフェの見どころは手づくりのごはんやおやつだけではありません。お隣のはげあん診療所のお庭がこのときだけ解放されており、その広いお庭で自由にピクニックができるのも魅力の一つ。

はげあん診療所の安藤先生は自給自足の生活をしており、家庭菜園を見るだけで楽しい。さらには、ガチョウ・やぎ・鶏など数多くの動物も暮らしており、触れあうこともできます。この日のお庭ではギタリストである肇さんのご主人・栄さんとトランペットを吹く安藤先生が奏でる音楽が流れ、また庭の一角には移動書店の鈴木書店さんも出店されていました。

午後3時頃になってようやく私たちも一息。心地よい風の吹くお庭で肇さんお手製のバターチキンカレーと自家製ジンジャエールをいただきます。バターチキンカレーは、まろやかな優しい味わいの中にスパイスの香りが絶妙なバランスで合わさっています。美味しい!自家製ジンジャエールは生のショウガがたっぷり入っていて、このピリピリ感がたまりません!

たっぷりの生姜と複数のスパイスが入ったクラフトキッチンオリジナルのジンジャエール。自宅で作れるキットもあります。

トランペットの音、ヤギの鳴き声、子供たちが野原をかけ回る声、さまざまな音色が重なり合います。

「心地良い音楽、おいしい食べ物、自然に囲まれ、本当にいい時間を過ごすことができました」

そう話してくれた来訪者もとっても満足そう。

それぞれの「好き」で人と人とが繋がれる場所、のはらのカフェはそんなところ。肇さんによってつくり出される空間は、まるで彼女が調合したスパイスのようにどこか刺激的で、それでいてアロマのように癒されます。

子どもたちがのびのびと遊べる広いお庭と、完全バリアフリーの高齢者に配慮された店内。のはらのカフェは「こどもも大人もみんなが楽しめてゆっくりできるあそび場をつくりたい」という、肇さんの思いが形となった場所でした。

皆さんもぜひ一度、「肇さんのあそび場」で一息ついてみませんか?そこにはいつだって癒されるスパイスの香りと人々の笑顔が広がっていることでしょう。

【クラフトキッチン】
〒080-1408
北海道河東郡上士幌町上士幌138-4
電話:01564-7-7207
営業日:10:00-16:00(不定休)※営業日は問い合わせください
URL:https://tabi-spice.com/

イベント情報などはSNSから常時発信しています!
Facebook: https://www.facebook.com/kamishihoro.craftkitchen/
Instagram: https://www.instagram.com/craftkitchen_kei

JICA訓練生「海外派遣前特別訓練」最終活動報告

2020年8月27日〜2021年2月3日までの約5カ月間、JICA海外協力隊の訓練生4名が、海外派遣前特別訓練として上士幌町に滞在しました。

前半は「MY MICHI プロジェクト」に第0期生としてモニター参加し、さまざまなプログラムを体験。多くの町民と触れ合うとともに、その後のプログラム作りにも携わりました。

後半は「かみしほろ人材センター」の会員として活動し、町の人たちから困りごとなどをヒアリング。それぞれが自分の得意なことを活かしてそれらの手助けを行いました。

「上士幌町の人たちにはいつも元気をもらっていた。ここでの活動は一生の宝物」
「上士幌町に来て、これまでの価値観が大きく変わった。人とのつながりの大切さに気づいた」
「海外派遣前に非常に貴重な経験ができた。海外に行ってもこの経験を糧に頑張りたい」
「上士幌町の経験を通じて、自分が好きなものが再認識できたことで、自分がこれから進んでいく道が見えてきた」

活動を終えた4名は、それぞれに胸の内を語ってくれました。上士幌町での経験は、これから海外へ旅立つ訓練生たちにとって非常に有意義な時間となったようです。

また活動を終えた訓練生たちは、滞在中に出会った町の人たちの笑顔の写真を撮り集め、素敵な作品として寄贈してくれました。

訓練生たちも「ここでできたつながりを大切にして、これからも継続した関係を築いていきたい」と語ってくれました。

最後に、訓練生たちは上士幌町での活動報告を動画にまとめています。どんな活動をして、何を得たのか。ぜひご覧ください!

「優しさの拠点」となる助産院をつくりたい~渡辺 雅美さん~

「地域に溶け込んだ『町の助産師さん』を目指したい」。そんな思いで助産院の開業を決意した渡辺雅美さんは、2020年度「かみしほろ起業塾」を受講し、最優秀賞を獲得しました。2021年度の開業に向けて準備を進めている渡辺さんの胸にある思いとは――。(制作:ホロロジー編集部)

追記:2021年10月に開院されました。記事の最後に開院された記事のリンクがあるのでぜひそちらもご覧ください。


助産師

渡辺 雅美さん

|わたなべ・まさみ|1980年生まれ、岡山県出身。本州の病院で看護師・助産師として勤務。2020年に上士幌町へ移住。子育て世代の移住が増えている上士幌町で、周囲に家族や頼れる人がいない状況で子育てをしているママたちを見て、ママが孤立しない環境づくりの必要性を強く感じ、助産院の開業を決意。ママたちが安心して子育てができるよう、妊娠、出産、育児までをトータルで支援する助産師を目指している。


2020年に岡山県から上士幌町に移住してきた渡辺雅美さんは、町に助産院を開業したいとの思いから2020年度「かみしほろ起業塾」を受講しました。

渡辺さんは、総合病院で15年間助産師として勤務。その間に1,000件以上の出産に立ち会ってきました。また、妊婦さんや産後のママの育児相談などにも応じ、3,000人以上の声に耳を傾けてきました。

移住後、渡辺さんは健康増進センターに勤務するとともに、まちづくり会社が主催する「ママのHOTステーション」に助産師として参加。町の産前産後のママたちに接してきました。そのなかで「上士幌町には助産院が必要」と思うようになったといいます。

ママたちが安心できる環境を整えたい

「上士幌町は子育て世代の移住者が多いと聞いていましたが、実際にそうですね。話を聞くと、周りに家族や頼れる人がいない状況で子育てをしているママたちも多く、孤独を感じたことがあるという声を多く聞きました。そんなママたちの孤立を防いで、妊娠期から産後に至るまでママたちが安心できる環境を整えたい、そのサポートをするための助産院をつくりたいと思いました」と渡辺さん。

現在、十勝管内で産前産後ママの身体面や精神面をサポートする助産院は、帯広市、音更町、芽室町にあります。ですが、いずれの助産院に通うとしても上士幌町からは片道約1時間の距離。

「妊娠中にお腹の張りを感じたときに、病院に行くべきか迷ってしまった」
「産院が遠いので、受診をためらってしまう」
「産後、乳腺炎になってしまい体調が悪い中で赤ちゃんを連れて病院に行くのがつらかった」

上士幌町で出産育児を経験したママたちから聞いたそんな声も、渡辺さんの背中を後押ししました。

町に自然と溶け込む助産院を目指したい

「ママたちの声を聞いたこともありますが、この町の雰囲気も開業を決意した理由の一つです。上士幌町は穏やかで優しい人が多く、自分にできないことがあっても、周りにはそれを手伝ってくれる人がいる。競争するのではなく、お互いが支え合いながら活かし合っていく風土があると思う。そんな町だから開業したいと思えたんです」

渡辺さんは「かみしほろ起業塾」を受講しながら、町内でのサービスだけでなく、オンラインを活用した相談会や動画教材の販売など、地域に制限されないサービスを組み立てていきます。結果、2020年度の最優秀賞を獲得しました.

渡辺さんが目指す助産院は「家族がかかりつけの助産院であること。夫婦のパートナーシップが育める場所であること。ママの心も体も休まる場所であること。優しさが循環する拠点となること」。

そして何よりも「幸せな家族を増やすこと」。

そんな志をもつ渡辺さんですが、気負うことなく2021年度の開業に向けて準備を進めています。

「『私がやらなきゃ!』とか『やるぞ!』といった使命感からではなく、この町のママたちと接していて、自然と開業しようという気持ちになったんですよね。なので、これから開業する助産院も、町に自然に馴染むような、そんな場所にしたいと思っています」

妊娠から出産、育児までをトータルで支援する助産師は、町に住むママたちにとってとても心強い存在となるに違いありません。地域に溶け込んだ「町の助産師さん」として活動していく。それが渡辺さんの願いです。

-上士幌町にマミー助産院が開院!

上士幌町にマミー助産院が開院!

糠平温泉を次世代に続く、元気で豊かな温泉集落に~上村 潤也さん~

「ぬかびら源泉郷をもっと魅力的な地域にしたい。魅力を伝えたい」。上士幌町・ぬかびら源泉郷地区でネイチャーガイドをしている上村潤也さんは、ガイド業の傍らで地域活動に取り組んでいます。「まずは自分のできる範囲で」という上村さんの活動とは。(制作:ホロロジー編集部)


ぬかびら地域未来塾

上村 潤也さん

|うえむら・じゅんや|1986年生まれ、大阪府堺市出身。大手IT商社の営業職として帯広で勤務していた際、十勝に魅了されて移住を決断。大学時代に専攻していた「観光」への仕事に携わりたいと、ぬかびら源泉郷に移住。現在はNPOひがし大雪自然ガイドセンターでネイチャーガイドとして仕事をする傍ら、「ぬかびら地域未来塾」を立ち上げ、地域活動を行っている。


「糠平温泉を次世代に続く、元気で豊かな温泉集落にしたい」

そんな思いから、ぬかびら源泉郷で地域活動に取り組んでいる上村潤也さん。2013年にぬかびら源泉郷に移住し、ネイチャーガイドとして仕事をしています。

ぬかびら源泉郷の自然に惹かれて移住を決断した上村さんですが、地域住民の高齢化や若者世代の減少などにより地域に活気がなくなってきていることを憂えていました。かつては鉄道が敷かれ、スキー場建設やダム建設で人が集まり活気のあったぬかびら源泉郷ですが、時代とともに人口減少が加速していたのです。

「ぬかびら地域未来塾」を設立、地域活動を開始

「このままでは大好きなぬかびら源泉郷が衰退していってしまう。何か行動を起こさなければ」

そう考えた上村さんは、任意団体「ぬかびら地域未来塾」を設立。ネイチャーガイドの仕事しながら地域活動をはじめました。

「移住した当初から、観光の仕事に携わりながら、まちづくりに貢献したいという思いがありました。ぬかびら源泉郷のような小さな町であれば、それが実現できると思いました」と上村さんは話します。

上村さんがまず手がけているのが「地域観光資源の整備」です。草木が生い茂り景観が失われてしまった場所などを整備して、再び観光スポットとして蘇らせる活動を行っています。それも町の補助金などは使わずに自分たちの手で進めています。

「ぬかびら源泉郷にはすごく景観の良い場所がたくさんあるんです。それを取り戻したいと思いました。僕の本業はあくまでネイチャーガイドですので、まずは自分のできる範囲から始めようと、ガイド業の合間で活動しています」

なかには、ぬかびら源泉郷の住民だけでなく、上士幌市街地に住む人たちと一緒に整備した場所もあり、「ぬかびらの住民と市街地の皆さんをつないで交流が生まれた」ことも、この活動を通じての収穫の一つといいます。

また、並行して行っているもう一つの活動が、SNSを使ったぬかびら源泉郷の情報発信です。2019年に「ぬかびライフ」というSNSを立ち上げて、町の風景や季節の様子を伝えています。

「ぬかびら源泉郷は万人受けする地域ではないかもしれませんが、この地域が本当に好きというファンは多いんです。そんなファンの皆さんに向けて、地域の情報を伝えたいと思いました」と上村さん。

さらに、将来は自らガイド業を立ち上げることも視野に入れ「かみしほろ起業塾」にも参加。そこで学んだことをもとに、より魅力的なガイドツアーの企画や、観光客が気軽に立ち寄れるカフェバーなど、新しいサービスを検討しています。

まずは自分が動く

そんな上村さんが大切にしているのは「自らが動く」という姿勢です。

「他人を変えることって難しいと思うんです。それならまずは自分が動く。でも決して無理はせず、今できること、小さなことから始めていく。それが少しずつ広がっていけばいいなと思っています」

少しずつ、少しずつ。ぬかびら源泉郷をより魅力ある地域にし、次の世代にもしっかりとつなげていくため、上村さんは活動を続けています。

【ぬかびら地域未来塾(ぬかびライフ)】
URL:https://nukabilife.wixsite.com/nukabilife
Facebook:https://www.facebook.com/nukabilife
Instagram:https://www.instagram.com/nukabilife
Twitter:https://twitter.com/nukabilife

上士幌×音楽で繋がる人たち 〜バンド『G-clef』座談会〜

ホロロジー座談会企画、今回は、『上士幌×音楽』で繋がる人たち。4区にある『すなっく話』を中心に活動するバンド『G-clef』の皆さんに集まっていただきました。2019年に結成した『G-clef』はほとんどのメンバーが上士幌町出身。音楽を始めたきっかけから、上士幌で活動するにあたっての想いを聞きました。


WRITER

苅谷 美紅 (かりや みく)

北海道千歳市出身。テレビ番組ADをしていた東京生活から、青年海外協力隊としてブラジルへ。コロナ帰国後、MY MICHI2期生を経て、取材メンバーとして活動しています。マイブームは朝起きて熱気球を探すこと。


<バンドメンバー>

リーダー/キーボード

岡崎 和恵さん

1963年生まれ。上士幌町出身・在住。「すなっく話」経営、ピアノ講師

 

ギター

髙瀨 悟史さん

1962年生まれ。上士幌町出身・音更町在住。十勝管内小学校勤務

ボーカル

山本 健二さん

1960年生まれ。上士幌出身・在住。山本商会(出光シェル石油 上士幌SS)経営

ベース

高橋 秀和さん

1966年生まれ。上士幌町出身・在住。電気工事士

クラリネット/パーカッション、時々ダンス

高橋 阿紀さん

1986年生まれ。上士幌町出身・在住。かみしほろ情報館勤務

      

ドラム

杉山 雅昭さん

1969年生まれ。上士幌町出身・在住。(株)コントラサービス勤務

ドラム

安田 涼さん

1973年生まれ。2017年に横浜から上士幌町へ移住。(株)生涯活躍のまちかみしほろ勤務

          

メンバーの出会いとバンドの始まり

――このバンドは30代から60 歳を超える方まで幅広い年齢層のメンバーが集まっていますが、どんな繋がりから生まれたんですか?

和恵さん

まず、私と秀和(高橋秀和さん)が姉弟なんですよね。

悟史さん

僕と和恵ちゃんが小・中学校の同級生。僕が新得町でバンドをやっていたときに、そのライブに和恵ちゃんが来ていてね。それを見て「上士幌でもバンドを組むんだけど、ギター弾かない?」って誘われたんだよね。

和恵さん

そう、たまたま遊びに行ってたんだよね。それで声をかけたことが最初のきっかけだったね。健二さんは元々奥さんと仲良くさせてもらっていたんだけど、あるとき歌を聞いたらものすごく上手くて。それでバンド組むときは絶対にボーカルに誘うって決めていた。阿紀ちゃんも前に一緒にやっていたから声をかけてね。

阿紀さん

まだ私が結婚する前でしたよね。

悟史さん

涼さんはたまたま阿紀さんが紹介してくれたんだよね。

涼さん

何かの食事会で阿紀さんと相席になったんですよね。確かそのときに、高校時代にドラムを叩いていたという話をしたんですよ。でも声をかけられたのは、それから1年以上経ってからだったね。

阿紀さん

そう。「涼さん、ドラム経験があるって言っていましたよね?」って。

涼さん

よく覚えていたよね(笑)。

――そういえば、どうしてドラムは2人なんですか?

雅昭さん

涼さんが参加できないときに僕が助っ人で入ったんですよね。和恵さんとも、昔からの音楽仲間だったし。

<バンドメンバー相関図>

悟史さん

メンバーはみんなバンド経験があったけど、健二さんだけ未経験者だったよね。

――初めてのバンドはどうですか?

健二さん

上士幌町で生まれ育って、60年もこの町に住んでいるんだけど、この年齢になって30代や40代の人と一緒にやることがすごく楽しいですね。60歳になっても新しいことができるというワクワク感があります。

阿紀さん

メンバーは和気藹々としてます。

悟史さん

ボーカルが若い人じゃなくて、還暦を過ぎた人がやることに価値があると思うよ。シニア世代に希望を与えられるじゃない。

和恵さん

健二さんは商売をやってるから、お客さんを盛り上げるのが上手いよね。

健二さん

このバンドで初めてチャリティーライブをしたのが2019年の9月で、それが僕の記念すべきバンドデビューだった。

――チャリティーライブですか?

和恵さん

2018年に東胆振の震災があったじゃないですか。それでチャリティーライブをしようということになって、その1年後の9月にやったんですよ。チケット売上の何割かを寄付して。2020年もやりたかったんですけど、コロナウィルスが流行しちゃったから見送ったんですよね。

音楽を始めたきっかけ

――皆さん、音楽を始めたきっかけは?

和恵さん

私はまず親が好きだったね。その影響で小学校の頃からベンチャーズとか聞いていたから。幼稚園のときからオルガン習っていたし、それからエレクトーンを習うようになって、大人になってからは自分が生徒さんに教えるようになって。だから鍵盤は小さいときからずっとやってます。

秀和さん

僕は中学生のときに同級生と初めてバンドを組んだ。高校時代も続けていたけど、社会人になると一度離れちゃった。時々弾いてはいたけれど、ちゃんと再開したのはこのバンドがきっかけだな。

阿紀さん

ブランクがあるのによく弾けてるよね。

秀和さん

昔取った杵柄ってやつだな。昔一生懸命練習したことって、やっているうちに思い出してくるんだよ。

雅昭さん

僕は最初にドラムを叩いたのは中学生のときで、33歳くらいまでバンドやってた。子供ができてから一度ピタッとやらなくなっちゃったんだけど。

涼さん

いわゆるヴィジュアルバンドでドラム叩いてたんですよね?

雅昭さん

当時のリーダーがラジオのDJやっていて、その人を中心に全道をまわっていたね。CDも何枚か作らせてもらって、テレビにも何回か出させてもらったよ。

一同 えー!すごいじゃん!

雅昭さん

涼さんはいつから叩いてるの?

涼さん

僕は高校時代ですね。ディープパープルのコピーから始まって。あとは大学時代に少し。まさか上士幌でバンドやるとは思っていなかったですよ(笑)。

悟史さん

僕は中学3年生のときに同級生の家でフォークギターを触ったのが最初のきっかけだったな。

阿紀さん

私は中学校の吹奏楽部で初めてクラリネットに触った。高校も吹奏楽部で、卒業してからも帯広の吹奏楽団で活動もしていて。その間も何度か和恵さんに誘われましたよね。

和恵さん

そうね、何度か声をかけてるね。(秀和さんと阿紀さんの)子どもたちも音楽好きよね。歌が始まるとよくリズム取っているもの。

阿紀さん

家にも練習用のドラムやキーボードがあるからよく触ってますよ。

秀和さん

スティックで障子は破られたけどね(笑)。

――健二さんは60歳でバンドを始めて、ご家族の反応はどうでしたか?

健二さん

最初は息子も孫も「本当にやるの!?」って驚いてたけど、ライブを見に来てくれて「かっこよかったよ」って言ってくれたことが嬉しかったですね。

和恵さん

良かった。スカウトした甲斐があったわ(笑)。

上士幌で活動する思い

――バンドのコンセプトってあるんですか?

悟史さん

自分たちや客層に合わせて、昭和の歌謡曲やポップスを意識しているんだけど、聞いた人が踊りたくなるような曲を提供することかな。

和恵さん

十勝管内を見れば、昭和の曲が好きな人って、すごくたくさんいるよね。さっきの新得もそうだけど、いろんな町で地元の人がバンドやってる。だから上士幌でも絶対にやりたいって思ってた。

悟史さん

このバンドも、上士幌のまちづくりに少しでも貢献できたらって思うよね。スナックや居酒屋でもっと演奏して、みんなを楽しませることができたらいいなって思う。この「すなっく話」も最初からライブ演奏ができるスペースを作ったんでしょ?

和恵さん

そう。昔からやりたいっていう気持ちはすごくあったから。エレクトーン1台でもいいから置いて何か弾けるようなお店をやってみたいって思ってて。それで自分がお店をやることになったときに、絶対に演奏できるお店にしようって思ったの。

――今はライブも難しい状況ですよね。

秀和さん

今は活動は自粛しているんだけど、悟史さんを中心にして上士幌町をPRできるオリジナル曲を作っています。

――へえ、どんな曲ですか?

悟史さん

今作っているのは『上士幌Tonight』というタイトルで、この店(すなっく話)での男女の関わりをストーリーにした曲。そして、上士幌のご夫婦の愛を歌った『ずっと一緒に上士幌』、ナイタイ高原牧場をモデルにした『ナイタイで逢いたい』っていう曲。上士幌をテーマにしたご当地ソングを、全国に発信できたらと思います。

健二さん

音源を作ったら音楽配信もしたいって話してるよね。たくさんの人に聞いてもらって、皆さんと一緒にまちづくりに役立てたいなと思ってる。

悟史さん

ボーカルが肝心ですから、頑張ってくださいね(笑)。

健二さん

はい(笑)。

みんなで盛り上げていけたらいい

――ほかにもやってみたいことはありますか?

和恵さん

雪が溶けて暖かくなったら、わっか(生涯学習センター)の横のステージで野外ライブやりたいな。

悟史さん

いや、ナイタイ高原で野外フェスでしょ(笑)!

涼さん

ナイタイ高原で『ナイタイに逢いたい』演奏したいですね。

阿紀さん

航空公園は?

悟史さん

バルーンフェスティバルで演奏するのもいいな。実は昔出たことがあるんだ。

雅昭さん

道の駅もできたしね。お願いすれば外で演奏できるんじゃない?

悟史さん

僕は高校から町を出て行ったから、人口が減っていくことを憂えていたけど、今は逆に涼さんのような移住者も増えているじゃない。新しいものもできて町全体が面白くなっていると思うんだ。そんなときにバンドに声をかけてもらって、ふるさとの人たちと繋がっていけるのはすごく嬉しいよ。

涼さん

「すなっく話」も昨年(2020年)の10月にオープンした新しいお店ですしね。

和恵さん

昔に比べたら人口は減っているけど、ただ寂しいって言っていても何にもならないじゃない。だから私にできることをしようって思ったの。

雅昭さん

でも本当に、和恵さんが声をかけてくれたおかげでこのバンドができたからね。

健二さん

新しい生きがいをありがとう。

秀和さん

せっかくお店もできたから、この「すなっく話」が上士幌をテーマにした音楽や文化の発進拠点になっていったら面白いと思う。 

悟史さん

僕も自分の子どもの頃の原体験とか、タウシュベツ川橋梁のような観光資源も題材にした曲を作ってみたいな。町花のすずらんとか熱気球とか、テーマもいろいろあるし。

阿紀さん

みんなで活性化できたらいいですよね。自分たちだけじゃなくて、私たちの音楽を聞いてくれる人たちも含めて盛り上げたい。

和恵さん

そうね、頑張りましょう!

上士幌町で生まれ育ってずっと住んでいる人、本州から上士幌町に移住して来た人、別の町で暮らしていても地元上士幌町に関わりたいと思っている人。年齢が離れていても、「音楽」を通して「上士幌」で繋がっている皆さんがとても素敵に感じた時間でした。皆さんの音楽が、一人でも多くの耳に届くといいなと思います。

バンド『G-clef』の皆さん、ありがとうございました。

神社があることは当たり前じゃない。上士幌神社を守る神主さん

神社という場所は、古来からその地域の人にとって特別な存在として大切にされてきました。今まで私は、神社というのはどこの地域にもある存在だと思っていました。恥ずかしながら神社といえば参拝客としてお参りしたりおみくじを引いたりする場所としか認識しておらず、いわばいつでもどこにでもあるのが当たり前。そんな風に考えていた私ですが、上士幌神社・宮司の山内さんのお話を伺い、その認識を180°改めることになるのでした。


WRITER

須藤 か志こ

釧路市在住の24歳。北海道の各地域に出向き、取材や執筆をしています。この記事の執筆のため、上士幌に初めて訪れ、その面白さに心が惹かれています。

宮司

山内 豊一さん

礼文島出身。札幌でさまざまな仕事を経験した後、神職の道へ。本州での修行時代を経て北海道神宮、帯廣神社に仕えたのち、昭和60年4月1日より上士幌神社の宮司となる。


山内さんのトンデモ修行の日々

上士幌神社を訪ねると、「ようこそいらっしゃいました」とニコニコ出迎えてくれた山内さん。

滅多にお会いすることがない神主さんという職業の方を前に、少し緊張しながら「今回の記事は、どちらかというとポップな感じで考えていて……」と切り出すと、「いいですね!」とまたまたニッコリ。どうやら山内さんは、私がイメージしていた「神主さん」とは、一味違うキャラクターの持ち主のようです。

山内さん

僕は社家の出身ではない神主なんですよ。

須藤か志こ

シャケ……?

山内さん

そう。代々神社に神職として仕える家系のことですね。一応お伝えしておきますが、「神社は一人一家の私的にするべきではない」としてこの制度は明治に廃止されていますが、実際には現在も旧社家の人間が継ぐことが多いと思います。なので、私のように社家の出身ではない人間が神主をしていることは比較的珍しいのではないでしょうか。

須藤か志こ

山内さんは上士幌町の出身なんですか?

山内さん

いえ、礼文島の出身です。私は中学校を卒業したタイミングで礼文島を離れ、札幌へ行きました。札幌でさまざまな職業を経験したあと、姉から「神社に仕えなさい」と言われましてね。当時姉は北海道神宮のガールスカウトに所属していて、その影響から僕を神職にしたかったようなんです。それで姉の言うことを聞き、山形県の神社へ行くことになります。それからそこでの勉強を終え、続いて東京へ。そこでお世話になった宮司さんが、とても厳しいことで有名でして。

須藤か志こ

どんな風に厳しいんですか?

山内さん

神職としての勉強、所作、話し方はもちろん、なんと笑い方まで指導を受けるんですよ。

須藤か志こ

笑い方まで!?

山内さん

なんでも、そこの神社での勉強が続く人は稀で、僕は4年間お世話になったのですがこれは異例だと言われました(笑)。

須藤か志こ

どうしてそこで勉強を続けることができたんでしょう?

山内さん

そうですね……。僕は何かをやるならきちんとやりたいタイプで。そういう性格もあり、続けることができたんでしょうね。

山内さん

そこの宮司さんはお酒も煙草もやらない人だったんです。ご自身に対しても厳しい方でした。ただ、僕は酒も煙草もやるという……(笑)。

須藤か志こ

怒られなかったんですか?(笑)

山内さん

怒られはしないですね。むしろ、宮司さん同士の付き合いの場でお酒が出る場合は、僕が代わりに出席していたくらいでしたから。でもいま思えば、それも一つの勉強として行かせてくれたんだと思います。

須藤か志こ

メリハリがある職場だったんですね。

山内さん

その後、その宮司さんに「お前はもっと勉強するべきだ。大学へ行け」と言われまして。ただ、その頃の僕は「東京でやるべきことはやり切った」と思っていたので、北海道に帰りたいと思っていたんです。だからその大学の入試は一応受けたんですが、全部白紙で出しまして。

須藤か志こ

(絶句)

山内さん

とんでもないですよね(笑)。さすがに大学に呼び出されました。そのことをきっかけに、宮司さんにも「そんなに北海道に帰りたいなら帰れ!」と言われました。しかし北海道でお世話になることができる神社もあまりなくて……。1カ月だけ受け入れてくれる神社があったのですが、北海道に帰ってきたことが姉にバレまして、「北海道神宮で面倒を見てやる」と言ってもらい、札幌へ戻るわけですね。

須藤か志こ

ここまでがたった数年の話ですよね……。すでに記事のボリュームが心配です(笑)。

山内さん

それからやっと札幌に戻ることができたと思ったんですが、続いて帯廣神社から「人手が足りないから手伝ってくれ」と声をかけていただき、異動することになります。

須藤か志こ

神社にも異動があるんですね。

山内さん

帯廣神社では必死に働きました。お社を建て直すこともあり、とても忙しかったんです。ヤンチャだった僕の面影がなくなるくらい(笑)。ここで5年半ほど一生懸命働いたので、「そろそろ札幌に戻れるんじゃないかな」と思っていたら、次は「上士幌神社に行ってくれ」と。

須藤か志こ

ああ、やっと上士幌に!

礼文島から上士幌神社へ

波乱万丈の修行時代を経て、ついに上士幌町の地を踏んだ山内さん。

同じ北海道とはいえ、礼文島出身の山内さんは内陸の上士幌町の文化に戸惑うことも多かったようです。

山内さん

僕が上士幌神社に来た理由は、先代が高齢で退職されるからでした。上士幌町唯一の神社の宮司さんがいなくなっては困るということで、僕がやってきたわけです。

須藤か志こ

知らない土地で、いきなり宮司さんに。

山内さん

そうなんですよ。上士幌町に来たとき、この町の経済状況があまりよくわからなくて戸惑いましたね。僕は海沿いの町の出身ですから、港町でのたくさん物が売り買いされて、派手にお金を使うような経済スタイルはわかるんです。上士幌町は農村地域なので、どちらかというと自給自足、自分たちで食べるものや使うものを育て、自分の家で消費するような生活が中心。なので、最初は探り探りで町の状況を調べ、僕のような経歴の人間の経験を生かせる機会がないか考えていました。

須藤か志こ

なるほど。

山内さん

僕自身は、「せっかくここに来たのだから、旧態依然とした環境を変えたい!」と息巻いていました。上士幌神社がそうだというわけではなく、全国的に神社の世界は旧態依然とした価値観が根付いていたことを知っていたので、自分がその価値観を変えるような先駆けになることができればいいなと思っていたんです。

須藤か志こ

今まで全国を渡り歩いてきた経験を生かすときですね。

山内さん

僕が外から上士幌町に来た人間で、いい意味で地縁に縛られない立場だということもあり、チャンスだと思いました。いかに神主としての職務をまっとうしながら、地元の人を巻き込みながらこの神社をより良くしていくか。これが使命だったわけですね。

須藤か志こ

最初に上士幌町に来たとき、地元の皆さんの反応はいかがでしたか?

山内さん

上士幌町民の皆さんは、「帯広からわざわざ来てくれてありがたい」と言ってくれました。ただ、お寺と神社の違いをあまり意識されていなかったかもしれませんね。あくまで「宗教関係者」という風に僕のことを認識されていたかもしれません。

須藤か志こ

と言うと?

山内さん

お寺に勤めていらしゃるお坊さんは、法事や読経で檀家さんを周られますよね。神社の神主は周らないんです。僕は「そこにある」ということが、神社の役目の一つだと思っています。神社は一つの地域に必ずあり、そこに地元住民がお参りするもの。だからこそ、地元住民で守らなきゃいけないものだと思っているんです。

須藤か志こ

神社は、神主さんだけが守るのではなく、地域全体で守っていくものという意識が大切だということですか?

山内さん

そうです、そうです。神社は無くしちゃいけないものなんですよ。地域ができるときには、最初に神社と学校ができるものなんです。役場などの行政機関はその後についてくるんですね。

須藤か志こ

行政機関と同じくらい大切な施設なんですね。

山内さん

僕はそう思っています。

公開される神社

須藤か志こ

上士幌町の皆さんにもっと神社の重要性を意識してもらうために、どんなことに取り組まれたんでしょうか?

山内さん

一番初めに取り組んだことは、組織づくりですね。

須藤か志こ

おお!

山内さん

これには全町あげて取り組みました。ここで、上士幌町神社の経営状況を公開したんです。

須藤か志こ

ええ!?いいんですか!?

山内さん

もちろんいろいろ言われましたよ。でも、お参りや御祈願で地元の皆さんからお金をいただいている以上、そこについては公開すべきだと私は思っています。それから、地元の皆さんに上士幌神社の経営状況を知ってほしかったということもあるんです。

須藤か志こ

地元の皆さんの反応はいかがでしたか?

山内さん

かなりびっくりしていたようです。皆さん、「こんなに大変だったのに、前の神主さんは一人でやりくりしていたんだ……」とおっしゃっていました。他にも、僕が1日何をしているのか、スケジュールも公開しました。朝は何時に起きて、こういうお務めをして、ということを公開したんです。

須藤か志こ

お話伺っていると、ますます民間企業のようです。

山内さん

今まで見えてこなかった神社のベールを剥いで公開すると、住民の方の神社へのイメージがガラッと変わったんです。「神社ってこんな場所だったんだ」「神主さんはこんなことをしていたんだ」と知ることで、印象が変わったと言ってくださいました。神社があることは「当たり前」かもしれない。だからこそその「当たり前」は、地域で守っていかなきゃいけないものなんです。

いつでも話せる神主さん

そんな上士幌神社で話題なのが、気球のお守り。その見た目の愛らしさから、地元新聞紙を中心に話題となりました。

須藤か志こ

このお守りですが、どういった経緯で作られたものだったんでしょうか?

山内さん

先ほども話した通り、神社と地域は密接に結びついています。この新型コロナウイルスの影響で、少なからず上士幌町もダメージを受けており、以前と比べると町に元気はありません。何か神社として町の助けになれればと思い、制作したものなんです。

須藤か志こ

正直、お守りや絵馬って見た目も少し堅苦しくてあまり買わなかったんですが、思わず手にとってしまう可愛らしさです。こういう新しいことに挑戦するパワーは、どこから湧いてくるんですか?

山内さん

私は「やらない」「やるな」ということは言わないんですよ。「やる」「やってみたらいい」ということばかり伝えています。みんな能書きは思いつくんですよね。でも手を動かしてみないとわからない事があるのではないかと。今まで挑戦してきたこと、すべてそうでした。神社のあれやこれやを公開するなんて前代未聞ですし、ほかにもここでは話せないこともいっぱいあります(笑)。でもまずはやってみることが大事なんじゃないですかね。神社に相談にくる方にも、よくそうやって話していますよ。

須藤か志こ

「神社に相談にくる」?それって一般の方がってことですか?

山内さん

そうですね。地元の方とか。

須藤か志こ

山内さんと話していると忘れそうになりますけれど、私、神主さんって気軽に話せる存在じゃないと思っていました。

山内さん

ああ、そうかもしれませんね。私はよくここで地元の人とお茶をしながら話していますよ。子供から大人まで、いろいろな人が訪ねてくるんですよ。

須藤か志こ

皆さん、どんなことをお話ししていくんですか?

山内さん

まあ、他愛もないことから、いろいろな相談ですね。私のところには、悩みに対して解決策が欲しくていらっしゃる方もいますし、ただただ耳を傾けてほしいという人もいます。それぞれがどんな風に話を聞いてほしいかに合わせて話を聞くように心がけています。

神主って、いつでもここにいる存在かなと思うんですよ。「会いにいける神主」みたいな(笑)。先ほども話した通り、神社は「そこにある」ことが役目の一つですから。だから、神主である僕もいつもいて、気が向いたら話すことができる。そんな風に地域の人に親しみを持ってもらえていたら嬉しいです。

「神社がある」ことは「当たり前」かもしれないけれど、その「当たり前」は誰が作っているのか?そんなことを考えたこともなかった私にとって、今回のインタビューはとても衝撃的でした。

「まちづくりと一緒ですよね。『当たり前』は自然発生するものじゃなくて、誰かが作っているんだから」とインタビュー中にサラッと話す山内さんの言葉を聞いて、身が引き締まる思いです。

「そこにある」ということは、一見すると簡単に見えるかもしれません。しかし、「そこにある」を継続し、次の世代まで繋げていくことは容易なことではありません。思わず「いやあ、本当にすごいですね……」と声を漏らすと、「いや、先代は45年間一人で神主をやっていましたから。僕はまだここへ来てから30年ちょっとしか経っていないので、あと15年経ってから評価してください(笑)」となんでもないように言う山内さん。その言葉一つひとつを、改めて大切に考えていきたいと思うのでした。

上士幌の水は美味しい?水のプロのJICA訓練生が調べてみました!

上士幌町の水が美味しい。それは市販されているミネラルウォーターではなく。蛇口を捻って出てくる「水道水」のことです。そう、ここ上士幌町は、水道水が美味しいのです。私は関東にいたときは水を飲むと言えば「ミネラルウォーターを買っていた」のですが、その習慣が上士幌に来てからはすぐになくなりました。上士幌町の水の美味しさをホームページにアップされている「水質検査結果」から解明してみました。


WRITER

田中 亮 (たなか りょう)

JICA訓練生。1982年生まれ。茨城県出身。自然が好きで、土や水の分析をしてきました。自然豊かな上士幌町に「個性」を感じています。もっともっとこの町の「個性」を発掘していきたいです。


私は前職が分析機関で、水道水や工場排水の成分分析や成績書のチェックなど、水を中心とした仕事をしてきました。年間数百件の成績書のチェックをしていたこともあり、大変興味深く上士幌町の水の検査結果を見ることができました。普段は、水が法律の範囲内に収まっているかどうかを確認するだけだったので、水の美味しさを見つけられることにわくわくしてきます。

そもそも美味しい水って!?

まずは「美味しい水」を簡単に定義していきたいと思います。調べていくと、「おいしい水研究会」という団体が水の美味しさを定義していることを発見しました。

そもそもこの団体は、1985年に日本の水道水の美味しさと背景を調査し、美味しい水の要件を検討するために厚生省(現在の厚生労働省)が設立した団体らしいのです。この団体が、美味しい水の定義を発表しているので、見るべき項目を「上士幌町の水」と「他の都市A、B、Cの水」として比べてみました。

蒸発残留物

蒸発残留物(じょうはつざんりゅうぶつ)とは、水を蒸発させたあとに残る残留物で、この成分は主に水のミネラル分になります。この成分が適度に含まれていれば、コクのあるまろやかな味となりますが、多すぎると渋みや苦味が増してしまうらしいのです。

美味しい水上士幌町A市B市C市
蒸発残留物30~200mg/mL1047491150

上士幌町の水は、美味しい水の範囲内に収まっていることがわかりましたが、どの都市も範囲内に収まっていて蒸発残留物では違いがわかりませんでした。

硬度

次は、硬度(こうど)です。硬度は、カルシウムとマグネシウムの含有量で表します。

硬度が低いと「軟水(なんすい)」と呼ばれ、味にクセがなく素材の味を引き出す料理に向いているとされています。硬度が高いと「硬水(こうすい)」と呼ばれ、洋風の煮込み料理に向いているとされています。

境目については、いろいろな基準がありますが、通常、60㎎/L以下を軟水、60~120㎎/Lを中硬水、120 ~180 mg/Lを硬水、180mg/L以上を超硬水としています。

美味しい水上士幌町A市B市C市
硬度10~100mg/mL29.8274569

これらの情報をもとに見てみると、上士幌町の水は「軟水」に分類され、水の味にクセがないことがわかりました。ちなみに市販されている日本アルプスで採水しているミネラルウォーターも軟水で親しみやすい水だということがわかりました。

残っている塩素濃度が低い

法律では感染症を防ぐ目的から水道水中の塩素濃度を確保しなければならないとされていて、0.1mg/L以上必要とされています。この量が多すぎるといわゆる「カルキ臭」が発生し、水の味が悪くなります。

美味しい水上士幌町A市B市C市
残留塩素0.4mL/L以下0.21.20.80.7

上士幌町の値をみると、とても値が低いことがわかりました。もともときれいな水なので消毒する必要があまりないと思われます。

水温が低い!!

水を美味しく感じる温度は20℃以下だそうです。結果を見てみましょう。

美味しい水上士幌町A市B市C市
採水日8月4日8月4日8月19日6月4日
水温20℃以下13℃23.4℃33.1℃22.1℃

上士幌の水道水は、なんと夏場に採水しても水温が13℃と、気温よりも低いことが判明。他県では20℃よりも高いのに。大雪山系の雪解け水が影響し、夏でもひんやりした水が飲めるんですね。ここは他と比べて顕著に差が出たところでした。

上士幌町の水は自慢できる水です!

今回、水のおいしさ研究会が出している全ての項目については調べることができませんでしたが、全国の水の状況について見ることができました。

日本のどこの都市においても水の基準値は下回っており、日本に住んでいる以上、水道水は安心して飲めることがわかりました。しかし、それ以上に上士幌町の水は、他の都市と比べると、カルキ臭が少なく、水温が低く、飲みやすく「美味しい水」だということがわかりました。

都会にいたときは、夏場、水道をひねっても出てくるのは生ぬるい水だったため、あまり美味しさを感じたことはありませんでしたが、上士幌町に来てからは水が冷たく美味しさを感じています。今後、JICAの活動において海外に出たときに自信をもって上士幌町の水を伝えることができるなと思いました。

皆さん、上士幌町の水は「カルキ臭が少なく、水温が低いので、美味しいんだよ!」と他県の人に自慢できますよ!

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