お父さんとの思い出の庭の手入れを、同じ町民が手助けしてくれた。
まちづくり会社が運営している「かみしほろ人材センター」では、上士幌町の法人や個人から短期で簡単な仕事の依頼を受け、人材センターの会員の方に仕事を行ってもらう仕組みがあります。センターの会員の方には、これまで培ってきた「得意なこと」や「できること」を活かしてもらっています。
お話をお伺いしたのは、自宅の庭の手入れを自身で行うことが難しくなり、他の人にお願いしたいと考えていた坂本キヨコさん。2019年から人材センターに庭の剪定を依頼しています。今回は坂本さんに人材センターを利用しようと思った経緯をお聞きしたのですが、そのうちに今は亡き、ご主人との懐かしいエピソードも聞かせていただくことになりました。(制作:ホロロジー編集部)
自宅に到着すると大きな庭が目の前に広がっており、既に作業も大詰めの状態でした。作業を行っていた寺戸さんにも少しお話を伺った後に、本記事の主役、坂本さんにお話をお聞きしました。
この日作業を担当した寺戸勝広さんの記事はこちら
お父さんの大好きな庭
ゆっくりと玄関に出てこられた坂本さん。ご年齢は90歳を越えたと言います。一歩一歩ゆっくりとした足取りで、開口一番「よく来たね」と声をかけていただきました。私たちも坂本さんに合わせるように、大きな声でゆっくりとした口調で声を掛けながら、お話は始まりました。
坂本:この庭はね、40年前以上前に作った庭なの。ずいぶん芽登石を入れたよ。山から沢山運んできてね。
――どのような経緯でお庭を作ったんですか?
坂本:お父さん(ご主人)が庭が好きでね。そのころ庭作りが流行っていたのもあるけどね。
――立派なお庭ですよね。
坂本:帯広のよつ葉樹石園さんがお婿さんをもらって、たしか彼が初めて作った庭がここだったはずだよ。でも、もう私のこの年齢では広すぎてね、草むしりばっかりせなきゃいかん。
――1日中ずっと草むしりしてるんですか?
坂本:そうだね。
――昔は家族みんなで庭の手入れをしていたんですか?ご主人がされていたんですか?
坂本:みんなでやってたのさ。お父さんが好きで作った庭だからね。お父さんが居なくなってもう18年になる。そこからは何回も庭の世話は止めようと思ったけど、投げるわけにはいかん。
――ご主人のために今でも庭を綺麗にしているんですね。
坂本:(庭木を)下から切ってしまおうかと思ったけど、嫁さんが「お母さん、父さんが怒るわよ」って言うの。だから、体が動くうちはお父さんのためにも頑張ろうって思ってる。
坂本:でもね、さすがに全てはできないからね。それで人材センターにお願いすることにしたんだ。そしたら庭のことをよく知っている寺戸さんが来てくれて。
――寺戸さんは、坂本さん宅の庭の手入れはやりがいがあるっておっしゃってました。
坂本:寺戸さんは頼もしいよ。
――あの中で一番好きな木はどれですか?
坂本:やっぱりオンコだね。今剪定してるでしょ、オンコの木。
――なんでオンコの木が好きなんですか?
坂本:上に伸びるより、横に広がる方が好きなんだよ。
――ご主人もオンコの木が好きだった?
坂本:うん。なんせ好きだったの。
楽しそうに話をしてくれる坂本さん。特にご主人の庭だからということを大変嬉しそうに話をしてくださいます。ただ、その嬉しそうな顔には少し寂しさも溢れているように感じ、ご主人のお話をもう少し聞いてみることに。
庭を守り抜く
――ご主人とはどこで出会ったんですか?
坂本:地域の催しで、盆踊りがあるでしょ?お父さんは太鼓叩くのが好きだったの。あのねじり鉢巻で、盆踊りのときに太鼓叩いていたんだよね。
――かっこいい!
坂本:格好よかったよ。私の弟が太鼓叩くのが好きだったから、そのときに弟がお父さんと一緒になってね。「お前に姉がいるのか」っていう話になったらしく、そこでお父さんと知り合ったの。小学校のグラウンドでだね。
――素敵な出会いですね!ご主人のお写真はあるんですか?
坂本:壁に掛けてあるよ。
――この写真を撮ったときのことを覚えてますか?
坂本:この庭を作ったときだね。庭を作って喜んで、2人でその石に腰掛けて写してもらった。たしか弟が写したんだ。
――ご夫婦で一緒に庭の作業をしていたんですか?
坂本:うん。庭作って喜んだときだ。
――楽しそう!
坂本:この庭を投げるわけにいかん。だから、今も手入れを頑張ってる。
――ご主人との思い出がたくさん詰まったお庭なんですね。
――ご主人が好きなものってなんでしたか?
坂本:酒だ。一升瓶買ってきたらね、底が見えるまで飲むからね。こっそり鉄の鍋にあけて減らしてた(笑)。あとは旅行が好きだった。うちのお父さんは旅行が大好きでどこでも行ってたよ。私はあんまり好きでなかったけどねえ。
――坂本さんは何が好き?
坂本:昨日娘が買ってきてくれた、なま寿司が好きだ。
――ハハハ(笑)。最後に、坂本さんにとって何が一番幸せですか?
坂本:そうだねえ。お父さんがいたらなあって時々思う。やっぱり寂しいわよ。でもこの庭はね、きれいにしておかないとね。
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愛しそうに庭を見つめる坂本さん。目の前に広がる庭はご主人との思い出がたくさん詰まっており、ご主人そのものだったのです。
町の困りごとを町民の得意なことやできることで補っていく。町の困りごとを解決をする「かみしほろ人材センター」は、人と人とをつなげる仕組みで成り立っているんだと、そんなことを感じることができた時間でした。今後も長くこの庭が元気であることを願っています。
クラフトキッチン「のはらのカフェ」~子どもから大人まで、みんなのあそび場として人々に愛される憩いの空間~
上士幌町でクラフトキッチンというスパイス専門店を営む齋藤肇さん。今回、私たちは肇さんがクラフトキッチンで開催したイベント「のはらのカフェ」にお手伝いとして参加しました。このイベントは肇さんのスパイス販売の拠点であるクラフトキッチンが1日限りのカフェとしてOPENするというもの。カフェでは肇さんのつくるスパイスを使った料理、町内こだわりの作り手さんたちの手づくりお菓子や手づくりパンなどがいただけます。そこにはどんなカフェとも違う、肇さんがつくりだす非常にユニークで楽しい空間が広がっていました。今回はそんな「のはらのカフェ」での1日をレポートしていきます。
WRITER
中山 舞子(なかやま まいこ)
1992年生まれ。千葉県在住。青年海外協力隊としてインドに派遣予定。海外派遣の目途がたたない現在、上士幌町に5ヶ月間滞在中。外からの目線で上士幌の魅力を掘り下げて行きます!
仕込み作業開始!
朝8時に集合すると、すでにクラフトキッチンのスタッフが準備を始めていました。私たちもさっそく調理と設営のお手伝いに取り掛かかります!
まずは野菜を切るお手伝いから。ちょっと味見をさせていただいた、地元の農家さんからもらったというトウモロコシの甘さに衝撃!こんな甘いトウモロコシを食べたのは初めてです。
「とにかく素材が美味しいから同じように調理しても格段に料理が美味しくなるの」
以前そう肇さんが話していたのを思い出します。
肇さんは独自のスパイスを使ってまるで魔法のように次々に鍋の中の具材を変身させていきます。焦げない絶妙なタイミングを見計らって、お鍋をまぜまぜ。
パンの作り手である鎌田香奈さんの作業場にもおじゃましました。
なんと酵母は自家製。近所の方からもらったベリーや木の実、無農薬レモンなどでつくるそうです。発酵はそのときの気候や酵母によってかかる時間が大きく変わるそうなのですが、このときは一次発酵で大体9時間程度。かなり手間がかかっています。
さて、長い時間をかけてじっくり煮込んだお鍋料理が出来上がりました!
特製チリビーンズ。本場メキシコで味わえるかのようなエキゾチックな香りが広がります。
こちらに入っているスパイスは肇さん特製のメキシカンチリミックス。
こちらはクラフトキッチンの定番メニュー。バターチキンカレー。
クローブ・コリアンダー・カイエンヌペッパー・カスリメティなど、本格的なホールスパイスを使ってじっくり煮込んだインドカレーです。さらにこのカレーには「子ども用熟成カレーパウダー」が使われているので、お子さんも食べられるまろやかな優しい味わいです。この子ども用スパイスは、肇さんがママたちから「子どもが食べられる辛くないカレーパウダーがほしい」という悩みがあるのを聞き、独自で開発したものです。
お鍋料理が続々と出来上がってくる頃、鎌田さんのパンの香ばしい匂いが漂ってきました。今回店頭に並ぶのはプレーンのバケットとナッツやベリーが入ったパンの二種類です。
ようやくすべての料理が完成したときにはすでにオープン間近。みんなで協力しながら出来上がった料理を急いで外に並べていきます。
いよいよ「のはらのカフェ」のオープン!
開店と同時にさっそくお客様が来店。見たことのないメニューに戸惑いながらも、スパイス入りミルクのコーヒーと手作り蒸しパンを買って席につき、その独特なスパイスの香りを楽しんでいます。
料理は店の前に設営したテントで来客者に提供します。テントの中では手伝いに来てくれている高校生が、料理を用意しています。メニューは特製バターチキンカレー、チリビーンズ、ジャンバラヤ。その他サイドメニューと、上士幌町内の作り手さんたちの手づくりおやつがあります。
オープンから間もなく、あっという間にお客様でいっぱいになりました。地元の子供からお年寄りまで、はたまた神奈川県から糠平に観光に来たというカップルなど、多種多様な人たちがそれぞれ思い思いにのはらのカフェという空間を楽しんでいます。
のはらのカフェの見どころは手づくりのごはんやおやつだけではありません。お隣のはげあん診療所のお庭がこのときだけ解放されており、その広いお庭で自由にピクニックができるのも魅力の一つ。
はげあん診療所の安藤先生は自給自足の生活をしており、家庭菜園を見るだけで楽しい。さらには、ガチョウ・やぎ・鶏など数多くの動物も暮らしており、触れあうこともできます。この日のお庭ではギタリストである肇さんのご主人・栄さんとトランペットを吹く安藤先生が奏でる音楽が流れ、また庭の一角には移動書店の鈴木書店さんも出店されていました。
午後3時頃になってようやく私たちも一息。心地よい風の吹くお庭で肇さんお手製のバターチキンカレーと自家製ジンジャエールをいただきます。バターチキンカレーは、まろやかな優しい味わいの中にスパイスの香りが絶妙なバランスで合わさっています。美味しい!自家製ジンジャエールは生のショウガがたっぷり入っていて、このピリピリ感がたまりません!
たっぷりの生姜と複数のスパイスが入ったクラフトキッチンオリジナルのジンジャエール。自宅で作れるキットもあります。
トランペットの音、ヤギの鳴き声、子供たちが野原をかけ回る声、さまざまな音色が重なり合います。
「心地良い音楽、おいしい食べ物、自然に囲まれ、本当にいい時間を過ごすことができました」
そう話してくれた来訪者もとっても満足そう。
それぞれの「好き」で人と人とが繋がれる場所、のはらのカフェはそんなところ。肇さんによってつくり出される空間は、まるで彼女が調合したスパイスのようにどこか刺激的で、それでいてアロマのように癒されます。
子どもたちがのびのびと遊べる広いお庭と、完全バリアフリーの高齢者に配慮された店内。のはらのカフェは「こどもも大人もみんなが楽しめてゆっくりできるあそび場をつくりたい」という、肇さんの思いが形となった場所でした。
皆さんもぜひ一度、「肇さんのあそび場」で一息ついてみませんか?そこにはいつだって癒されるスパイスの香りと人々の笑顔が広がっていることでしょう。
【クラフトキッチン】
〒080-1408
北海道河東郡上士幌町上士幌138-4
電話:01564-7-7207
営業日:10:00-16:00(不定休)※営業日は問い合わせください
URL:https://tabi-spice.com/
イベント情報などはSNSから常時発信しています!
Facebook: https://www.facebook.com/kamishihoro.craftkitchen/
Instagram: https://www.instagram.com/craftkitchen_kei
【先人から学ぶ】網走刑務所博物館とオホーツク流氷館を訪問
MYMICHIプロジェクトには「先人から学ぶ」というコンセプトの元、上士幌町民の方々からたくさんのお話を伺うことができます。しかし今日は少し思考を変えて、北海道全体の開拓の歴史について学ぶことに。北海道の開拓の歴史を学べる一つのスポット・網走市にある網走刑務所博物館・北方民族博物館にやってきました。
WRITER
伊藤 卓巳
三重県出身。MYMICHIプログラム2期生。青年海外協力隊としてウズベキスタンで観光業に携わっていましたが、コロナの影響で一時帰国。初上士幌どころか初北海道ですが、壮大な景色と美味しい食事に日々感動中。
監獄食堂で博物館見学前に腹ごしらえ
上士幌町から車で約3時間・網走市内に到着したのが11時半ごろで、お腹がめちゃくちゃ空いてしまいました。ということでまずは博物館網走監獄の見学前にランチを取ることに。
網走監獄の敷地内には、レストラン「監獄食堂」があります、お昼ご飯にぜひ行ってみましょう。名物は何といっても監獄食で、焼きサンマがつく監獄食Aと、
焼きホッケがつく監獄食Bがあります。
微妙な響きの監獄食ですが、サンマもホッケも大ぶりでさすが北海道、大満足の味です。
その他網走のB級グルメ網走ザンギ丼や、網走産豚肉を使った網走ポーク丼もおすすめ!
ポーク丼のどんぶりは、現在の網走刑務所の受刑者が作ったものです。
お腹が一杯になったところで、いよいよ博物館網走監獄の見学スタートです!
博物館網走監獄で北海道開拓の歴史を知る
いよいよ網走監獄の見学スタート!
網走と聞けばまずイメージされるのが刑務所。博物館網走監獄は、明治時代から使われていたかつての刑務所の建物が移築保存された貴重な博物館です。入口から入ってまず目に付くのが、レンガ造りが印象的な風格ある正門。
それをくぐると見えてくるのが、洋風建築風のデザインの庁舎です。言われなければ刑務所の建物だと気づかないほどおしゃれな建物。
館内では刑務所や囚人による北海道開拓の歴史が展示されています。
網走だけではなく、空知や十勝、釧路といった他地域についても詳しく紹介されています。
明治維新後、政府はロシア帝国の脅威に対する防衛の必要に迫られていました。目をつけられたのが当時急増していた政治犯などの囚人で、「囚人を労働に使っても賃金が安く済むし、亡くなったとしても監獄費の節約になる」という今では考えられない理由により、彼らを労働力として北海道の開拓を進めることになったのです。
1881年(明治14年)空知地方に樺戸集治監が作られたのを皮切りに、空知集治監、釧路集治監と次々と監獄が作られ、全国から囚人が集められました。そして1890年(明治23年)、網走刑務所の前身となる網走囚徒外役所が作られたのです。
この展示によれば、北海道全土で囚人たちが開墾した土地の総面積は1,700万平米、開削した道路の総距離は724kmとなっています。北海道の開拓は、囚人たちの重労働があってこそだったのだと心に刻まれます。
開拓時代の生活の様子を垣間見る
再度、外に出てみましょう。庁舎と対照的な木造長屋の建物が網走刑務所職員官舎。
この地にやって来たばかりの看守たちが住んでいました。囚人たちの空間とは別世界の、古きよき日本家庭といった様子が再現されています。当時の服を着ることもできますよ!
そして、登録有形文化財の裏門をくぐり…。
休泊所を見学。刑務所から離れた地で労働する際使われた簡易宿泊所、いわゆるタコ部屋で、特に網走刑務所で最も過酷な労役だった中央道路開削工事のときに「動く監獄」として使われていました。
熾烈な環境にもかかわらず、ござと木の枕だけで寝泊りしていた様子が展示されており、衝撃を受けます。枕が一本の丸太として繋がっているのは、起床時にこれを叩いて全員を起こすためだったとのこと。
その近くにあるのが耕転庫と漬物庫。
どちらも囚人が働いていた施設で、漬物庫では中に10人ほど入れそうな巨大な樽が置かれています。
そしてひときわ目立つ建物、監獄歴史館へ。
見ごたえがある展示物が並ぶ中、
「顔が指名手配犯みたい」と定評がある(笑)私が体験してみました。プリクラのようなノリかと思いきや、「仮入所はこっちだぁ!」「さっさとしろ!」などなかなか煽ってくる音声つき。
ということで、なかなかクオリティが高い写真が撮れました。これで昔の受刑者気分!
さあ、次はいよいよこの監獄歴史館の最大の目玉である「赫い囚徒の森」体感シアターへ向かいます!!
監獄歴史館最大の目玉「赫い囚徒の森」体感シアターへ!
この監獄歴史館の最大の目玉が、「赫い囚徒の森」体感シアター。中央道路開削工事の苛酷な環境が五感で迫ってきます。
中央道路はオホーツク沿岸から内陸部へ向かう、網走から北見峠までの道路です。ロシア帝国の脅威に対抗するため、網走刑務所の囚人たち約1,200人を動員して1891年(明治24年)に工事が進められました。
当然現在のような町もなく、険しい原生林を切り開いての工事はとてつもない重労働でした。工事が強行された結果、わずか8カ月で163kmの道路を切り開くことに成功しましたが、その代償は大きく200人ほどが亡くなったといわれています。その亡骸はそのまま現場へ捨てられ、その後鎖を墓標に埋葬されることになり、そこを鎖塚を呼ぶようになりました。現在は沿線各地に追悼碑が建てられています。
シアターを通して、重労働の苦しさや亡くなった囚人たちの無念さが胸に迫ってきました。北海道の発展は、このような尊い犠牲があってのことなのです。
庁舎内での展示の通り、これ以外にも囚人が開削した道路が北海道には多数あります。旅行中に何気なく通っている道路も囚人が造ったものかも知れないと考えると、また違った思いが芽生えることでしょう。
シアター近くには、タコ部屋の寝心地が体験できる場所も。
現在の刑務所の様子も紹介されています。凶悪犯が集まってそうなイメージの網走刑務所ですが、現在は執行刑期10年以下の受刑者(B級受刑者)を収容しています。
そして博物館網走監獄最大の施設、官舎へ向かいます!
5方向に伸びるユニークな形状の官舎
中央見張台を中心に、放射状に5つの舎房が伸びているため「五翼放射状房」と呼ばれており、独特でユニークな形状です。
こうすることで看守が見張りやすくなるのだとか。
内部は天窓がつけられているため太陽の光で明るく、暗く居心地悪そうという監獄のイメージが覆ります。
廊下に沿って雑居房や独居房がずらっと並んでいますが、ここにも一工夫が。格子は斜めの形になっており、暖気や換気が確保でき、なおかつ廊下からは房内が見られるのに向かい房同士は見通せなくなっています。
ところどころ収容体験ができる房も。
こちらは小説やドラマにもなった脱獄魔が入っていた、第4舎24房。この脱獄魔のために床が強化する改造を施したのに、やはり脱獄されてしまったのだとか。
官舎から少し離れた場所に浴場があります。
受刑者の入浴時間は厳格に定められており、3分で脱衣し、3分で第1槽に入浴、3分で体を洗い、第2槽の入浴に3分、そして着衣に3分と、脱衣から着衣まで15分間で入浴できるようになっています。
ほかにもこんな見どころが!
ここまでさまざまな施設を紹介してきましたが、まだまだこんな見所どころもあります。
こちらは二見ヶ丘農場で、囚人たちの食糧生産を担う農場と、それに付設する施設です。
作物を育て、収穫するのも囚人の仕事でした。二見ヶ岡農場は現在も残っており、受刑者たちが育てた牛は網走監獄和牛というブランド肉になっています。
さらにお土産屋に行くと、全国でもここだけしかない網走刑務所グッズの数々が!
正直、ここまでネタにして大丈夫なのか!?と思ってしまいました…。
現在の網走刑務所はここから車で5分ほどの距離にありますが、ここは正門までであれば入ることができ、刑務所作業製品展示場では受刑者が製作した木工品などが売られています。
網走名物の木彫り人形、ニポポ人形もここで購入可能。
最果ての監獄といったイメージの網走刑務所ですが、百聞は一見にしかず。刑務所のイメージを180度変えてくれる、見ごたえあふれる博物館でした。急ぎ目に見て回っても2時間ほどかかったので、時間に余裕を持ってじっくり見学するのがおすすめです!
マイミチ2期生の網走旅、最後はオホーツク流氷館に向かいます!
オホーツク海のことなら何でも分かる! オホーツク流氷館
博物館網走監獄で北海道開拓の歴史を学んだ私たちマイミチ2期生。網走の土産も調達したところで、この旅最後の目的地、網走監獄から車でわずか5分のオホーツク流氷館に。時刻も15時半になりました。
オホーツク流氷館は、網走の街を見下ろす天都山山頂に立つ3階建ての施設。
3階は屋外展望台となっており、遠く知床半島までも望むことができます。
1階はお土産ショップ、2階はカフェ・レストランとなっており、メインの施設は地下1階。
まずは流氷幻想シアターで、流氷の風景やオホーツクを生きる動物の生き様を臨場感あふれる5面シアターで鑑賞しましょう。
ここでは実際にオホーツク海に住む生き物を展示しており、ユーモラスな姿のフウセンウオやフサギンポなどを見ることができます。
そして何といっても人気なのがクリオネ! 水槽の中を神秘的にゆらゆら泳いでいます。
本物の流氷に触れるここだけの体験ができるのが、流氷体感テラス。スタッフの方に濡れタオルを渡され、マイナス15度の世界へいざ!
大型冷凍庫に閉じ込められたような、なかなか体験できない気分です。
そこかしこにある流氷は計100トンもあるとのこと。
濡れタオルを振り回せば、あっという間にカチンコチンに固まってしまいます。
最後に味わってほしいのが、そのままのネーミングの流氷ソフトクリーム。伊達に流氷と名乗っておらず、なんとオホーツク海の塩をまぶしたソフトクリームなのです!
インパクトがあるのは名前と見た目だけではなく、味も然り。ベースのキャラメル味とオホーツクの塩が絡み合った食べやすい味です。
このソフトクリームをプロデュースしたジェラート専門店「Rimo」のオーナーは、ジェラートの国際大会で優勝経験があるのだとか。
目でも体でも口でもオホーツクを楽しめ、充実した見学になりました!
この近くには北方民族博物館という興味深そうな博物館もあるのですが、あいにくこの日は休館日で見学できず。今回は日帰り旅なので、中心市街地や港方面には立ち寄らず、このまま帰路につくことに。
予想以上に見どころが多い街で、できれば1泊はしたい! と思ってしまった網走日帰り旅。しかし博物館網走監獄で北海道の歴史を、そしてオホーツク流氷館でこの地が誇るオホーツク海の魅力を知ることができ、充実した1日でした。
JICA訓練生「海外派遣前特別訓練」最終活動報告
2020年8月27日〜2021年2月3日までの約5カ月間、JICA海外協力隊の訓練生4名が、海外派遣前特別訓練として上士幌町に滞在しました。
前半は「MY MICHI プロジェクト」に第0期生としてモニター参加し、さまざまなプログラムを体験。多くの町民と触れ合うとともに、その後のプログラム作りにも携わりました。
後半は「かみしほろ人材センター」の会員として活動し、町の人たちから困りごとなどをヒアリング。それぞれが自分の得意なことを活かしてそれらの手助けを行いました。
「上士幌町の人たちにはいつも元気をもらっていた。ここでの活動は一生の宝物」
「上士幌町に来て、これまでの価値観が大きく変わった。人とのつながりの大切さに気づいた」
「海外派遣前に非常に貴重な経験ができた。海外に行ってもこの経験を糧に頑張りたい」
「上士幌町の経験を通じて、自分が好きなものが再認識できたことで、自分がこれから進んでいく道が見えてきた」
活動を終えた4名は、それぞれに胸の内を語ってくれました。上士幌町での経験は、これから海外へ旅立つ訓練生たちにとって非常に有意義な時間となったようです。
また活動を終えた訓練生たちは、滞在中に出会った町の人たちの笑顔の写真を撮り集め、素敵な作品として寄贈してくれました。
訓練生たちも「ここでできたつながりを大切にして、これからも継続した関係を築いていきたい」と語ってくれました。
最後に、訓練生たちは上士幌町での活動報告を動画にまとめています。どんな活動をして、何を得たのか。ぜひご覧ください!
仕事解決人!町の困りごとが仕事に?そしてやりがいに!
まちづくり会社が運営している「かみしほろ人材センター」では、上士幌町の法人や個人から短期で簡単な仕事の依頼を受け、人材センターの会員の方に仕事を行ってもらう仕組みがあります。センターの会員の方には、これまで培ってきた「得意なこと」や「できること」を生かしてもらっています。「庭の剪定作業」を請け負っている寺戸勝広さんは、趣味で続けていた庭作りの知識を生かして、やりがいある仕事ができていると言います。(制作:ホロロジー編集部)
プロフィール
寺戸 勝弘さん
|てらど・かつひろ|音更町出身。高校卒業後、上士幌町へ。上士幌町役場に勤務。定年退職後は地域活動にも従事し、近年は「かみしほろ人材センター」に登録し、庭木手入れや草刈りなどで地域のために貢献している。
趣味が仕事に
寺戸:なーに?今日は僕が話をするのかい?そんなに面白い話はないよ?
――いえいえ。いつも通り働いている姿を見せていただければと思っていますので、本日はよろしくお願いします!
といいながら、早速、庭に足を運んで、本日作業を請け負った坂本さん宅のお庭を案内していただきました。
寺戸:ちょうど今、最後の仕上げをしているところだから見ていってよ。
――ありがとうございます!
寺戸:坂本さんのお庭は立派でね。帯広の職人がいる園芸屋さんに造ってもらったそうなんだ。そんな職人さんが丹生込めたお庭を、僕なんかが剪定していいのかって。最初、話をもらったときは、恐れ多く戸惑ったんだよ。
――それでもやってみようと仕事を請けられたんですね。実際に剪定されてどうでしたか?
寺戸:大変だったけれど、やりがいがあったよ。はじめて剪定し終わったときには喜んでもらってね。「来年もよろしくね」って、坂本さんに言ってもらったんだ。嬉しかったし、自信になったね。もっと頑張ろうと思えたんだよ。
――それはすごく嬉しいですね。
寺戸:坂本さんは木を知っているからね。だから楽しみでもあるし、もっと勉強をしないとなあと思いながら、剪定の時期を迎えているよ。ありがたいことに、去年(2019年)より依頼が増えていてね。この時期はとても忙しくさせてもらっているよ。
――寺戸さんはいつから庭づくりをしているんですか?
寺戸:21歳くらいのときかな。趣味でね。木は枯らしたりと、何回も失敗したけど、楽しいもんだ。
――庭作りの楽しみってなんですか?
寺戸:昔はね、よく山に行ってたんだよ。道路を造るために木を伐採するでしょ。伐採した木を販売する催しが昔はよくあったんだ。自分で見に行って「この木をください」って言ってね。値段を付けてもらうのさ。手配したトラックで運んで自宅まで持って帰ってきてね。それを育てるんだよ。
――豪快な趣味ですね!
寺戸:結構、仲間がいたんだよ。流行っていたのもあるしね。でもね、持ち帰った木は中々根が張らなくて枯れちゃうんだ。失敗ばかりさ。でもたまにしっかり育つんだよ。それが嬉しくてね。友人と競っていたりして楽しんでいたんだ。
――成長を見るのが楽しいんですね。
寺戸:そうだね。売買をすることもあるんだ。うまく育つと高く売れるんだよね。でも、自分がうまく育てた木が「●円」って言われたら、途端に手放したくなくなって売らないんだ。それで売れないまま枯らしてしまったりもしたもんだ(笑)。
――だんだん愛おしくなるんですね。子供を育てるのと同じ感覚なんですかね。
寺戸:人生みたいなもんだよ。
剪定の仕事が元気の源
――昨年はご病気もされたと聞きました。
寺戸:2019年の2月に胃がんが判明して、摘出手術をしたんだよ。75歳でね。ステージ1で、発見が早かったから大事には至らなかったんだ。でも手術後はあまり食べられなくなって痩せたよ。
――痩せてるようには見えませんでした。筋肉もありますし!
寺戸:作業のおかげで体力はちょっとずつ戻ってきたかな。筋肉はあるよ。鍛えているからね(笑)。
――剪定の仕事が元気の源になっているんですね!
寺戸:それでも体力はまだ戻ってないという思いはあるけどね。元々はもっと太っていたんだよ。今は痩せているのを気にしているくらいなんだ。でも調子はいいんだ。餅もたべるし、食欲はあるよ。
――たしかに、作業を見ていたら楽しそうでした。
寺戸:庭木を触っているしね、楽しいよ。しかも庭木の仕事は、ただ切るだけじゃなくて、日々勉強だからね。今でも機会があればいろんな庭を見てるんだ。あの庭はああしてる、この庭はこうしてるって勉強しているんだ。
――長年、触れていてもまだまだ勉強されてるんですね。
寺戸:そうだね。そして、依頼があったら、この庭はどうしたら喜んでもらえるかな?って考える。大体イメージ通りにできるようになってきたんだ。だからこの仕事にはとてもやりがいを感じているよ。依頼主さんにも感謝だし、関係を繋いでくれるまちづくり会社の皆さんにも大変感謝しているよ。
昔から負けん気が強くて
――寺戸さんは生まれも育ちも上士幌町なんですか?
寺戸:出身は音更町。農家の次男なんだ。
――いつ上士幌町に来られたんですか?
寺戸:高校を卒業した後だね。次男だったけど、家では跡取りとして農家を継げと言われていたんだ。同級生で農家が3人いたんだけど、土地面積がどれも敵わなくてね。僕の家は面積が小さくて、勝ち目はないなと思って嫌になって、親の言うことを聞かなかったんだよ。それで、親戚のおじさんが上士幌町にいたから、紹介された役場の臨時の仕事を始めたときに上士幌町に来たんだ。
――寺戸さん、負けん気が強いんですね。
寺戸:ハハハ、そうかもね。そして2年半くらい臨時の仕事をしていたら、運転手として大型免許を取れば採用できそうだっていう話があってね。親が運転手やるならダメだって言ったんだけど。親に黙って大型免許を取得してね。役場に入っちゃったのさ。
――やっぱり親のいうことは聞かないんですね(笑)。その後、苦労とかはありましたか?
寺戸:50歳になった頃に、運転手は民間に委託するから採用しない方向になって。だから運転手の仕事はなくなって、事務の仕事を始めたんだよ。役場でワープロ仕事。なかなか覚えられないのさ。30年も運転手してて、事務の仕事をするのは大変だったね。でも辞めるという選択は自分の中ではなかったからなんとか頑張ったね。
――持ち前の負けん気で乗り越えられたんですね。すごい。
寺戸:今は自分が楽しんできたことで、お金がいただけるというのは大変ありがたいことだよ。
――上士幌町での今の楽しみはなにかありますか?
寺戸:月曜と木曜にスポーツセンターで卓球やってるんだ。今まで40年続けてきたよ。
――40年ですか!試合にも出てるんですか?
寺戸:出てたんだけどね、今はメンバーが揃わなくて出場できないんだよ。メンバーが7人揃ったらいけるんだけど、なかなか揃わなくてね。誰かやる人いないかな?探してきてよ。
――上士幌町の皆さん、ぜひ卓球しましょう!
寺戸:上士幌町の中学校の卓球部なんかは、最近、指導者が素晴らしくて、全国大会にも出るようになったんだよ。上士幌町で卓球が盛り上がるといいね。
と、最後は少しだけ寺戸さんの日常が垣間見えるお話をさせていただきました。寺戸さんにはほかにもあんこ作りを教えてもらう取材にご協力いただいたりと、私たちにとても優しく接してくれました。
人が住んでいれば、そこには何かしら小さな困りごとがある。その困りごとは自分では解決できないけれど、それぞれの得意なこと、やりたいことを活かせば解決するかもしれない。
寺戸さんにとっては、「かみしほろ人材センター」で町の人たちの役に立てることが大きな生きがいになっていました。今後も町の解決人が増え、解決人たちを追って紹介できるといいなと思わせてくれる取材でした。
寺戸さん、ありがとうございました。
「優しさの拠点」となる助産院をつくりたい~渡辺 雅美さん~
「地域に溶け込んだ『町の助産師さん』を目指したい」。そんな思いで助産院の開業を決意した渡辺雅美さんは、2020年度「かみしほろ起業塾」を受講し、最優秀賞を獲得しました。2021年度の開業に向けて準備を進めている渡辺さんの胸にある思いとは――。(制作:ホロロジー編集部)
追記:2021年10月に開院されました。記事の最後に開院された記事のリンクがあるのでぜひそちらもご覧ください。
助産師
渡辺 雅美さん
|わたなべ・まさみ|1980年生まれ、岡山県出身。本州の病院で看護師・助産師として勤務。2020年に上士幌町へ移住。子育て世代の移住が増えている上士幌町で、周囲に家族や頼れる人がいない状況で子育てをしているママたちを見て、ママが孤立しない環境づくりの必要性を強く感じ、助産院の開業を決意。ママたちが安心して子育てができるよう、妊娠、出産、育児までをトータルで支援する助産師を目指している。
2020年に岡山県から上士幌町に移住してきた渡辺雅美さんは、町に助産院を開業したいとの思いから2020年度「かみしほろ起業塾」を受講しました。
渡辺さんは、総合病院で15年間助産師として勤務。その間に1,000件以上の出産に立ち会ってきました。また、妊婦さんや産後のママの育児相談などにも応じ、3,000人以上の声に耳を傾けてきました。
移住後、渡辺さんは健康増進センターに勤務するとともに、まちづくり会社が主催する「ママのHOTステーション」に助産師として参加。町の産前産後のママたちに接してきました。そのなかで「上士幌町には助産院が必要」と思うようになったといいます。
ママたちが安心できる環境を整えたい
「上士幌町は子育て世代の移住者が多いと聞いていましたが、実際にそうですね。話を聞くと、周りに家族や頼れる人がいない状況で子育てをしているママたちも多く、孤独を感じたことがあるという声を多く聞きました。そんなママたちの孤立を防いで、妊娠期から産後に至るまでママたちが安心できる環境を整えたい、そのサポートをするための助産院をつくりたいと思いました」と渡辺さん。
現在、十勝管内で産前産後ママの身体面や精神面をサポートする助産院は、帯広市、音更町、芽室町にあります。ですが、いずれの助産院に通うとしても上士幌町からは片道約1時間の距離。
「妊娠中にお腹の張りを感じたときに、病院に行くべきか迷ってしまった」
「産院が遠いので、受診をためらってしまう」
「産後、乳腺炎になってしまい体調が悪い中で赤ちゃんを連れて病院に行くのがつらかった」
上士幌町で出産育児を経験したママたちから聞いたそんな声も、渡辺さんの背中を後押ししました。
町に自然と溶け込む助産院を目指したい
「ママたちの声を聞いたこともありますが、この町の雰囲気も開業を決意した理由の一つです。上士幌町は穏やかで優しい人が多く、自分にできないことがあっても、周りにはそれを手伝ってくれる人がいる。競争するのではなく、お互いが支え合いながら活かし合っていく風土があると思う。そんな町だから開業したいと思えたんです」
渡辺さんは「かみしほろ起業塾」を受講しながら、町内でのサービスだけでなく、オンラインを活用した相談会や動画教材の販売など、地域に制限されないサービスを組み立てていきます。結果、2020年度の最優秀賞を獲得しました.
渡辺さんが目指す助産院は「家族がかかりつけの助産院であること。夫婦のパートナーシップが育める場所であること。ママの心も体も休まる場所であること。優しさが循環する拠点となること」。
そして何よりも「幸せな家族を増やすこと」。
そんな志をもつ渡辺さんですが、気負うことなく2021年度の開業に向けて準備を進めています。
「『私がやらなきゃ!』とか『やるぞ!』といった使命感からではなく、この町のママたちと接していて、自然と開業しようという気持ちになったんですよね。なので、これから開業する助産院も、町に自然に馴染むような、そんな場所にしたいと思っています」
妊娠から出産、育児までをトータルで支援する助産師は、町に住むママたちにとってとても心強い存在となるに違いありません。地域に溶け込んだ「町の助産師さん」として活動していく。それが渡辺さんの願いです。
名人に教わってあんパン作りにチャレンジ!(後編)
大量にいただける食材の活用方法を上士幌町の皆さんから紹介してもらうということで始まったレシピ企画。今回は千葉与四郎副町長の奥様、正恵さんにあんパンを作りを教えていただきました。前編では生地づくりをして、後編はいよいよパンを焼きますよ!
WRITER
宮部 純香
上士幌町で生まれ、高校まで上士幌で過ごした編集サポートメンバー。小さい頃からお世話になった上士幌を新しい視点で見てみたいと取材を進めています。
生地にあんこを包む
じゃあ、いよいよあんこを包むよ。
さっきよりも大きくなってふわふわしてる。
この丸めた生地を手のひらでつぶして、棒で上下を伸ばしたら、90度回転させて、もう片側も伸ばしていく。丸く伸ばせたら、親指と人差し指の上に乗せて、あんこ玉を乗せる。
手にあんこが付いてたら拭いてね。親指が大事だから。生地を外側から、くいっくいっと真ん中に寄せてきて、あんこが見えないように閉じると。
よし、二人もやってみよう。
難しいです…。
どれ…もっとあんこを包みやすいように生地を大きく伸ばした方が良いかもね。そして、親指と人差し指で生地を中心に集めていく。
…できました!
そうそう、上手!
つまんだ面を下にして少しつぶして平らにしたら、指で押してくぼみをつけよう。そして今度は、35分間仕上げ発酵させる。温度は35℃ね。この発酵のさせ方は、発酵機械がない人はさっき話したように発泡スチロールに入れてやればいいからね。
生地を発酵
発酵を待っている間、ご夫婦の子ども時代のお話を聞かせていただきました。どんな遊びをしていたのか、昔と今ではどのように町の風景が変わってしまったのか。とても深いお話でした。
でんすけのカメラ目線、いただきました。わん。↑
さあ、あと少し!
うわぁ、大きさが全然違いますね。
くっついちゃったね。どーしよう…。
このままで大丈夫ですよ!
それじゃ、照りたまごをしてケシの実を真ん中にのせようか。照りたまごをするタイミングで、オーブンは予熱をかけるといいよ。200℃で12分ね。
照りたまごは、全卵を使用し卵白のこしが切れ、全体が混ざるまで溶く。泡立てないよう、こしを切るイメージで。これをパンに塗り焼くことで、艶が出ます。
もっと、指をぐっと押し付けてケシの実をつけるといいよ。
ぐっと…穴が開くかと思って遠慮してたけど、意外と開かないものなんですね。
さあ、焼くぞ!
そうそう。大丈夫だよ。よしっ、焼こう。レシピでは170~180℃となってるけど、電気オーブンだと弱くて綺麗に色が付かないの。だから200℃で12分焼くからね。
6分経ったら入れ替えるよ。そうしないと、全体に色がつかないの。
さあ、焼けたよ!
いいにおーい!美味しそう!!
ほんとだね!香ばしい甘い匂いがする!
ああ…くっついちゃったね…どーしよう…。
かわいいですよ。ご愛敬ということで(笑)。
そうね(笑)。これ、ばらばらにして網の上に乗せてね。そうしないと冷めないのよ。
いい出来ですね、きれい。
よかった(笑)。
最後に、写真を撮らせていただいていいですか?
恥ずかしいわね(笑)。
本当に素敵なご夫婦でした。作ったあんパンは、お土産として持たせていただきました。
今日は本当にありがとうございました。とても楽しかったです。
いえいえ、こちらこそ楽しい時間をありがとう。またやろうね。
良いんですか!うれしい!
ぜひぜひ。また一緒にやりましょう!
いただいたあんパンは、帰宅してから美味しくいただきました。あんこがぎっしり詰まってて、でも甘すぎなくて。パン生地もふかふかでほんのり甘くて、とても幸せな味でした。
快く引き受けていただき、本当にありがとうございました。また、ぜひ時間を共有させてください。
【作り方】
下準備:つぶあんでも、こしあんでもお好みのものを事前に作って用意しておく。あんこを少し硬めに作っておくと、焼いた時に生地から出ることがない。
1.ボウルの中に必要な材料を順番に入れ混ぜる
2.ある程度混ざったら、ボウルから出し手でこねる(菊練りもぜひ挑戦!)
3.一次発酵(30℃で40分)させる
4.発酵させている間に、あんこ玉を作っておく
5.発酵が終わった生地を16個に分け、丸める
6.丸めた生地をねかせる(15分)
7.ねかせ終わったら、生地を伸ばしてあんこを包む
8.35℃で35分間仕上げ発酵させる
9.照りたまをしてケシの実をのせたら、200℃で12分オーブンで焼く
キツネ色になっていたら完成! ん~良い匂い!!
名人に教わってあんパン作りにチャレンジ!(前編)
大量にいただける食材の活用方法を上士幌町の皆さんから紹介してもらうということで始まったレシピ企画。次なるレシピを求めてたどり着いたのが、料理上手と有名な、千葉与四郎副町長の奥様、正恵さんです。
WRITER
宮部 純香
上士幌町で生まれ、高校まで上士幌で過ごした編集サポートメンバー。小さい頃からお世話になった上士幌を新しい視点で見てみたいと取材を進めています。
あんこを使った料理を教えてください
今回教えていただくことになったのは“あんパン作り”。第1回でたくさんのあんこができたので、あんこを使ったレシピを教えてください!と相談したところ、千葉さんのご提案であんパン作りを教えていただくことに。
正恵さんは習い事をいくつもされていたようで、なかでもパン作りは長かったと伺いました。これまで作った経験のある数々のパンのレシピが初級編から上級編まで、たっぷりファイリングされていました。その中でもあんパンは初級なのだとか。いやでも、なんだか想像しただけで、難しそう…。初心者の私たちにもできるのでしょうか。
まずは生地作りから
ご自宅に入らせていただくと、テーブルの上にはすでに材料が準備されていました。
本日のあんパン作りの材料はこちらです!
【今回使用した材料(16個分)】
・小麦粉 400g
・卵 60g
・イースト10g
・ショートニング 60g
・スキムミルク 8g
・あんこ 800g
・食塩 6g
・砂糖 60g
・ぬるま湯(40℃)200g
・ケシの実 適量
・照りたまご 適量
まずは手を洗ってもらって、さっそく始めようかな。パンをこねるのに、“手ごね”と“機械”があるんだけど、どっちにする?
手ごねがいいです!手の温もりを入れたいです!
そう?大変だけどいい?
やります!手ごねの方が美味しく食べられそうですし!
じゃあ、手ごねにしよう!まず大きめのボウルに、小麦粉(400g)とイースト(10g)が入っているから混ぜてもらっていいかな?これで、16個のパンができるんだよ。
ゴムベラで全体が混ざるようにサクサクと混ぜます。
混ざったかな。そうしたら、スキムミルク(8g)と塩(6g)を加えてさらに混ぜてください。
ガシガシガシ。混ぜるときにボウルから材料がこぼれてしまわないように注意!
混ざったら、真ん中をあけて、そこに砂糖(60g)を入れてくれるかな。そして、この40℃にしてあるぬるま湯を“半分(100g)”入れてね。そして、“砂糖だけ”混ぜる。粉はまぜないよ。
どうして真ん中をあけるんですか?
それはね、砂糖を先に溶かしたいからだよ。
そこに、卵(全卵60g)と残りの水(100g)を入れて混ぜてね。ある程度混ざったら、ボウルから出して手のひらにショートニングを少し付けて、生地を上下に動かしてこねる。ぐいっぐいっと。
あ、これけっこう、油がベトベトして、手にくっつく。難しい…。
手ごねって大変だよね。こねるにはコツがあって、こう、手をね、左右別々に上下に動かして、ぐっぐっ、ってやるといいかな。
めちゃくちゃやりやすくなりました。
ひたすらコネコネ…悪戦苦闘しながら10分経過…。
ショートニングって原料は何なんですか?代用する場合は?
無塩バターでいいと思うな。ほかのパンのレシピを見ても、ショートニングかバターだから。
さぁ、ななちゃんがこねてくれていい感じになったね。
ね、いい感じですよね。すごいもちもちです。おもちみたいな感触でもうすでに美味しそう!
じゃあ、折りたたんでもらおうかな。こねた生地の両端を内側にパタンパタンと折りたたんでもらっていいかな?
ご主人登場!菊練りを披露
このあとは、菊練りをするんだけど、難しいから今回は省こう(笑)。
ん?菊練りするのか。蕎麦ではやるけどね。
与四郎さんは、蕎麦作りしているの。
そうなんですか!?ぜひ、見せていただきたいです!
ここでお買い物に出られていた正恵さんのご主人・与四郎さんが帰宅。蕎麦打ちをされているそうなので、急遽、菊練りを見せていただくことに。
これは柔らかいから難しいな。本当はね、こう、菊の花みたいにくっくって跡がつくんだけど…。
手つきがプロみたいですね。
ね、さすが。
すごいってさ、お父さん、良かったね(笑)。そしたら、これをまず一次発酵させるね。30℃くらいのところに、40分間。今は発酵させる機械を使うんだけど、昔は発泡スチロールを使っていたの。ボウルに入れた生地をラップして、発泡スチロールの中に入れて、そこに熱めのお湯が入った湯呑を一緒に入れるの。その中を30℃ぐらいを保てるように生地に温度計を刺しておいて管理するんだけど、これがものすごく手間がかかるから、今は機械なんだけどね。
ショートニングや機械を持っていない人のことも考えて、別の方法も教えてくださる正恵さん。
発酵を待つ間にあんこの準備
発酵を待っている間に、持ってきてくれたあんこの準備をしようか。パンの中に入れられるように丸めるからね。
1個の大きさは、レシピに50gって書いてあるね。全部で16個あればいいんだね…ねえ見て、私1回で50gにできるようになった。
すごいですね。職人(笑)。
こんな感じでいいでしょうか?
上手上手!
今度は生地を成形しよう。これも、1つ50gだね。まずは、発酵させておいた生地をコッペパンのような形にして、縦半分に切って、
この切ったところに線が入っているでしょ。この線と線の間を縦に切っていくよ。
1本になった生地を、50gにカットして、丸めるからね。これを、ぱたんぱたんと2回半分に折って、
手で包み込んで、テーブルでこすりながらクルクル回して、丸くしてね。
こんな感じですか?
もう少し力を入れて、そうそう、上手。できたのはここに並べて、ベンチタイムといってここからまた15分寝かせるからね。
ここで、副町長にお茶を淹れていただいて15分間のティータイム。
と、いうことで前編はここまでです。後編はいよいよあんこを包んでパンを焼きます!どんな出来になるのか、お楽しみに!
Instagramで「人」を紹介中!
ホロロジーでは「Instagram」を活用し、これまで取材させていただいた方を写真とイラストで紹介させていただいています。この記事では、写真と共に関連コンテンツをご紹介します。
町民ライター座談会・後編〜自分の町で取り組む苦労ややりがい〜
2020年12月に立ち上げたホロロジー。サイト立ち上げの準備期間中、上士幌町で生まれ育った2人の若者にライターとして携わってもらっていました。前・中編では、取材を通して感じたことや幅広い世代との交流をしてみての気づきなどを語ってもらいました。最後の後編は、参加したきっかけや葛藤、やりがいについてを語ってもらいました。町民が自ら足を運んで取材をしてみて感じたことを、ぜひ皆さんにも知ってほしいと思います。
町民ライター
竹中 勇輔
上士幌町生まれの26歳。中学まで上士幌町にいた本日の主役の1人。淡々といつも笑顔でいてくれる。けれど、内に秘めている感情の波は情熱的。
町民ライター
宮部 純香
上士幌町生まれの24歳。高校まで上士幌町にいた本日の主役の1人。優しい笑顔で周囲を包み込む。ミーティングのときは、ビシバシ意見する頼りになるお姉さん。
在住ライター
西村 奈々子
大阪出身23歳。上士幌在住。メンバー最年少を理由にとことん甘えている。やるときはやります。この記事も書きます。ィングのときは、ビシバシ意見する頼りになるお姉さん。
ホロロジー編集担当
野澤 一盛
京都出身、帯広在住。年上を感じさせないフラットさが、皆に愛される。追い詰められたら、エンジンがかかる。この記事のファシリテーター。
2人が育った町で、サポートメンバーを始めたきっかけ
2人は上士幌町で育ってまだ親も上士幌町で暮らしている中で、取材メンバーとして活動するときに、いろいろ町の目があるし、やりづらい部分もあるんじゃないかと想像はしていたと思うんですよ。それでも始めたきっかけってなんでしょう?
最初に声をかけてもらったときは、「父が働いているまちづくり会社の仕事を手伝うのか〜」みたいな気持ちはありました。職員として入るわけじゃないけど、まちづくり会社の活動として町に入っていくわけだし、「宮部の娘」ということもたくさんの人が知っているし。そこでどこまで私に町の人が話してくれるかなっていうのはあって、お父さんにも相談したし、最初は正直やりたくなかった。
へえ〜。
文章は書きたかったし、そういう経験はしてみたかったけど、前向きに活動に参加したってわけじゃない。
そうなんだね。結果的にやろうって思ったのはどのタイミングで、何がきっかけ?
んん・・・今、何かやりたいことがあるわけじゃなかったし。今まで考えたことのない職場や環境の中に入ってみるのも、今、時間があるからこそできるチャンスかなって思って。やめたかったらいつでもやめたらいいよ、みたいなスタンスで会社側もいてくれたから。じゃあまずは1週間やってみようという気持ちで入ろうと。ななこちゃんとは以前上士幌町に来たときに会っていたし、ななこちゃんが参加すると聞いたこともあるかな。
竹中くんはどう?
僕は、8月からまちづくり会社がJICAの訓練生を受け入れることがなかったら、多分ハレタには来ていなかったし。そこですかね、きっかけは。
じゃあ訓練生が来たからだ。
まず、JICA帯広の職員から「今日から訓練生が上士幌町に滞在します。時間はありますか?」って連絡が来たんです。それで顔合わせに参加したら、今日からこの4人が上士幌町に滞在するからよろしくという感じで、その流れで誘われました。
なるほど。すごい縁だね。
僕は時間はあったんで、楽しそうだしやってみようって感じですね。
もともと書くことがやりたかったとか?そういうわけじゃなくて?
もともと書くのは嫌いなんですよ。
(みんな笑う)
小中学校で、作文とか感想文の課題ってあったじゃないですか。それが辛くて辛くて。何でこんな課題があるんだって思ってました。でも大人になるにつれて、読んでもらう人にわかりやすく文章を作るってすごい必要な力だと感じるようになって。それからは苦手だけどやるようになったんです。
2人が実際に活動して感じた“安心のギャップ”
実際に、活動に入ってみて思ってたことは?
うん、こんなにゆるーく入っていいんだなあって思いました。めっちゃ気負って入ったんですよ、しっかりやらなきゃ!みたいな。でもそうじゃなくていいんだって思って。
それはいつ思ったの?
この4人で初めて顔合わせしたミーティングです。
一番最初なんだ。
こんなあったかい感じでいいんだって。もっとバリバリと仕事として請けるものだと思ってたから、いついつまでに何やって、これやってってしなきゃいけないのかなって。でも違うから、あっ、良かったって(笑)
ちょっとカットしといてもらえる(笑)?
でもそのおかげで参加しやすかったですね。
そうかもね。
実際どう?親のこととかの懸念もあったでしょ?
それは今もありますけど。私の発言一つでどうなるとか、見られてるってずっと思っていて、自分がどこに取材に行くのか、誰と会うのかっていうのを。
それは誰に見られているの?
親に見られていると思ってたんですよ、ずっと。別に親からは何も言われたことはないんですよ。でも、仕事としてやるとなったときにそういうプレッシャーじゃないけど、責任みたいなものを勝手に自分で思ってたので。だから最初は取材に入っていくときも、どこまで自分が発言していいんだろうという戸惑いはありました。ようやく最近取材でも自然に会話をすればいいんだなっていうこともわかってきたし、それでもいいんだなっていう自分なりのスタンスもできてきたんで。
きっちりしなくても、自分のやりたいようにやろうって思えるようになったってことかな?
そうです。親がどうだとかは考えなくていいかなって、やっていくうちに思いました。
うんうん。
最初、僕も上士幌町で育ってきたから同じように考えてたけど、あやかちゃんの話を聞いて、自分の悩みは大したことないかもって思えるようになったかな。
結構最初の頃、気にしてたところもあったものね。
そうですね。でも、自分があやかちゃんの立場だったら、と想像したときに「あ、結構やばい」と思えるようになってからは気が楽です(笑)。
(みんな笑う)
町の人たちからどう見られているかが気になるという人もいると思うんだけど。それ通り越して、むしろやって良かったと思うことはある?
今でも多少戸惑いはあります。「やっぱり自分の名前と顔は出るよな」とか、「この人はこんな記事を書くんだ」と思われることとか(笑)。多分私はずっとこの町にいると思っているので、そうなったときに誰が見るかわからないじゃないですか。
確かに、町の人全員見るかもしれないしね。
そう。誰がどこで何を言ってるかわからないから。この間同級生と喋ったときも、良くも悪くも噂って広まるよねという話もしました。でも、それをどうプラスに捉えるかを考えています。自分自身をホロロジーを通して町の人に知ってもらうチャンスですし。
うん、そうだと思う。
だからこそ、仲間がいてほしい
だから、私たちみたいにこういう仲間がいたらいいなって。自分一人で活動するんじゃなくて、一緒に活動する人がいると、やっていても間違いじゃないんだ。大丈夫なんだなって思います。
うわ〜、わかるそれ。うん、仲間はほしいよね。
だから、次来る人も自分1人じゃなくて、友だちを誘ってみるとかいいですよね。仲間を作ってやっていけた方が「だよね!」って共感できることがたくさん生まれると思います。あんまり噂とか気にしなくても、とりあえず楽しそう!から入ってもいいし、途中でやめてもいいわけだし。
そうそう。たしかにそうだね。
町外から来た私の意見としては、「上士幌町で育ってきたらこうだ」とか、「この家の子だからこう生きなくちゃいけない」って言い聞かせて生活をするのって、子が親に対する優しさなんだろうけど、でもそれは親が喜ぶかはわからないと思っていて。
たしかに、それはそうだよね。
親がこうだからっていう、殻に閉じこもるっていうのかな?閉じこもらなくていいのかなって私はみていて思います。
僕はまだ完全に殻を破れていないんだけど、みんなで作ったものを町の人たちに見てもらって、その反応を受けてようやくやって良かったと思える気がします。不安はあって当たり前で、やって良かったという肯定感が不安を上回ったとき、勢いに乗っていけるのかな。
不安半分、楽しみな気持ち半分で。でも自分の言葉を書くのではなくて、人の言葉を扱うじゃないですか。そのときどういう気持ちになりました?私すっごい緊張したんですけど。責任も感じるし。
うん、それはすごく感じるね。
言った言葉をそのまま書いても、自分はそのやりとりを知っているからニュアンスが伝わるけど、それをそのまま出しても意図が伝わるのかというのは難しいなって思って。何回も読み直して、「これを間違った意味に捉えられないか?」というのは、ずっと考えて書いてるかもしれない。
うん。書くなら、その人の良さとか魅力とかが最大限に伝えたいですもんね。
そうそうそう。マイナスにはしたくない。
あやかちゃんがさっき言ってた仲間という中で、そういうのをやっていけたらいいですよね。
興味あることで、どんどん記事を書きたい
取材先を企画するときに意識してたことってある??
知りたいという根本がないと、なかなか取材しても書けないと思うんですよ。だから、本当にここに行ってこの人の話を聞きたい気持ちがあれば、どんどん書けると思うんです。
うん、わかる。
一つ思うのは、人によって興味って全然違うじゃないですか。だからその分メンバーが多いと興味も広がりますよね。
うんうん。
そりゃそうだ。
いろんな年齢層の人が関わってくれたら、自ずと町のいろんなところに取材したくなるだろうなとは思っていて。無理にやるんじゃなくて興味があるところをやっていけるくらい。
そうですね。
2人みたいに地元出身で小さいころから上士幌町です。みたいな人がやっているメディアってあんまりないと思うんだよね。
結構いろんな地方でウェブメディアはありますけど、その地域出身の人がやっているメディアはあんまりないんですか?
それを前面に出しているメディアは少ないんじゃないかな。クリエイティブな会社に頼んで、書ける人が書いて、それを乗せているのが多いと思うよ。
例えばライターを募集していったときに、やってみたいけどちょっと自信がないといった人のフォローはどうする予定ですか?
まずは取材に同行してもらったり、簡単な文章を一緒に考えるところから始めようと思ってる。取材の入り方とか、記事の書き方は必要に応じて、フォローできる体制は作っていけるかな。
そうなんですね。多分やってみたい人が一番不安に思ってることって、やってみたいけどできるかな?というところだと思うんで。サポートがあるのは心強いと思います。
そうかあ。まあできるよ、会話さえ成り立ったらもうそれが既に取材だから(笑)。
(笑)。やってみたら自信はつくと思うんですけどね。
そうそうそう。
それでも腰が重い人は結構いると思います。
いや、すごく重いと思うよ。だからそれをここで一回テーマに出していきたいよね。
うん。実際私たちもね、経験がないところからはじめているんで。同じじゃないですか町の人も。
だからハードルをあまり感じないコンテンツっていいよね。同級生と喋ってみるとか、実際に改まって会いたい人に話聞く企画はめちゃくちゃいいコンテンツになると思う。
やってみたい人がいたら激推しします。
とりあえず、同級生は全学年制覇したいよね。
そういえば今日、たまたま上士幌町出身なんですよって人にあったな。
ちゃんと言った?
何をですか?
同級生に取材しませんか?って(笑)。
(みんな笑う)
その案内は必須だよ。
ちょっとそこまでは言えなかったです(笑)。だから意外と、上士幌町出身の人と出会うなあって思って。ちゃんと声かけて行かなきゃですね。
宣伝もできたし、これで終わろうか(笑)!
そうですね。たくさんの町民の方に携わってもらえるサイトになるようにみんなで頑張りましょう!
いかがでしたでしょうか?
メディアを作ったことのない若者と共にホロロジーは歩みを始めました。インターネット、そしてスマートフォンスが普及し、個々人で情報が容易に発信できるようになった時代。町の情報は特定の機関や人だけが発信するものではなくなってきているように思います。
自分の住んでいる町を知る。自分たちで情報を作り、発信する。その体験をすることで町をもっと好きになる。2人の町民ライターは、それを体現してくれたようにも思います。
ぜひ、たくさんの町の皆さんと一緒に、上士幌町の取り組みや人を伝えられたらなと、ホロロジー編集部は考えています。これからも長いお付き合いができるよう、皆さんと共に歩み続けていけるよう、努めてまいります。
町民ライター座談会・中編〜世代を問わず交流が増える〜
2020年12月に立ち上げたホロロジー。サイト立ち上げの準備期間中、上士幌町で生まれ育った2人の若者にライターとして携わってもらっていました。中編では、幅広い世代との交流をしてみての気づき、はたまた昔からの付き合いのある同級生の取材について語ってもらいました。前編はこちら
町民ライター
竹中 勇輔
上士幌町生まれの26歳。中学まで上士幌町にいた本日の主役の1人。淡々といつも笑顔でいてくれる。けれど、内に秘めている感情の波は情熱的。
町民ライター
宮部 純香
上士幌町生まれの24歳。高校まで上士幌町にいた本日の主役の1人。優しい笑顔で周囲を包み込む。ミーティングのときは、ビシバシ意見する頼りになるお姉さん。
在住ライター
西村 奈々子
大阪出身23歳。上士幌在住。メンバー最年少を理由にとことん甘えている。やるときはやります。この記事も書きます。ィングのときは、ビシバシ意見する頼りになるお姉さん。
ホロロジー編集担当
野澤 一盛
京都出身、帯広在住。年上を感じさせないフラットさが、皆に愛される。追い詰められたら、エンジンがかかる。この記事のファシリテーター。
これまでにない幅広い人と会話するように
取材してどんどん記事を作っていく中で、良かったなと思うことはありますか?
同世代の人でも、今まではなかなか話題に上がらなかったことについて話せたり、おじいちゃん、おばあちゃんとも話す機会が多かったり。こんなに幅広い人とこの短期間で話すことってないから、貴重な経験でした。
取材に行くことで世代を超えた課題みたいなものが見えてきたというか。見ている視点がいろいろあった。こうやって話してるときは僕らの世代の目線があって、違う世代と話すと、違う世代の人たちの話を聞くことができるから、そこを通してこの人たちはこう考えてるんだ。ここはいいと思っているんだというのを知ることができましたね。
うんうん。
多分それを通して、町としてどういう方向性でどんな町にしていったらいいかなとか。そういう話をする場ができたときに、上士幌町民にとってより良い町に近づいていくのかな、と思います。
ホロロジーで幅広い年代の人を取材することで、いろんな世代間の見方が見えてくると思うんですよね。だからこのホロロジーの情報を通して、まちづくりにつなげていけたら、めちゃくちゃいいなって思いました。
確かにここが情報の交流地点みたいになるといいね。
いろんな目線が入ってくることによって、この町の課題は何かとか見えてくるといいですよね。「こういうことを求めてたのか」という声が聞こえてくるサイトになったらすごくいいなっていいなって思います。
町の人たちの声がより届きやすくなればいいですよね。
確かに、町議とかになると年齢層も多分高くなるし。ホロロジーで若い人が書いているもの、それこそ同級生の話を町議の人たちが見て、何か動きが変わってきたら面白いですよね。
うん。めちゃくちゃいい動きだなって思います。
うん、やる意味を感じますよね。
町をより活性化させるための要素になったらすごくいいなって思う。
本当、そうですね。
同級生企画!?同級生と大人になった今、語ってみて
ちょっと話変わって、同級生と対談したじゃない。
はい。すごく面白かったですよ(笑)。
アルバムも持ち寄ってくれたもんね。
そうそう、めっちゃ恥ずかしかったけど盛り上がった(笑)。取材だから踏み込めて、改めて聞けたってことがありましたね。進路の話とか。実は知らなかったなみたいな。
うーん、しないよね。対談は高校が一緒の子だったの?
小中高が一緒の子で。でもクラスが違ったりとか、こっちは進学したけど相手は就職で。改めて、取材ということで突っ込んだ話をしてみて、全然知らないこともあったりして、面白かったです。
そうそう。取材をすると知らない話をたくさん引き出せるよね。
何回か一緒にご飯はしてるんですけど、「でもこんな機会ないと、喋らなかったよね」って同級生から進路の話をしくれて。だから、改まってじゃないとできない話って取材じゃなかったらできなかったし、やって良かったなって実感しています。
そうですね、いい話をしてくれましたね。
こういう話は町を作ってる大人たち、例えば「上士幌町に戻ってきて欲しい」とか「町内の会社に勤めて欲しい」と考える人にすごく参考になる話だと思うんだよね。そういうリアルな本音の情報って実はあまり聞けなかったりするから。
そうですよね。
そういう情報って、僕みたいに、地域外出身で移住してきた人間が一朝一夕で取材しても引き出せない話だと思っているんだよね。
たしかに、昔から馴染みのある顔、地元だからこそ、話せることってありますよね。
そうそう。地元だし、前から知っているからこそ話してしまうっていうね。しかも、取材が始まる前って昔話に花が咲くんだけど、当時の青春の話から始まるから、喋りやすい雰囲気が自然に作れるのもいいなと。
喋りやすい雰囲気を作るって大事ですよね。同級生だと気心知れてるから話しやすい環境に勝手になりますよね。
しかも、嘘ついたら絶対バレるじゃない。同級生は昔のこと大体知ってるし(笑)。
うん、バレる(笑)。
だから正直な話が出やすいと思ってる。同級生シリーズは。
かっこいいこと言おうとしてもバレちゃうよね(笑)。
バレますね。「そんな人だったっけ?」みたいに言われるし(笑)。
竹ちゃんは同級生企画をやってみてどうだった?
楽しかったです。でも昔の僕ってすごい嫌な奴だったんですよ。それを反省して、謝る感じにもなって(笑)。
(みんな笑う)
すごい嫌な奴だったんですよ(笑)。
記事読んでて伝わってきたよね(笑)。
(みんな笑う)
めちゃくちゃひねくれてたんですよ、今もひねくれてるかもしれないけど(笑)。
でも良かったんじゃない?このタイミングにああいう風に話ができて。
良かった、かな(笑)?
(みんな笑う)
でも同級生も取材がなかったら、近くにはいるけど改めて会うことはなかったと思うから。そういえば、取材をしてるときは中学校のときにタイムスリップしたような感覚があったんですよね。
へえー!
話し方とか声のトーンとか聞いたことあるぞみたいな。それがめちゃくちゃ懐かしい感じで。
うんうんうん。
その瞬間はすごい心地良かったですね。だから、タイムスリップしたい人がいたら、ぜひ。
やったらいいですよね〜。
本当にその10何年前に戻った感じというか。
戻れた感覚のときってやっぱり思考が変わったりするの?
中学校のときの自分に戻るんですかね。
取材の文字起こしや記事を作るときも思い出しているの?
そうですね。
「あのときの自分、ああだったからこれからはこういう風にしよう」とか。「あの態度は良くなかったからこれから気をつけようかな」とかそういうのはあったりする?
反省しかないですよ(笑)。
(みんな笑う)
取材が終わってから同級生からは、良かったねとか誘ってくれてありがとうといった言葉はあった?
終わった後ありましたよ。
良かったって?
そうそう。中学校のときは全然話してくれる感じじゃなかったけど、みたいな前置きがあって。改めて話せて良かったよ〜、またご飯行こうねってなりましたね。
おお、すごいね、恋も芽生えるかもね(笑)。
ね、今ちょっといいなあって普通に思っちゃいました(笑)。いいなあ女の子二人に囲まれて。
(みんな笑う)
そういうのを狙っている人はぜひ(笑)。
僕は上士幌町出身じゃないけど、好きだった子と対談したい。あのとき、僕のことをどう思ってたのって、答え合わせがしたい。
あはは(笑)。
やってほしいし、上士幌町の人にも。
うん、上士幌町の人にやってほしいから事例としてまず自分がやりたい(笑)。ホロロジーに関わることへのハードルを下げたいんだよね。上士幌町に同級生の初恋の人を連れてきた。みたいな企画やりたいもの。
やりたがりだ(笑)。
(みんな笑う)
そういう参加方法、あの子に取材できるならやってみようかなというムードをこのメンバーで作っていきたいと思うよ。それが楽しかったら尚更最高じゃない。。
たしかに。やりたい人はどこかで声かけてください(笑)!
いかがでしたでしょうか?話も盛り上がっているところですが、後編はこちらからご覧ください。
町民ライター座談会・前編〜取材の場をチャンスに会いたい人に会える〜
2020年12月に立ち上げたホロロジー。このサイトの立ち上げ時の特徴は、普段からプロライターとして活動している人が文章を書くのではなく、上士幌町の住民や関わりのある方々にライターとしてたくさん活躍してもらうことでした。そして、サイト立ち上げの準備期間中、上士幌町で生まれ育った2人の若者にライターとして携わってもらっていました。
町民ライター
竹中 勇輔
上士幌町生まれの26歳。中学まで上士幌町にいた本日の主役の1人。淡々といつも笑顔でいてくれる。けれど、内に秘めている感情の波は情熱的。
町民ライター
宮部 純香
上士幌町生まれの24歳。高校まで上士幌町にいた本日の主役の1人。優しい笑顔で周囲を包み込む。ミーティングのときは、ビシバシ意見する頼りになるお姉さん。
在住ライター
西村 奈々子
大阪出身23歳。上士幌在住。メンバー最年少を理由にとことん甘えている。やるときはやります。この記事も書きます。ィングのときは、ビシバシ意見する頼りになるお姉さん。
ホロロジー編集担当
野澤 一盛
京都出身、帯広在住。年上を感じさせないフラットさが、皆に愛される。追い詰められたら、エンジンがかかる。この記事のファシリテーター。
町民出身ライターの2人は上士幌町のことをこんな風に語ってくれました。
「ずっといる町だけど、知らない魅力が詰まっていた」
「町にいるけど、改まって話をする機会がなかった、このときを待っていた」
記事を書くために沢山の上士幌町の人に会い続けた2人。取材をしていくことでこれまで見てきた上士幌町とは異なる景色が見えたと言います。地元出身ライターとして関わってみて気づいたことをざっくばらんに語っていただきました。
取材が与えてくれた機会と学び、変化
ようやくホロロジーの公開を迎えるね。準備期間が2カ月あったけど、今までで印象に残ってる取材とかはある?
僕は安藤先生の取材ですね。
はげあん診療所の安藤先生へのインタビュー記事だね。それはまたどうして?
僕はもう、このメンバーに入るときから誰に取材したいかを決めていたんです。安藤先生に10年ぶりに会いたかったから。
初めてのミーティングのときから食い気味だったもんね。
もともと、取材メンバーに誘われたときに「竹中くんは、たくさんの人に会った方がいい」って言われて。人に会うとなると、まず安藤先生に会って話聞きたいなって。
実際会ってみて、記事を書いてみてどうだった?
改まって会う機会を作れると思ってはいなかったので、会えてよかったです。
ホロロジーには、取材の場を借りて会いたい人に会える環境があるよね。
それは本当に。ありがたいなって思いますね。
記事を書くことを通して、学びとか変化したこととかある?
安藤先生が、「できないことはやらない」っておっしゃっていて、それがとても印象的でした。
ほうほう。
初めてその考え方を知ったというよりは、ぼんやりと自分の中にもある考えだったんですが、背中を押してもらったじゃないけど、安藤先生もこう考えているんだったら僕も大丈夫かな、って思うことができたんですよ。
昔から尊敬する安藤先生の言葉だから響いたというか、心に入ってきたのだろうね。
そうですね。
取材を通して相談できるというか。自分の話を聞いてもらえるのもいいよね。
そこはすごい感謝しないといけないところですね。
記事を書くとなると、「話を聞く」だけじゃなくて、「書く」って作業が入ってくるでしょ。書く作業はどういう印象だった?
話を聞くだけとは、全然違いますね。話をして、自分で書き起こす作業って、さらに話した内容を咀嚼してる時間だと思うんですよ。会った時間がより濃くなって、自分の中に入ってくる感じはありましたね。これでただ話を聞くだけだったら、流れていってしまう言葉もあった気がします。
書き起こしてみて思い出す会話って結構あるもんね。
あとは記事としてもこのサイトに残るので、取材のときの気持ちを思い出したいときに読めば、その瞬間に戻れるのかなって考えています。
あやかちゃんは、印象に残ってることある?
特定の人がどうというわけではなく、この体験を通してメディアを見る目が変わったなって思ってて。
その話、詳しく聞きたい。
テレビ、雑誌、新聞とかそれこそネットでも、こういう風に情報って作ってるんだとか、そういう角度でこの人は物事を見ているとか。今まで考えてこなかったことを考えるようになりました。
経験したことがないことをやってみたことで、視野が広がったってことだね。
あと、自分以外の人の話や反応もとても勉強になります。同じ取材メンバー同士でも、人によって知りたいことが異なったり、この人はこういう視点で見てるんだとか。同じことを取り上げてても、違った情報のまとめ方になるんですよね。それは自分に生かせるとこともあれば、自分とはちょっと違うなって思うところもあって。そういう広い視点で、写真や文章そしてメディアを見るようになったと思います。
普段から目にする情報の取り方が、ホロロジーに関わる前と後で変わったということだね。
そうですね。取材も今まで本格的にやったことがなかったし、誰かの話を聞くといっても1人対大勢が多かったので、自分が知りたいことを聞き出すことがこれまでなかったんですよね。
なかなかそういう環境ってないよね。
今はほとんど1対1なので、そうなったときに、どういう質問をすると知りたいことが聞けるのかとか、どんな展開で話をしていくと心を開いてくれるのかとか。めちゃくちゃ考えることが多くて、今回やってよかった理由の一つですね。
学びが多いね(笑)!今後、取材の仕事をしないにしても、自分のことや仕事に生かせそうな視点を身につける経験ができたんだね。
うん。そうですね。
情報って意外とそのまま流れてると思っているけど、自分で情報を作ってみると案外、人の心情とかが入ってるんだ、って感じることも多いもんね。
そうですね。
育った町を改めて知ることで見方が変わった
上士幌町は2人にとっては生まれ育った町だよね。そして町を離れて戻ってきたときに、上士幌町の見方がちょっと変わったりした?小さい頃に思っていたことを思い出したり、今まで知らなかったことを今回の取材を通して感じることがあったのかなって。
ありますね。誰を取り上げるとか、どこを取り上げるかを考えたときに、その人の魅力や本来持ってるものって何だろうって。いくら知ってる人でも、いつもはただ喋っているだけで、記事にすることを考えてみると、意外と深いとこまで知らなかったりということに気づきました。
活動してる事実は知っているけど、その人がなぜそういうことをしてるのか知らなかったりすることは多いものね。
自分だけじゃなく、いろんな人の声を聞くから自分の町ってこういう風にできてるんだなとか、実はこういう人たちがいるんだなとか。そういうところはだいぶ目線が変わりましたね。だから知らない人にも声かけてみようかなとか、行ったことない店にも行ってみようかなとか。
もっと知りたくなってくるんだ。
例えば、今まで全然同級生と町で飲んだことがなかったけど、一緒に飲んでみようかなとか。やってみて気持ちが変わった部分ですね。
めっちゃいいですね。
上士幌町出身の人みんな、ホロロジーの取材メンバーとして関わってほしい!
そうですね、みんなやった方がいい(笑)。
うん、みんな町のことが好きになったりね、大切に思えたりするから。
こんなに上士幌町のこと好きな人たくさんいるんだってね、改めて知れるし。
そうですね。
中編は取材を通して増えた多世代の交流などについて語ってもらっています。
糠平温泉を次世代に続く、元気で豊かな温泉集落に~上村 潤也さん~
「ぬかびら源泉郷をもっと魅力的な地域にしたい。魅力を伝えたい」。上士幌町・ぬかびら源泉郷地区でネイチャーガイドをしている上村潤也さんは、ガイド業の傍らで地域活動に取り組んでいます。「まずは自分のできる範囲で」という上村さんの活動とは。(制作:ホロロジー編集部)
ぬかびら地域未来塾
上村 潤也さん
|うえむら・じゅんや|1986年生まれ、大阪府堺市出身。大手IT商社の営業職として帯広で勤務していた際、十勝に魅了されて移住を決断。大学時代に専攻していた「観光」への仕事に携わりたいと、ぬかびら源泉郷に移住。現在はNPOひがし大雪自然ガイドセンターでネイチャーガイドとして仕事をする傍ら、「ぬかびら地域未来塾」を立ち上げ、地域活動を行っている。
「糠平温泉を次世代に続く、元気で豊かな温泉集落にしたい」
そんな思いから、ぬかびら源泉郷で地域活動に取り組んでいる上村潤也さん。2013年にぬかびら源泉郷に移住し、ネイチャーガイドとして仕事をしています。
ぬかびら源泉郷の自然に惹かれて移住を決断した上村さんですが、地域住民の高齢化や若者世代の減少などにより地域に活気がなくなってきていることを憂えていました。かつては鉄道が敷かれ、スキー場建設やダム建設で人が集まり活気のあったぬかびら源泉郷ですが、時代とともに人口減少が加速していたのです。
「ぬかびら地域未来塾」を設立、地域活動を開始
「このままでは大好きなぬかびら源泉郷が衰退していってしまう。何か行動を起こさなければ」
そう考えた上村さんは、任意団体「ぬかびら地域未来塾」を設立。ネイチャーガイドの仕事しながら地域活動をはじめました。
「移住した当初から、観光の仕事に携わりながら、まちづくりに貢献したいという思いがありました。ぬかびら源泉郷のような小さな町であれば、それが実現できると思いました」と上村さんは話します。
上村さんがまず手がけているのが「地域観光資源の整備」です。草木が生い茂り景観が失われてしまった場所などを整備して、再び観光スポットとして蘇らせる活動を行っています。それも町の補助金などは使わずに自分たちの手で進めています。
「ぬかびら源泉郷にはすごく景観の良い場所がたくさんあるんです。それを取り戻したいと思いました。僕の本業はあくまでネイチャーガイドですので、まずは自分のできる範囲から始めようと、ガイド業の合間で活動しています」
なかには、ぬかびら源泉郷の住民だけでなく、上士幌市街地に住む人たちと一緒に整備した場所もあり、「ぬかびらの住民と市街地の皆さんをつないで交流が生まれた」ことも、この活動を通じての収穫の一つといいます。
また、並行して行っているもう一つの活動が、SNSを使ったぬかびら源泉郷の情報発信です。2019年に「ぬかびライフ」というSNSを立ち上げて、町の風景や季節の様子を伝えています。
「ぬかびら源泉郷は万人受けする地域ではないかもしれませんが、この地域が本当に好きというファンは多いんです。そんなファンの皆さんに向けて、地域の情報を伝えたいと思いました」と上村さん。
さらに、将来は自らガイド業を立ち上げることも視野に入れ「かみしほろ起業塾」にも参加。そこで学んだことをもとに、より魅力的なガイドツアーの企画や、観光客が気軽に立ち寄れるカフェバーなど、新しいサービスを検討しています。
まずは自分が動く
そんな上村さんが大切にしているのは「自らが動く」という姿勢です。
「他人を変えることって難しいと思うんです。それならまずは自分が動く。でも決して無理はせず、今できること、小さなことから始めていく。それが少しずつ広がっていけばいいなと思っています」
少しずつ、少しずつ。ぬかびら源泉郷をより魅力ある地域にし、次の世代にもしっかりとつなげていくため、上村さんは活動を続けています。
【ぬかびら地域未来塾(ぬかびライフ)】
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いつまでも昔の話で笑っていたい場所、「サン・クロス」【後編】
1968年に開業した上士幌町のカフェ「サン・クロス」。前編ではこのお店の歴史やこのお店のお母さん・辻洋子さんのお話をお伺いしました。後編は、たまたま居合わせた常連さんと上士幌町の歴史などについて語ることになりました。取材であっても、たまたま居合わせた方とトークを広げる、これが喫茶店のカウンターのよさですよね。少しでもこの場所の雰囲気を味わっていただければ。(取材日:2020年10月)
WRITER
須藤 か志こ
釧路市在住の24歳。北海道の各地域に出向き、取材や執筆をしています。この記事の執筆のため、上士幌に初めて訪れ、その面白さに心が惹かれています。
気球を飛ばしたあとは「サン・クロス」へ
お二人が営む「サン・クロス」の窓枠には、豪華なステンドグラスが嵌め込まれています。カラフルな気球のデザインが施されており、ここ上士幌町が気球の町であることを伺わせます。
気球の町として、いまよりももっと盛り上がっていた頃も、ここ「サン・クロス」は、多世代の交流の場として使われていたようでした。
そのときのお話を聞こうとしたとき、再び、別の常連さんが登場。すると、洋子さんが「ちょうどよかった!おいでおいで」とカウンターに招きます。
どうやら、この方・菅原博治さんが上士幌町を気球の町へと成長させた立役者の方とのこと。
せっかくなので、菅原さんも交えて、上士幌町が気球の町として知られるようになった経緯について伺ってみることに。
そもそも、なぜ上士幌町は気球の町として知られるようになったんですか?
元々大学生を中心とした気球チームが、ニセコなど、北海道各地でバラバラに気球を飛ばしていたんだよね。そのときに、みんなで一同に会して集まれる土地がないかと探していたとき、上士幌町が選ばれたんだ。
へえ!それは、どなたかが号令をかけて集まったんですか?
実は、私の知り合いが上士幌町に農業実習で来ていて。その知り合いの妹さんが気球をやる人で、「上士幌町ならできるんじゃないか」ということで、やってみることにしたんだよ。
なるほど。どうして上士幌町は気球を飛ばすのに向いているんですか?
まず、風が強い土地ではないからでしょうね。それから、上士幌町には、酪農家さんが多いでしょう。昔は牧草地がたくさんあってね。牧草を刈り取ったあとに気球を上げていたのよ。広い土地を目いっぱい使えるからね。
なるほど。海辺の町じゃできないことですね。地元の人の反応はどうでしたか?
うーん、地元の人でも参加している人はいたけれど、当時は賛成派とそうでない人が、半分ずつくらいだったかなあ。
それはなぜですか?
牛がびっくりしちゃうんですよね。だから最初は大変だったと思います。
そうなんですね。
それでも、だんだんと気球が定着していって、この間50周年を迎えたんだ。
50周年ですか!すばらしいですね。
最初にここで気球を飛ばし始めた連中は、まだまだ活躍中だよ。全国あちこちで大会を主催したりしているの。
いやあ、本当にきれいだったよ。気球をやろうって上士幌町に来てくれる大学生も多くて、「サン・クロス」にもよく来てくれたの。
当時から、外から来た人との交流の場所になっていたんですかね。
結果的にそうだったかもしれないですね。外からの人と地元の人でお店がいっぱいだったの。
いい景色の中で、気持ちよく気球を飛ばしたい。そういう純粋な気持ちを持った海外からの選手、若い大学生が上士幌町に来るんだ。気球を飛ばして終わりじゃなくて、みんな気球について話したくてしょうがないんだよね(笑)。だから自然と「サン・クロス」に集まっていたんだろうね。上士幌町にそんな人たちがたくさん来ることがないから、地元の人たちにとっては新鮮な経験だよね。上士幌町にいながら外から来た人と交流ができる。そんないい時代だったよ。
以前の上士幌町に思いを馳せる菅原さんの目は、過去の栄光を懐かしむものではなく、いま正に気球を目の前にしているかのように楽しそうに輝いています。
いつまでも同じ話を繰り返すように
およそ50年前「広くて風が強くないところ」という理由で気球人口が少しずつ増え、気づけば「気球といえば上士幌町」とまで認知されるようになった上士幌町。
民間による開拓、戦争、糠平ダム建設、そして気球。いくつもの点が連なり、上士幌町は現在に至ります。
上士幌町の歴史を伺ったところで、ホットコーヒーをすすりながら再び辻ご夫妻にお話を伺ってみます。
いまも昔も、ホットコーヒーが一番出ているメニューなんですか?
そうですね。帯広から豆を取り寄せているの。
何かこだわりはあるんですか?
うーん……。美味しいもの!
そうですよね(笑)。
そう、美味しいものを使ってます(笑)。昔はもっとたくさん出てたから、わざわざ配達に来てもらってたの。でも基本的には豆は豆屋さんにお任せ。だって豆屋さんなんですもの。
カラッと話す洋子さん。
この町で53年続けてきた「サン・クロス」ですが、何か印象的だった出来事はありますか?
そうですね……。どの時代にも、そのときそのときの大変さがあったよね。夜遅くまで営業していたときは体力も続かなくて、寝ちゃうときもあったし。子育てもしていたから、子供とお店と何回も往復して。
そうですよね。
それでも通ってくれるお客さんがいるからなんとかね。私、栄養士の資格を持っているから、お客さんに出す料理もいろいろ考えるわけ。美味しさと栄養のバランスを考えながら作るんだけど、料理を出しても誰も「美味しい!」なんて言ってくれないのよ。
ええ?どうしてですか。
みんな漫画に夢中なんですよね(笑)。だから味の感想なんて言ってくれないのよ。うちにはいまの副町長さんもずっと通ってくれていたんだけど、あるとき「美味しい?」って聞いてみたの。そしたらさ、「美味しくなけりゃ来るわけないっしょ!」って言ってくれて。いやあ、ほっとしましたね(笑)。
いまはお料理は出されていないんですか?
フライパンが重くて、腕を怪我しちゃってね。いまはフライパンを振れないんです。
そうだったんですね。
夫も病気がちで、あまり体調が良くない時期があったの。いろいろ重なって、店を畳もうと思ったときもあったんだけど、町の人が「ここがなくなったらほかに行くとこない」って言ってくれてね。細々と続けてきたら53年です。
でもお二人ともとってもお元気そうに見えます。
いやあ、身体は曲がるし胃は切除するし頭の回転は鈍くなるし(笑)。うちも井の中の蛙だからさ、新しい話も入ってこないわけ。
でも、ずっと同じ話をするのも楽しくないですか?昔の笑い話を繰り返すとか。
そうね、確かに「あの頃はさあ」とか「あのとき、あいつはさあ」とか。そういう話ならいくらでもありますよ(笑)。
—–
カウンターの向こうで冗談を言い合いながら、息のあったコンビネーションでドリンクを作るお二人の姿を見て、「きっとこのお二人は、ずっとこうしてきたのだろうなあ」と思います。
洋子さんのお気に入りだというチェ・ゲバラのTシャツと、隆弥さんのかっこいいベルト姿は、私には持ち得ない若々しさすら感じさせられます。
盛り上がったり落ち着いたり、騒がしくなったり静かだったり、目まぐるしく変わってきた上士幌町。町と共に53年間存在するこの喫茶店が、いつまでもそこにある変わらない場所として続くよう、願わずにはいられないのでした。
いつまでも昔の話で笑っていたい場所、「サン・クロス」【前編】
鬱蒼とした庭、小さな立て看板、その奥に覗くステンドグラス。ここは上士幌町の喫茶店「サン・クロス」です。A4サイズのコピー用紙に、丸っこい字で書かれた「9:00〜6:00までです。」という文字が入り口のドアに貼られており、なんだか秘密基地のよう。どんなお店なんだろうとワクワクしながら扉を開けると、すぐに耳に飛び込んできたのは、お客さんの小さな笑い声。「ああ、いいお店だ!」という期待と共に始まった、「サン・クロス」を営むご夫婦のインタビューをお届けします。(取材日:2020年10月)
WRITER
須藤 か志こ
釧路市在住の24歳。北海道の各地域に出向き、取材や執筆をしています。この記事の執筆のため、上士幌に初めて訪れ、その面白さに心が惹かれています。
上士幌町の若者が集まる「サン・クロス」
上士幌町出身の辻洋子さんと京都府出身の辻隆弥さんが出会ったのは、京都の大学でした。
結婚後、洋子さんのご実家がある上士幌町に戻ったのは54年前。
「一体この町で何ができるのだろう」と考えていたお二人に、洋子さんのお母様が提案したのが、喫茶店だったそうです。
私の母が上士幌町で歯科医をやっていましたので、そこで喫茶店をやってみないかって言われて。
2階が歯科医で、1階が喫茶店!珍しいですね。
そうそう。その頃、この町には喫茶店がなかったので、母はそういう場所があるといいと思っていたみたいで。
開業してから何年になりますか?
53年。
えっと……1968年ですね。
1968年といえば、若者文化の成長が著しかった時代です。学生運動なども盛んで、活気に満ちた時代に「サン・クロス」は誕生しました。
その頃、上士幌町には1万人くらい住んでいたと思います。いまの人口の2倍くらいは人がいたと思います。
そんなにいたんですね。お客さんは、どんな人が多かったですか?
もちろんずっと上士幌町に住んでいる人もいたけれど、当時大きなダムの開発事業が行われていたの。
糠平ダムですね。
そうそう。そこで働いている人も大勢いたし、昔、役場がこのお店の目の前にあったから、役場の人もたくさんいらっしゃいました。
地元の人と、そうじゃない人と入り乱れて。
もう、すごかった(笑)。毎日毎日お客さんがいらっしゃて……。いまは18時までの営業だけれど、当時は深夜の1時とか2時まで営業していました。
全然休めないですね。
当時、若い人が行くところがないので、それが当たったのね。とても忙しかったです。でも、私たちも若かったからやっていけて。朝にお店の前を通ったら、酔ったお客さんがお店の前で寝ていたことありました。
上士幌町ってお酒が好きな方が多いですか?私の個人的な印象なんですけど、皆さんお酒好きで、なおかつお強い気がします。
今の人はどうだかわからないけれど。ああ、そう!うちの人(隆弥さん)もお酒好きで、昔はお客さんと一緒にワイワイ騒いで楽しかったです。
……あんまりそういうこと言うなよ(笑)。
あはは(笑)。
インタビューなんだから面白いこと言った方がいいでしょ(笑)!
洋子さんと隆弥さんの些細な掛け合いも、「サン・クロス」に温かい笑いを生み出します。
取材の場には、普段から通われている常連さんも。お話を伺ってみました。
お店にはいつ頃から通われれているんですか?
僕は学生の頃から通っていますね。
俺はやっぱりこういう場所、喫茶店が好きだから。50年前から通っていてね。
うんうん。昔は、高校生もたくさん来てました。
そうだね。でも、みんなここしか来るところがないから、デートの場所がいつもかぶるんだ(笑)。
誰と誰が付き合ってたとかも覚えてるよ。結婚披露宴もたくさん呼ばれました。
しみじみとする洋子さん。
そうそう、あっちゃんも来てくれてましたよ。
「あっちゃん」というのは、ホロロジー・スタッフの宮部さんのお母様。
私も、親に連れられてよく来ていました。パフェ目当てで!
いまは作るのが大変だから出していないけれど、パフェも作ってましたよ。
長年通う常連さんや、小さい頃を知っている宮部さんと話しながら、洋子さんは目を細めます。
いまの高校生はどこで遊んでるのかなあ。
多分町外ですね。帯広まで出ていると思います。
あら、そう!いまじゃこの辺りで遊べるところがないからねえ。
話しながら、少し寂しそうに呟く洋子さん。ここで、話題を「サン・クロス」開店前、洋子さんの生い立ちと、町の歴史に移します。
洋子さんは昭和14年生まれだとお聞きしました。戦時中の上士幌町は、どんな様子だったんでしょうか?
私の父親は住職だったんです。彼は最初オペラ歌手になろうと思っていて、でも声が出なくて牧師に……。でもなんやかんやあって住職に。
インパクトのあるキャリアですね。
そういうわけで、父は疎開してきた人やら、傷病人の手当てなどをしていました。本別町では空襲があって、たくさんの方が亡くなったそうです。
そうなんですね。
当時はまだ農作物もなかなかとれなくて、いまのような美味しいご飯は食べられなかったんですよね。いまはスイートコーンやら何やらって美味しいものたくさん食べられるけれど、当時は何にもとれるものがなくて。子供たちはカボチャばっかり食べていたので、みんな手が黄色くなって。
不毛の土地だったんですね。
冬はとっても寒くて、マイナス20℃を下回る日も多くてね。それでも生きていたのですよ。
洋子さんは、帯広市の高校に通われていたんですよね。
SLで通っていました。チャッチャポッポチャッチャポッポって(SLの音を再現する洋子さん)。
言い方が明治なんだよなあ(笑)!
ふふふ(笑)。煤で顔を真っ黒にしながら通っていましたよ。
当時、この辺りの高校から大学に進学される方は珍しかったんでしょうね。
私の同級生は、実は商売人の息子さんや娘さんが多くて。今は、上士幌町に残っている人はおろか、帯広に残っている人も少ないんじゃないかな。
そうなんですね。意外です。
みんな、どこかに進学したり就職したりと、地元を離れていきましたね。だから私の世代で地元に残っているのは、私くらいじゃないかなあ。
洋子さんは京都の大学へ進学されたと伺いました。
そうそう、そこで夫と出会ったの。私は当時、食品化学関係の学部に通っていて、栄養士の資格をとるために勉強していてね。まさか帰って喫茶店開くなんて思っていなかったから、とっておいて良かったよねえ(笑)。
口を大きく開けて笑う洋子さん。すぐそばで話を聞いている隆弥さんも、静かに微笑みながら氷を砕いていました。
話の途中ですが、後編は、取材の途中で隣席に来られた常連さんにもお話をお伺いしました。多くの人が行き交うサン・クロスで、ステンドグラスの絵にもなっている気球の町へと成長させた立役者だと言います。ちょっと話は脱線して、上士幌町の歴史について少しお話もお伺いしました。思わぬ来客があるのも喫茶店のカウンターにいる良さですから。
上士幌×音楽で繋がる人たち 〜バンド『G-clef』座談会〜
ホロロジー座談会企画、今回は、『上士幌×音楽』で繋がる人たち。4区にある『すなっく話』を中心に活動するバンド『G-clef』の皆さんに集まっていただきました。2019年に結成した『G-clef』はほとんどのメンバーが上士幌町出身。音楽を始めたきっかけから、上士幌で活動するにあたっての想いを聞きました。
WRITER
苅谷 美紅 (かりや みく)
北海道千歳市出身。テレビ番組ADをしていた東京生活から、青年海外協力隊としてブラジルへ。コロナ帰国後、MY MICHI2期生を経て、取材メンバーとして活動しています。マイブームは朝起きて熱気球を探すこと。
<バンドメンバー>
リーダー/キーボード
岡崎 和恵さん
1963年生まれ。上士幌町出身・在住。「すなっく話」経営、ピアノ講師
ギター
髙瀨 悟史さん
1962年生まれ。上士幌町出身・音更町在住。十勝管内小学校勤務
ボーカル
山本 健二さん
1960年生まれ。上士幌出身・在住。山本商会(出光シェル石油 上士幌SS)経営
ベース
高橋 秀和さん
1966年生まれ。上士幌町出身・在住。電気工事士
クラリネット/パーカッション、時々ダンス
高橋 阿紀さん
1986年生まれ。上士幌町出身・在住。かみしほろ情報館勤務
ドラム
杉山 雅昭さん
1969年生まれ。上士幌町出身・在住。(株)コントラサービス勤務
ドラム
安田 涼さん
1973年生まれ。2017年に横浜から上士幌町へ移住。(株)生涯活躍のまちかみしほろ勤務
メンバーの出会いとバンドの始まり
――このバンドは30代から60 歳を超える方まで幅広い年齢層のメンバーが集まっていますが、どんな繋がりから生まれたんですか?
まず、私と秀和(高橋秀和さん)が姉弟なんですよね。
僕と和恵ちゃんが小・中学校の同級生。僕が新得町でバンドをやっていたときに、そのライブに和恵ちゃんが来ていてね。それを見て「上士幌でもバンドを組むんだけど、ギター弾かない?」って誘われたんだよね。
そう、たまたま遊びに行ってたんだよね。それで声をかけたことが最初のきっかけだったね。健二さんは元々奥さんと仲良くさせてもらっていたんだけど、あるとき歌を聞いたらものすごく上手くて。それでバンド組むときは絶対にボーカルに誘うって決めていた。阿紀ちゃんも前に一緒にやっていたから声をかけてね。
まだ私が結婚する前でしたよね。
涼さんはたまたま阿紀さんが紹介してくれたんだよね。
何かの食事会で阿紀さんと相席になったんですよね。確かそのときに、高校時代にドラムを叩いていたという話をしたんですよ。でも声をかけられたのは、それから1年以上経ってからだったね。
そう。「涼さん、ドラム経験があるって言っていましたよね?」って。
よく覚えていたよね(笑)。
――そういえば、どうしてドラムは2人なんですか?
涼さんが参加できないときに僕が助っ人で入ったんですよね。和恵さんとも、昔からの音楽仲間だったし。
<バンドメンバー相関図>
メンバーはみんなバンド経験があったけど、健二さんだけ未経験者だったよね。
――初めてのバンドはどうですか?
上士幌町で生まれ育って、60年もこの町に住んでいるんだけど、この年齢になって30代や40代の人と一緒にやることがすごく楽しいですね。60歳になっても新しいことができるというワクワク感があります。
メンバーは和気藹々としてます。
ボーカルが若い人じゃなくて、還暦を過ぎた人がやることに価値があると思うよ。シニア世代に希望を与えられるじゃない。
健二さんは商売をやってるから、お客さんを盛り上げるのが上手いよね。
このバンドで初めてチャリティーライブをしたのが2019年の9月で、それが僕の記念すべきバンドデビューだった。
――チャリティーライブですか?
2018年に東胆振の震災があったじゃないですか。それでチャリティーライブをしようということになって、その1年後の9月にやったんですよ。チケット売上の何割かを寄付して。2020年もやりたかったんですけど、コロナウィルスが流行しちゃったから見送ったんですよね。
音楽を始めたきっかけ
――皆さん、音楽を始めたきっかけは?
私はまず親が好きだったね。その影響で小学校の頃からベンチャーズとか聞いていたから。幼稚園のときからオルガン習っていたし、それからエレクトーンを習うようになって、大人になってからは自分が生徒さんに教えるようになって。だから鍵盤は小さいときからずっとやってます。
僕は中学生のときに同級生と初めてバンドを組んだ。高校時代も続けていたけど、社会人になると一度離れちゃった。時々弾いてはいたけれど、ちゃんと再開したのはこのバンドがきっかけだな。
ブランクがあるのによく弾けてるよね。
昔取った杵柄ってやつだな。昔一生懸命練習したことって、やっているうちに思い出してくるんだよ。
僕は最初にドラムを叩いたのは中学生のときで、33歳くらいまでバンドやってた。子供ができてから一度ピタッとやらなくなっちゃったんだけど。
いわゆるヴィジュアルバンドでドラム叩いてたんですよね?
当時のリーダーがラジオのDJやっていて、その人を中心に全道をまわっていたね。CDも何枚か作らせてもらって、テレビにも何回か出させてもらったよ。
一同 えー!すごいじゃん!
涼さんはいつから叩いてるの?
僕は高校時代ですね。ディープパープルのコピーから始まって。あとは大学時代に少し。まさか上士幌でバンドやるとは思っていなかったですよ(笑)。
僕は中学3年生のときに同級生の家でフォークギターを触ったのが最初のきっかけだったな。
私は中学校の吹奏楽部で初めてクラリネットに触った。高校も吹奏楽部で、卒業してからも帯広の吹奏楽団で活動もしていて。その間も何度か和恵さんに誘われましたよね。
そうね、何度か声をかけてるね。(秀和さんと阿紀さんの)子どもたちも音楽好きよね。歌が始まるとよくリズム取っているもの。
家にも練習用のドラムやキーボードがあるからよく触ってますよ。
スティックで障子は破られたけどね(笑)。
――健二さんは60歳でバンドを始めて、ご家族の反応はどうでしたか?
最初は息子も孫も「本当にやるの!?」って驚いてたけど、ライブを見に来てくれて「かっこよかったよ」って言ってくれたことが嬉しかったですね。
良かった。スカウトした甲斐があったわ(笑)。
上士幌で活動する思い
――バンドのコンセプトってあるんですか?
自分たちや客層に合わせて、昭和の歌謡曲やポップスを意識しているんだけど、聞いた人が踊りたくなるような曲を提供することかな。
十勝管内を見れば、昭和の曲が好きな人って、すごくたくさんいるよね。さっきの新得もそうだけど、いろんな町で地元の人がバンドやってる。だから上士幌でも絶対にやりたいって思ってた。
このバンドも、上士幌のまちづくりに少しでも貢献できたらって思うよね。スナックや居酒屋でもっと演奏して、みんなを楽しませることができたらいいなって思う。この「すなっく話」も最初からライブ演奏ができるスペースを作ったんでしょ?
そう。昔からやりたいっていう気持ちはすごくあったから。エレクトーン1台でもいいから置いて何か弾けるようなお店をやってみたいって思ってて。それで自分がお店をやることになったときに、絶対に演奏できるお店にしようって思ったの。
――今はライブも難しい状況ですよね。
今は活動は自粛しているんだけど、悟史さんを中心にして上士幌町をPRできるオリジナル曲を作っています。
――へえ、どんな曲ですか?
今作っているのは『上士幌Tonight』というタイトルで、この店(すなっく話)での男女の関わりをストーリーにした曲。そして、上士幌のご夫婦の愛を歌った『ずっと一緒に上士幌』、ナイタイ高原牧場をモデルにした『ナイタイで逢いたい』っていう曲。上士幌をテーマにしたご当地ソングを、全国に発信できたらと思います。
音源を作ったら音楽配信もしたいって話してるよね。たくさんの人に聞いてもらって、皆さんと一緒にまちづくりに役立てたいなと思ってる。
ボーカルが肝心ですから、頑張ってくださいね(笑)。
はい(笑)。
みんなで盛り上げていけたらいい
――ほかにもやってみたいことはありますか?
雪が溶けて暖かくなったら、わっか(生涯学習センター)の横のステージで野外ライブやりたいな。
いや、ナイタイ高原で野外フェスでしょ(笑)!
ナイタイ高原で『ナイタイに逢いたい』演奏したいですね。
航空公園は?
バルーンフェスティバルで演奏するのもいいな。実は昔出たことがあるんだ。
道の駅もできたしね。お願いすれば外で演奏できるんじゃない?
僕は高校から町を出て行ったから、人口が減っていくことを憂えていたけど、今は逆に涼さんのような移住者も増えているじゃない。新しいものもできて町全体が面白くなっていると思うんだ。そんなときにバンドに声をかけてもらって、ふるさとの人たちと繋がっていけるのはすごく嬉しいよ。
「すなっく話」も昨年(2020年)の10月にオープンした新しいお店ですしね。
昔に比べたら人口は減っているけど、ただ寂しいって言っていても何にもならないじゃない。だから私にできることをしようって思ったの。
でも本当に、和恵さんが声をかけてくれたおかげでこのバンドができたからね。
新しい生きがいをありがとう。
せっかくお店もできたから、この「すなっく話」が上士幌をテーマにした音楽や文化の発進拠点になっていったら面白いと思う。
僕も自分の子どもの頃の原体験とか、タウシュベツ川橋梁のような観光資源も題材にした曲を作ってみたいな。町花のすずらんとか熱気球とか、テーマもいろいろあるし。
みんなで活性化できたらいいですよね。自分たちだけじゃなくて、私たちの音楽を聞いてくれる人たちも含めて盛り上げたい。
そうね、頑張りましょう!
上士幌町で生まれ育ってずっと住んでいる人、本州から上士幌町に移住して来た人、別の町で暮らしていても地元上士幌町に関わりたいと思っている人。年齢が離れていても、「音楽」を通して「上士幌」で繋がっている皆さんがとても素敵に感じた時間でした。皆さんの音楽が、一人でも多くの耳に届くといいなと思います。
バンド『G-clef』の皆さん、ありがとうございました。
神社があることは当たり前じゃない。上士幌神社を守る神主さん
神社という場所は、古来からその地域の人にとって特別な存在として大切にされてきました。今まで私は、神社というのはどこの地域にもある存在だと思っていました。恥ずかしながら神社といえば参拝客としてお参りしたりおみくじを引いたりする場所としか認識しておらず、いわばいつでもどこにでもあるのが当たり前。そんな風に考えていた私ですが、上士幌神社・宮司の山内さんのお話を伺い、その認識を180°改めることになるのでした。
WRITER
須藤 か志こ
釧路市在住の24歳。北海道の各地域に出向き、取材や執筆をしています。この記事の執筆のため、上士幌に初めて訪れ、その面白さに心が惹かれています。
宮司
山内 豊一さん
礼文島出身。札幌でさまざまな仕事を経験した後、神職の道へ。本州での修行時代を経て北海道神宮、帯廣神社に仕えたのち、昭和60年4月1日より上士幌神社の宮司となる。
山内さんのトンデモ修行の日々
上士幌神社を訪ねると、「ようこそいらっしゃいました」とニコニコ出迎えてくれた山内さん。
滅多にお会いすることがない神主さんという職業の方を前に、少し緊張しながら「今回の記事は、どちらかというとポップな感じで考えていて……」と切り出すと、「いいですね!」とまたまたニッコリ。どうやら山内さんは、私がイメージしていた「神主さん」とは、一味違うキャラクターの持ち主のようです。
僕は社家の出身ではない神主なんですよ。
シャケ……?
そう。代々神社に神職として仕える家系のことですね。一応お伝えしておきますが、「神社は一人一家の私的にするべきではない」としてこの制度は明治に廃止されていますが、実際には現在も旧社家の人間が継ぐことが多いと思います。なので、私のように社家の出身ではない人間が神主をしていることは比較的珍しいのではないでしょうか。
山内さんは上士幌町の出身なんですか?
いえ、礼文島の出身です。私は中学校を卒業したタイミングで礼文島を離れ、札幌へ行きました。札幌でさまざまな職業を経験したあと、姉から「神社に仕えなさい」と言われましてね。当時姉は北海道神宮のガールスカウトに所属していて、その影響から僕を神職にしたかったようなんです。それで姉の言うことを聞き、山形県の神社へ行くことになります。それからそこでの勉強を終え、続いて東京へ。そこでお世話になった宮司さんが、とても厳しいことで有名でして。
どんな風に厳しいんですか?
神職としての勉強、所作、話し方はもちろん、なんと笑い方まで指導を受けるんですよ。
笑い方まで!?
なんでも、そこの神社での勉強が続く人は稀で、僕は4年間お世話になったのですがこれは異例だと言われました(笑)。
どうしてそこで勉強を続けることができたんでしょう?
そうですね……。僕は何かをやるならきちんとやりたいタイプで。そういう性格もあり、続けることができたんでしょうね。
そこの宮司さんはお酒も煙草もやらない人だったんです。ご自身に対しても厳しい方でした。ただ、僕は酒も煙草もやるという……(笑)。
怒られなかったんですか?(笑)
怒られはしないですね。むしろ、宮司さん同士の付き合いの場でお酒が出る場合は、僕が代わりに出席していたくらいでしたから。でもいま思えば、それも一つの勉強として行かせてくれたんだと思います。
メリハリがある職場だったんですね。
その後、その宮司さんに「お前はもっと勉強するべきだ。大学へ行け」と言われまして。ただ、その頃の僕は「東京でやるべきことはやり切った」と思っていたので、北海道に帰りたいと思っていたんです。だからその大学の入試は一応受けたんですが、全部白紙で出しまして。
(絶句)
とんでもないですよね(笑)。さすがに大学に呼び出されました。そのことをきっかけに、宮司さんにも「そんなに北海道に帰りたいなら帰れ!」と言われました。しかし北海道でお世話になることができる神社もあまりなくて……。1カ月だけ受け入れてくれる神社があったのですが、北海道に帰ってきたことが姉にバレまして、「北海道神宮で面倒を見てやる」と言ってもらい、札幌へ戻るわけですね。
ここまでがたった数年の話ですよね……。すでに記事のボリュームが心配です(笑)。
それからやっと札幌に戻ることができたと思ったんですが、続いて帯廣神社から「人手が足りないから手伝ってくれ」と声をかけていただき、異動することになります。
神社にも異動があるんですね。
帯廣神社では必死に働きました。お社を建て直すこともあり、とても忙しかったんです。ヤンチャだった僕の面影がなくなるくらい(笑)。ここで5年半ほど一生懸命働いたので、「そろそろ札幌に戻れるんじゃないかな」と思っていたら、次は「上士幌神社に行ってくれ」と。
ああ、やっと上士幌に!
礼文島から上士幌神社へ
波乱万丈の修行時代を経て、ついに上士幌町の地を踏んだ山内さん。
同じ北海道とはいえ、礼文島出身の山内さんは内陸の上士幌町の文化に戸惑うことも多かったようです。
僕が上士幌神社に来た理由は、先代が高齢で退職されるからでした。上士幌町唯一の神社の宮司さんがいなくなっては困るということで、僕がやってきたわけです。
知らない土地で、いきなり宮司さんに。
そうなんですよ。上士幌町に来たとき、この町の経済状況があまりよくわからなくて戸惑いましたね。僕は海沿いの町の出身ですから、港町でのたくさん物が売り買いされて、派手にお金を使うような経済スタイルはわかるんです。上士幌町は農村地域なので、どちらかというと自給自足、自分たちで食べるものや使うものを育て、自分の家で消費するような生活が中心。なので、最初は探り探りで町の状況を調べ、僕のような経歴の人間の経験を生かせる機会がないか考えていました。
なるほど。
僕自身は、「せっかくここに来たのだから、旧態依然とした環境を変えたい!」と息巻いていました。上士幌神社がそうだというわけではなく、全国的に神社の世界は旧態依然とした価値観が根付いていたことを知っていたので、自分がその価値観を変えるような先駆けになることができればいいなと思っていたんです。
今まで全国を渡り歩いてきた経験を生かすときですね。
僕が外から上士幌町に来た人間で、いい意味で地縁に縛られない立場だということもあり、チャンスだと思いました。いかに神主としての職務をまっとうしながら、地元の人を巻き込みながらこの神社をより良くしていくか。これが使命だったわけですね。
最初に上士幌町に来たとき、地元の皆さんの反応はいかがでしたか?
上士幌町民の皆さんは、「帯広からわざわざ来てくれてありがたい」と言ってくれました。ただ、お寺と神社の違いをあまり意識されていなかったかもしれませんね。あくまで「宗教関係者」という風に僕のことを認識されていたかもしれません。
と言うと?
お寺に勤めていらしゃるお坊さんは、法事や読経で檀家さんを周られますよね。神社の神主は周らないんです。僕は「そこにある」ということが、神社の役目の一つだと思っています。神社は一つの地域に必ずあり、そこに地元住民がお参りするもの。だからこそ、地元住民で守らなきゃいけないものだと思っているんです。
神社は、神主さんだけが守るのではなく、地域全体で守っていくものという意識が大切だということですか?
そうです、そうです。神社は無くしちゃいけないものなんですよ。地域ができるときには、最初に神社と学校ができるものなんです。役場などの行政機関はその後についてくるんですね。
行政機関と同じくらい大切な施設なんですね。
僕はそう思っています。
公開される神社
上士幌町の皆さんにもっと神社の重要性を意識してもらうために、どんなことに取り組まれたんでしょうか?
一番初めに取り組んだことは、組織づくりですね。
おお!
これには全町あげて取り組みました。ここで、上士幌町神社の経営状況を公開したんです。
ええ!?いいんですか!?
もちろんいろいろ言われましたよ。でも、お参りや御祈願で地元の皆さんからお金をいただいている以上、そこについては公開すべきだと私は思っています。それから、地元の皆さんに上士幌神社の経営状況を知ってほしかったということもあるんです。
地元の皆さんの反応はいかがでしたか?
かなりびっくりしていたようです。皆さん、「こんなに大変だったのに、前の神主さんは一人でやりくりしていたんだ……」とおっしゃっていました。他にも、僕が1日何をしているのか、スケジュールも公開しました。朝は何時に起きて、こういうお務めをして、ということを公開したんです。
お話伺っていると、ますます民間企業のようです。
今まで見えてこなかった神社のベールを剥いで公開すると、住民の方の神社へのイメージがガラッと変わったんです。「神社ってこんな場所だったんだ」「神主さんはこんなことをしていたんだ」と知ることで、印象が変わったと言ってくださいました。神社があることは「当たり前」かもしれない。だからこそその「当たり前」は、地域で守っていかなきゃいけないものなんです。
いつでも話せる神主さん
そんな上士幌神社で話題なのが、気球のお守り。その見た目の愛らしさから、地元新聞紙を中心に話題となりました。
このお守りですが、どういった経緯で作られたものだったんでしょうか?
先ほども話した通り、神社と地域は密接に結びついています。この新型コロナウイルスの影響で、少なからず上士幌町もダメージを受けており、以前と比べると町に元気はありません。何か神社として町の助けになれればと思い、制作したものなんです。
正直、お守りや絵馬って見た目も少し堅苦しくてあまり買わなかったんですが、思わず手にとってしまう可愛らしさです。こういう新しいことに挑戦するパワーは、どこから湧いてくるんですか?
私は「やらない」「やるな」ということは言わないんですよ。「やる」「やってみたらいい」ということばかり伝えています。みんな能書きは思いつくんですよね。でも手を動かしてみないとわからない事があるのではないかと。今まで挑戦してきたこと、すべてそうでした。神社のあれやこれやを公開するなんて前代未聞ですし、ほかにもここでは話せないこともいっぱいあります(笑)。でもまずはやってみることが大事なんじゃないですかね。神社に相談にくる方にも、よくそうやって話していますよ。
「神社に相談にくる」?それって一般の方がってことですか?
そうですね。地元の方とか。
山内さんと話していると忘れそうになりますけれど、私、神主さんって気軽に話せる存在じゃないと思っていました。
ああ、そうかもしれませんね。私はよくここで地元の人とお茶をしながら話していますよ。子供から大人まで、いろいろな人が訪ねてくるんですよ。
皆さん、どんなことをお話ししていくんですか?
まあ、他愛もないことから、いろいろな相談ですね。私のところには、悩みに対して解決策が欲しくていらっしゃる方もいますし、ただただ耳を傾けてほしいという人もいます。それぞれがどんな風に話を聞いてほしいかに合わせて話を聞くように心がけています。
神主って、いつでもここにいる存在かなと思うんですよ。「会いにいける神主」みたいな(笑)。先ほども話した通り、神社は「そこにある」ことが役目の一つですから。だから、神主である僕もいつもいて、気が向いたら話すことができる。そんな風に地域の人に親しみを持ってもらえていたら嬉しいです。
「神社がある」ことは「当たり前」かもしれないけれど、その「当たり前」は誰が作っているのか?そんなことを考えたこともなかった私にとって、今回のインタビューはとても衝撃的でした。
「まちづくりと一緒ですよね。『当たり前』は自然発生するものじゃなくて、誰かが作っているんだから」とインタビュー中にサラッと話す山内さんの言葉を聞いて、身が引き締まる思いです。
「そこにある」ということは、一見すると簡単に見えるかもしれません。しかし、「そこにある」を継続し、次の世代まで繋げていくことは容易なことではありません。思わず「いやあ、本当にすごいですね……」と声を漏らすと、「いや、先代は45年間一人で神主をやっていましたから。僕はまだここへ来てから30年ちょっとしか経っていないので、あと15年経ってから評価してください(笑)」となんでもないように言う山内さん。その言葉一つひとつを、改めて大切に考えていきたいと思うのでした。
小学1年生の勉強のお手伝いをしてみました!
2020年12月に私たちJICA訓練生は「町内の方々の困りごとを、訓練生が人材センターの会員として自分たちの得意分野を活かして解決します」という企画を行いました。私たちが8月に来町してからお世話になった人たちに向けて、「何かお手伝いできませんか」と声掛けをしたところ、勉強のお手伝いの依頼をいただくことができました。
WRITER
田中 亮 (たなか りょう)
JICA訓練生。1982年生まれ。茨城県出身。自然が好きで、土や水の分析をしてきました。自然豊かな上士幌町に「個性」を感じています。もっともっとこの町の「個性」を発掘していきたいです。
今回、勉強のお手伝いをするのは、小学校1年生の千葉空(そら)ちゃんです。お父さんの学さんとお母さんの礼子さんからは「勉強の面白さを教えてほしい」と要望をもらいました。今回、教えるのは国語。今、授業では、ひらがな、カタカナ、漢字をやっているそうです。空ちゃんは、もともと絵を描いたり、折り紙を折ったりするのが大好きなのだそうですす。
テキスト作成
勉強の面白さを知ってもらうため、絵を描くことが好きな空ちゃんには塗り絵と組み合わせれば、楽しく学習できるのではないかと考えました。そこで漢字の成り立ちを絵にして、塗り絵をしてもらうという勉強方法を編み出しました。
1年生で習う80字の漢字から「目」と「口」を選ぶと・・・
ロボットの完成です。足や手を付け加えたりお絵かきすれば楽しめるはずです。
自然系では、山、川、木、田んぼなど。
こう考えると、漢字を考えた当時の人たちの想像力はかなりすごかったことが実感できました。きっと、空ちゃんは、漢字の成り立ちを知ったら驚くだろうなとわくわくしながら準備を終えました。
当日〜漢字の成り立ちを学ぼう〜
今日は、漢字の勉強をしてみよう!
やるー!
まず今日、勉強で使うのはこの絵だよ。
(ロボットのイラストを手に取り)これは、目でしょ。これは口だよ。目はね、目の形をしているから目なんだよ。ほら、横にすると目になるでしょ。
・・・。
当初は、漢字の成り立ちを一緒に考えて、塗り絵をしながら教えるつもりでしたが、すでに空ちゃんは知っていました!
用意した山、川、木、田のイラストも次々とめくりながら、漢字の成り立ちを話してくれます。
こちらの思惑通りにはいきませんでしたが、空ちゃん、面白さをわかってるじゃん!!
漢字の書き取り
すると急遽、お父さんから翌日の漢字テストに向けて対策をしてほしいとリクエストをもらい、漢字の書き取りの特訓を始めました。最初の要望に立ち返って面白さを伝えるため、クイズ形式にしました。
イラストを描いて〇で囲んだ部分を漢字にしてもらおうと考え、女の子を描いていたら
空ちゃんが興味を持ってくれたみたいで
「これ、空じゃん」
といいながら、漢字を書いてくれました。イラストが上手く伝わったみたいで安心しました。
漢字も完璧です!!
耳も右側の部分がきちんと突き抜けていてバッチリです。
調子にのって、あるキャラクターに寄せてイラストを描いてみたら・・・
世代が違いすぎて伝わりませんでした(苦笑)。
しぶしぶ口頭で伝えて漢字を書いてもらうことになりました。
女忍者のくの一から「女」の成り立ちを覚えてもらおうとしましたが、こちらも世代が違いすぎたのか、難しすぎたのか、女忍者が伝わりませんでした・・・。
似ている漢字
次は似ている漢字の書き取りです。
早速、書いてもらいます!
「木」「林」「森」の漢字を書き終えて空ちゃんが一言、
これってポケモンの進化みたいだね。
進化??
後でわかったのですが、ポケモンは3段階に進化するみたいで、それを例えていたようです。ピカチュウもピチュー、ピカチュウ、ライチュウに進化するんだとか。きっと、空ちゃんには林がピカチュウに見えたことだと思います。空ちゃんの感性にますます驚きっぱなしです。
また空ちゃんは漢字の一覧表を見て、
「見、貝、目は似てるね」と、3つの漢字を並べて書いてくれました。
ますます、空ちゃんの着眼点はすごいなということに気が付かされました。 お勉強は、ここで時間がきてしまいました。
空ちゃんからのお礼
今度は空ちゃんからお礼にと折り紙を教えてくれました。
とても丁寧に教えてくれて、四つ葉のクローバーができました。
空ちゃん、ありがとう。
最後に
勉強のお手伝いは、空ちゃんから教わることも多く、有意義な時間を過ごすことができました。
最後に空ちゃんからは「次は、2年生の漢字を教えてもらいたい」との言葉をもらい、今回のことで漢字を少しでも好きになってくれればこれより嬉しいことはないなと思いました。
今回は、かみしほろ人材センターを通して、お世話になっている方々に困りごとを聞いて、出てきた依頼でした。やってみると、当初の目標の「勉強の面白み」を空ちゃんに教えるだけでなく、私も一緒に味わえたような気がしました。今後もこのような世代を超えた交流が進めばいいなと思っています!
※かみしほろ人材センターの事業紹介記事はこちらから
上士幌の水は美味しい?水のプロのJICA訓練生が調べてみました!
上士幌町の水が美味しい。それは市販されているミネラルウォーターではなく。蛇口を捻って出てくる「水道水」のことです。そう、ここ上士幌町は、水道水が美味しいのです。私は関東にいたときは水を飲むと言えば「ミネラルウォーターを買っていた」のですが、その習慣が上士幌に来てからはすぐになくなりました。上士幌町の水の美味しさをホームページにアップされている「水質検査結果」から解明してみました。
WRITER
田中 亮 (たなか りょう)
JICA訓練生。1982年生まれ。茨城県出身。自然が好きで、土や水の分析をしてきました。自然豊かな上士幌町に「個性」を感じています。もっともっとこの町の「個性」を発掘していきたいです。
私は前職が分析機関で、水道水や工場排水の成分分析や成績書のチェックなど、水を中心とした仕事をしてきました。年間数百件の成績書のチェックをしていたこともあり、大変興味深く上士幌町の水の検査結果を見ることができました。普段は、水が法律の範囲内に収まっているかどうかを確認するだけだったので、水の美味しさを見つけられることにわくわくしてきます。
そもそも美味しい水って!?
まずは「美味しい水」を簡単に定義していきたいと思います。調べていくと、「おいしい水研究会」という団体が水の美味しさを定義していることを発見しました。
そもそもこの団体は、1985年に日本の水道水の美味しさと背景を調査し、美味しい水の要件を検討するために厚生省(現在の厚生労働省)が設立した団体らしいのです。この団体が、美味しい水の定義を発表しているので、見るべき項目を「上士幌町の水」と「他の都市A、B、Cの水」として比べてみました。
蒸発残留物
蒸発残留物(じょうはつざんりゅうぶつ)とは、水を蒸発させたあとに残る残留物で、この成分は主に水のミネラル分になります。この成分が適度に含まれていれば、コクのあるまろやかな味となりますが、多すぎると渋みや苦味が増してしまうらしいのです。
美味しい水 | 上士幌町 | A市 | B市 | C市 | |
蒸発残留物 | 30~200mg/mL | 104 | 74 | 91 | 150 |
上士幌町の水は、美味しい水の範囲内に収まっていることがわかりましたが、どの都市も範囲内に収まっていて蒸発残留物では違いがわかりませんでした。
硬度
次は、硬度(こうど)です。硬度は、カルシウムとマグネシウムの含有量で表します。
硬度が低いと「軟水(なんすい)」と呼ばれ、味にクセがなく素材の味を引き出す料理に向いているとされています。硬度が高いと「硬水(こうすい)」と呼ばれ、洋風の煮込み料理に向いているとされています。
境目については、いろいろな基準がありますが、通常、60㎎/L以下を軟水、60~120㎎/Lを中硬水、120 ~180 mg/Lを硬水、180mg/L以上を超硬水としています。
美味しい水 | 上士幌町 | A市 | B市 | C市 | |
硬度 | 10~100mg/mL | 29.8 | 27 | 45 | 69 |
これらの情報をもとに見てみると、上士幌町の水は「軟水」に分類され、水の味にクセがないことがわかりました。ちなみに市販されている日本アルプスで採水しているミネラルウォーターも軟水で親しみやすい水だということがわかりました。
残っている塩素濃度が低い
法律では感染症を防ぐ目的から水道水中の塩素濃度を確保しなければならないとされていて、0.1mg/L以上必要とされています。この量が多すぎるといわゆる「カルキ臭」が発生し、水の味が悪くなります。
美味しい水 | 上士幌町 | A市 | B市 | C市 | |
残留塩素 | 0.4mL/L以下 | 0.2 | 1.2 | 0.8 | 0.7 |
上士幌町の値をみると、とても値が低いことがわかりました。もともときれいな水なので消毒する必要があまりないと思われます。
水温が低い!!
水を美味しく感じる温度は20℃以下だそうです。結果を見てみましょう。
美味しい水 | 上士幌町 | A市 | B市 | C市 | |
採水日 | 8月4日 | 8月4日 | 8月19日 | 6月4日 | |
水温 | 20℃以下 | 13℃ | 23.4℃ | 33.1℃ | 22.1℃ |
上士幌の水道水は、なんと夏場に採水しても水温が13℃と、気温よりも低いことが判明。他県では20℃よりも高いのに。大雪山系の雪解け水が影響し、夏でもひんやりした水が飲めるんですね。ここは他と比べて顕著に差が出たところでした。
上士幌町の水は自慢できる水です!
今回、水のおいしさ研究会が出している全ての項目については調べることができませんでしたが、全国の水の状況について見ることができました。
日本のどこの都市においても水の基準値は下回っており、日本に住んでいる以上、水道水は安心して飲めることがわかりました。しかし、それ以上に上士幌町の水は、他の都市と比べると、カルキ臭が少なく、水温が低く、飲みやすく「美味しい水」だということがわかりました。
都会にいたときは、夏場、水道をひねっても出てくるのは生ぬるい水だったため、あまり美味しさを感じたことはありませんでしたが、上士幌町に来てからは水が冷たく美味しさを感じています。今後、JICAの活動において海外に出たときに自信をもって上士幌町の水を伝えることができるなと思いました。
皆さん、上士幌町の水は「カルキ臭が少なく、水温が低いので、美味しいんだよ!」と他県の人に自慢できますよ!
書店がない地域にも本を届けたい~「鈴木書店」鈴木 司さん~
「書店がない地域にも本を届けたい」。そんな思いから十勝管内で移動書店の活動を行っている鈴木司さん。「将来は地元の上士幌町に書店を開業したい」という志を持ちながら、活動を続けています。(制作:ホロロジー編集部)
鈴木書店
鈴木 司さん
|すずき・つかさ|1967年上士幌町生まれ。上士幌高等学校卒業後、10年間上士幌町役場に勤務した後、現在は帯広市内のクリニックに勤務。2017年より十勝管内で移動書店事業を開始、イベント出店などを行っている。2020年度より上士幌町「ハレタかみしほろ」にて出店を開始。将来は上士幌町内に書店を開業することを志している。
本に触れる機会を提供したい
「書店がない地域にも本を届けたい。本に触れる機会や購入できる場を提供したい」
帯広市内の精神科クリニックに勤務する鈴木司さんは、そんな思いから移動書店に挑戦し、活動を行っています。活動をはじめたのは2017年から。本業が休みの週末などを使い十勝管内のさまざまなイベントに出店し、自ら厳選した本を販売しています。
現在は帯広市内に住んでいますが、鈴木さんは上士幌町の出身です。かつては上士幌町にも書店があり、学生時代によく通っていたと鈴木さんは言います。
「学校帰りによく立ち寄っては雑誌や文庫本を購入していました。僕自身、それがきっかけで本が好きになった。書店がなくなると本に触れる機会が減ってしまう。すごくもったいないことだと思うんです」
リアルな場だからこそ出会いが生まれる
そんな自身の原体験もありチャレンジしている移動書店。これまで上士幌町内でもフリーマーケット「楽楽市」やハレタかみしほろ、クラフトキッチンなどでイベント出店を行い、出店回数は約30回を数えます。
「今はインターネット通販で書籍も簡単に購入することができます。購入履歴からはお勧めの本が紹介されてすごく便利ですが、一方で偶発的な出会いが少なくなっていると思います。リアルな書店に並ぶ書籍の中から表紙や背表紙を見て、直接手に取ることで、思いがけない一冊に出会うこともある。それが書籍の良さだと思うんです」
そう話す鈴木さんは、同時に「コミュニケーションの大切さ」も指摘します。
「リアルな場だからこその出会いや発見ってありますよね。お客様との会話から、嗜好がつかめたり人柄が見えてきたりすることもあります。じゃあこんな本に興味があるかなといってお勧めしたり、そんなやりとりが楽しいんです。自分がお勧めした本を購入いただいたときの喜びはひとしおですよ」
また鈴木さんは、移動書店の活動と並行して映画の自主上映活動も行っています。
「書籍が映像化されることはよくありますし、映画を観て原作に興味を持つこともありますよね。いろんなきっかけから本に興味をもってほしいんです。もっとも、僕がどちらも好きということが大きいのですが(笑)」
将来は上士幌町での開業を
そんな鈴木さんは「地元の上士幌町で書店を開業したい」という志を持っています。その実現に向けて事業開業について学ぶために「かみしほろ起業塾」にも参加しました。まずは移動書店を継続させながら、中長期的に開業に向けてのプランを描いています。
「いつか書店を開いたときには、本はもちろん映画も気軽に楽しめる空間にしたいですね。インターネットでは味わえない、お客様との交流の場をつくりたいと思っています」
鈴木さんの活動理念は「本との出会いで豊かな未来を」。
本は世界を広げてくれるだけでなく、時に人生の大切な指針を示してくれることもあります。それは誰でもない鈴木さん自身が知っていること。だから「本を届けたい」。鈴木さんの挑戦は続きます。
※鈴木さんの活動スケジュールは、下記のブログやSNSで告知しています。
鈴木書店ブログ:https://obijisyu.exblog.jp/
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