名人に教わってあんパン作りにチャレンジ!(前編)
大量にいただける食材の活用方法を上士幌町の皆さんから紹介してもらうということで始まったレシピ企画。次なるレシピを求めてたどり着いたのが、料理上手と有名な、千葉与四郎副町長の奥様、正恵さんです。
WRITER
宮部 純香
上士幌町で生まれ、高校まで上士幌で過ごした編集サポートメンバー。小さい頃からお世話になった上士幌を新しい視点で見てみたいと取材を進めています。
あんこを使った料理を教えてください
今回教えていただくことになったのは“あんパン作り”。第1回でたくさんのあんこができたので、あんこを使ったレシピを教えてください!と相談したところ、千葉さんのご提案であんパン作りを教えていただくことに。
正恵さんは習い事をいくつもされていたようで、なかでもパン作りは長かったと伺いました。これまで作った経験のある数々のパンのレシピが初級編から上級編まで、たっぷりファイリングされていました。その中でもあんパンは初級なのだとか。いやでも、なんだか想像しただけで、難しそう…。初心者の私たちにもできるのでしょうか。
まずは生地作りから
ご自宅に入らせていただくと、テーブルの上にはすでに材料が準備されていました。
本日のあんパン作りの材料はこちらです!
【今回使用した材料(16個分)】
・小麦粉 400g
・卵 60g
・イースト10g
・ショートニング 60g
・スキムミルク 8g
・あんこ 800g
・食塩 6g
・砂糖 60g
・ぬるま湯(40℃)200g
・ケシの実 適量
・照りたまご 適量
まずは手を洗ってもらって、さっそく始めようかな。パンをこねるのに、“手ごね”と“機械”があるんだけど、どっちにする?
手ごねがいいです!手の温もりを入れたいです!
そう?大変だけどいい?
やります!手ごねの方が美味しく食べられそうですし!
じゃあ、手ごねにしよう!まず大きめのボウルに、小麦粉(400g)とイースト(10g)が入っているから混ぜてもらっていいかな?これで、16個のパンができるんだよ。
ゴムベラで全体が混ざるようにサクサクと混ぜます。
混ざったかな。そうしたら、スキムミルク(8g)と塩(6g)を加えてさらに混ぜてください。
ガシガシガシ。混ぜるときにボウルから材料がこぼれてしまわないように注意!
混ざったら、真ん中をあけて、そこに砂糖(60g)を入れてくれるかな。そして、この40℃にしてあるぬるま湯を“半分(100g)”入れてね。そして、“砂糖だけ”混ぜる。粉はまぜないよ。
どうして真ん中をあけるんですか?
それはね、砂糖を先に溶かしたいからだよ。
そこに、卵(全卵60g)と残りの水(100g)を入れて混ぜてね。ある程度混ざったら、ボウルから出して手のひらにショートニングを少し付けて、生地を上下に動かしてこねる。ぐいっぐいっと。
あ、これけっこう、油がベトベトして、手にくっつく。難しい…。
手ごねって大変だよね。こねるにはコツがあって、こう、手をね、左右別々に上下に動かして、ぐっぐっ、ってやるといいかな。
めちゃくちゃやりやすくなりました。
ひたすらコネコネ…悪戦苦闘しながら10分経過…。
ショートニングって原料は何なんですか?代用する場合は?
無塩バターでいいと思うな。ほかのパンのレシピを見ても、ショートニングかバターだから。
さぁ、ななちゃんがこねてくれていい感じになったね。
ね、いい感じですよね。すごいもちもちです。おもちみたいな感触でもうすでに美味しそう!
じゃあ、折りたたんでもらおうかな。こねた生地の両端を内側にパタンパタンと折りたたんでもらっていいかな?
ご主人登場!菊練りを披露
このあとは、菊練りをするんだけど、難しいから今回は省こう(笑)。
ん?菊練りするのか。蕎麦ではやるけどね。
与四郎さんは、蕎麦作りしているの。
そうなんですか!?ぜひ、見せていただきたいです!
ここでお買い物に出られていた正恵さんのご主人・与四郎さんが帰宅。蕎麦打ちをされているそうなので、急遽、菊練りを見せていただくことに。
これは柔らかいから難しいな。本当はね、こう、菊の花みたいにくっくって跡がつくんだけど…。
手つきがプロみたいですね。
ね、さすが。
すごいってさ、お父さん、良かったね(笑)。そしたら、これをまず一次発酵させるね。30℃くらいのところに、40分間。今は発酵させる機械を使うんだけど、昔は発泡スチロールを使っていたの。ボウルに入れた生地をラップして、発泡スチロールの中に入れて、そこに熱めのお湯が入った湯呑を一緒に入れるの。その中を30℃ぐらいを保てるように生地に温度計を刺しておいて管理するんだけど、これがものすごく手間がかかるから、今は機械なんだけどね。
ショートニングや機械を持っていない人のことも考えて、別の方法も教えてくださる正恵さん。
発酵を待つ間にあんこの準備
発酵を待っている間に、持ってきてくれたあんこの準備をしようか。パンの中に入れられるように丸めるからね。
1個の大きさは、レシピに50gって書いてあるね。全部で16個あればいいんだね…ねえ見て、私1回で50gにできるようになった。
すごいですね。職人(笑)。
こんな感じでいいでしょうか?
上手上手!
今度は生地を成形しよう。これも、1つ50gだね。まずは、発酵させておいた生地をコッペパンのような形にして、縦半分に切って、
この切ったところに線が入っているでしょ。この線と線の間を縦に切っていくよ。
1本になった生地を、50gにカットして、丸めるからね。これを、ぱたんぱたんと2回半分に折って、
手で包み込んで、テーブルでこすりながらクルクル回して、丸くしてね。
こんな感じですか?
もう少し力を入れて、そうそう、上手。できたのはここに並べて、ベンチタイムといってここからまた15分寝かせるからね。
ここで、副町長にお茶を淹れていただいて15分間のティータイム。
と、いうことで前編はここまでです。後編はいよいよあんこを包んでパンを焼きます!どんな出来になるのか、お楽しみに!
Instagramで「人」を紹介中!
ホロロジーでは「Instagram」を活用し、これまで取材させていただいた方を写真とイラストで紹介させていただいています。この記事では、写真と共に関連コンテンツをご紹介します。
町民ライター座談会・後編〜自分の町で取り組む苦労ややりがい〜
2020年12月に立ち上げたホロロジー。サイト立ち上げの準備期間中、上士幌町で生まれ育った2人の若者にライターとして携わってもらっていました。前・中編では、取材を通して感じたことや幅広い世代との交流をしてみての気づきなどを語ってもらいました。最後の後編は、参加したきっかけや葛藤、やりがいについてを語ってもらいました。町民が自ら足を運んで取材をしてみて感じたことを、ぜひ皆さんにも知ってほしいと思います。
町民ライター
竹中 勇輔
上士幌町生まれの26歳。中学まで上士幌町にいた本日の主役の1人。淡々といつも笑顔でいてくれる。けれど、内に秘めている感情の波は情熱的。
町民ライター
宮部 純香
上士幌町生まれの24歳。高校まで上士幌町にいた本日の主役の1人。優しい笑顔で周囲を包み込む。ミーティングのときは、ビシバシ意見する頼りになるお姉さん。
在住ライター
西村 奈々子
大阪出身23歳。上士幌在住。メンバー最年少を理由にとことん甘えている。やるときはやります。この記事も書きます。ィングのときは、ビシバシ意見する頼りになるお姉さん。
ホロロジー編集担当
野澤 一盛
京都出身、帯広在住。年上を感じさせないフラットさが、皆に愛される。追い詰められたら、エンジンがかかる。この記事のファシリテーター。
2人が育った町で、サポートメンバーを始めたきっかけ
2人は上士幌町で育ってまだ親も上士幌町で暮らしている中で、取材メンバーとして活動するときに、いろいろ町の目があるし、やりづらい部分もあるんじゃないかと想像はしていたと思うんですよ。それでも始めたきっかけってなんでしょう?
最初に声をかけてもらったときは、「父が働いているまちづくり会社の仕事を手伝うのか〜」みたいな気持ちはありました。職員として入るわけじゃないけど、まちづくり会社の活動として町に入っていくわけだし、「宮部の娘」ということもたくさんの人が知っているし。そこでどこまで私に町の人が話してくれるかなっていうのはあって、お父さんにも相談したし、最初は正直やりたくなかった。
へえ〜。
文章は書きたかったし、そういう経験はしてみたかったけど、前向きに活動に参加したってわけじゃない。
そうなんだね。結果的にやろうって思ったのはどのタイミングで、何がきっかけ?
んん・・・今、何かやりたいことがあるわけじゃなかったし。今まで考えたことのない職場や環境の中に入ってみるのも、今、時間があるからこそできるチャンスかなって思って。やめたかったらいつでもやめたらいいよ、みたいなスタンスで会社側もいてくれたから。じゃあまずは1週間やってみようという気持ちで入ろうと。ななこちゃんとは以前上士幌町に来たときに会っていたし、ななこちゃんが参加すると聞いたこともあるかな。
竹中くんはどう?
僕は、8月からまちづくり会社がJICAの訓練生を受け入れることがなかったら、多分ハレタには来ていなかったし。そこですかね、きっかけは。
じゃあ訓練生が来たからだ。
まず、JICA帯広の職員から「今日から訓練生が上士幌町に滞在します。時間はありますか?」って連絡が来たんです。それで顔合わせに参加したら、今日からこの4人が上士幌町に滞在するからよろしくという感じで、その流れで誘われました。
なるほど。すごい縁だね。
僕は時間はあったんで、楽しそうだしやってみようって感じですね。
もともと書くことがやりたかったとか?そういうわけじゃなくて?
もともと書くのは嫌いなんですよ。
(みんな笑う)
小中学校で、作文とか感想文の課題ってあったじゃないですか。それが辛くて辛くて。何でこんな課題があるんだって思ってました。でも大人になるにつれて、読んでもらう人にわかりやすく文章を作るってすごい必要な力だと感じるようになって。それからは苦手だけどやるようになったんです。
2人が実際に活動して感じた“安心のギャップ”
実際に、活動に入ってみて思ってたことは?
うん、こんなにゆるーく入っていいんだなあって思いました。めっちゃ気負って入ったんですよ、しっかりやらなきゃ!みたいな。でもそうじゃなくていいんだって思って。
それはいつ思ったの?
この4人で初めて顔合わせしたミーティングです。
一番最初なんだ。
こんなあったかい感じでいいんだって。もっとバリバリと仕事として請けるものだと思ってたから、いついつまでに何やって、これやってってしなきゃいけないのかなって。でも違うから、あっ、良かったって(笑)
ちょっとカットしといてもらえる(笑)?
でもそのおかげで参加しやすかったですね。
そうかもね。
実際どう?親のこととかの懸念もあったでしょ?
それは今もありますけど。私の発言一つでどうなるとか、見られてるってずっと思っていて、自分がどこに取材に行くのか、誰と会うのかっていうのを。
それは誰に見られているの?
親に見られていると思ってたんですよ、ずっと。別に親からは何も言われたことはないんですよ。でも、仕事としてやるとなったときにそういうプレッシャーじゃないけど、責任みたいなものを勝手に自分で思ってたので。だから最初は取材に入っていくときも、どこまで自分が発言していいんだろうという戸惑いはありました。ようやく最近取材でも自然に会話をすればいいんだなっていうこともわかってきたし、それでもいいんだなっていう自分なりのスタンスもできてきたんで。
きっちりしなくても、自分のやりたいようにやろうって思えるようになったってことかな?
そうです。親がどうだとかは考えなくていいかなって、やっていくうちに思いました。
うんうん。
最初、僕も上士幌町で育ってきたから同じように考えてたけど、あやかちゃんの話を聞いて、自分の悩みは大したことないかもって思えるようになったかな。
結構最初の頃、気にしてたところもあったものね。
そうですね。でも、自分があやかちゃんの立場だったら、と想像したときに「あ、結構やばい」と思えるようになってからは気が楽です(笑)。
(みんな笑う)
町の人たちからどう見られているかが気になるという人もいると思うんだけど。それ通り越して、むしろやって良かったと思うことはある?
今でも多少戸惑いはあります。「やっぱり自分の名前と顔は出るよな」とか、「この人はこんな記事を書くんだ」と思われることとか(笑)。多分私はずっとこの町にいると思っているので、そうなったときに誰が見るかわからないじゃないですか。
確かに、町の人全員見るかもしれないしね。
そう。誰がどこで何を言ってるかわからないから。この間同級生と喋ったときも、良くも悪くも噂って広まるよねという話もしました。でも、それをどうプラスに捉えるかを考えています。自分自身をホロロジーを通して町の人に知ってもらうチャンスですし。
うん、そうだと思う。
だからこそ、仲間がいてほしい
だから、私たちみたいにこういう仲間がいたらいいなって。自分一人で活動するんじゃなくて、一緒に活動する人がいると、やっていても間違いじゃないんだ。大丈夫なんだなって思います。
うわ〜、わかるそれ。うん、仲間はほしいよね。
だから、次来る人も自分1人じゃなくて、友だちを誘ってみるとかいいですよね。仲間を作ってやっていけた方が「だよね!」って共感できることがたくさん生まれると思います。あんまり噂とか気にしなくても、とりあえず楽しそう!から入ってもいいし、途中でやめてもいいわけだし。
そうそう。たしかにそうだね。
町外から来た私の意見としては、「上士幌町で育ってきたらこうだ」とか、「この家の子だからこう生きなくちゃいけない」って言い聞かせて生活をするのって、子が親に対する優しさなんだろうけど、でもそれは親が喜ぶかはわからないと思っていて。
たしかに、それはそうだよね。
親がこうだからっていう、殻に閉じこもるっていうのかな?閉じこもらなくていいのかなって私はみていて思います。
僕はまだ完全に殻を破れていないんだけど、みんなで作ったものを町の人たちに見てもらって、その反応を受けてようやくやって良かったと思える気がします。不安はあって当たり前で、やって良かったという肯定感が不安を上回ったとき、勢いに乗っていけるのかな。
不安半分、楽しみな気持ち半分で。でも自分の言葉を書くのではなくて、人の言葉を扱うじゃないですか。そのときどういう気持ちになりました?私すっごい緊張したんですけど。責任も感じるし。
うん、それはすごく感じるね。
言った言葉をそのまま書いても、自分はそのやりとりを知っているからニュアンスが伝わるけど、それをそのまま出しても意図が伝わるのかというのは難しいなって思って。何回も読み直して、「これを間違った意味に捉えられないか?」というのは、ずっと考えて書いてるかもしれない。
うん。書くなら、その人の良さとか魅力とかが最大限に伝えたいですもんね。
そうそうそう。マイナスにはしたくない。
あやかちゃんがさっき言ってた仲間という中で、そういうのをやっていけたらいいですよね。
興味あることで、どんどん記事を書きたい
取材先を企画するときに意識してたことってある??
知りたいという根本がないと、なかなか取材しても書けないと思うんですよ。だから、本当にここに行ってこの人の話を聞きたい気持ちがあれば、どんどん書けると思うんです。
うん、わかる。
一つ思うのは、人によって興味って全然違うじゃないですか。だからその分メンバーが多いと興味も広がりますよね。
うんうん。
そりゃそうだ。
いろんな年齢層の人が関わってくれたら、自ずと町のいろんなところに取材したくなるだろうなとは思っていて。無理にやるんじゃなくて興味があるところをやっていけるくらい。
そうですね。
2人みたいに地元出身で小さいころから上士幌町です。みたいな人がやっているメディアってあんまりないと思うんだよね。
結構いろんな地方でウェブメディアはありますけど、その地域出身の人がやっているメディアはあんまりないんですか?
それを前面に出しているメディアは少ないんじゃないかな。クリエイティブな会社に頼んで、書ける人が書いて、それを乗せているのが多いと思うよ。
例えばライターを募集していったときに、やってみたいけどちょっと自信がないといった人のフォローはどうする予定ですか?
まずは取材に同行してもらったり、簡単な文章を一緒に考えるところから始めようと思ってる。取材の入り方とか、記事の書き方は必要に応じて、フォローできる体制は作っていけるかな。
そうなんですね。多分やってみたい人が一番不安に思ってることって、やってみたいけどできるかな?というところだと思うんで。サポートがあるのは心強いと思います。
そうかあ。まあできるよ、会話さえ成り立ったらもうそれが既に取材だから(笑)。
(笑)。やってみたら自信はつくと思うんですけどね。
そうそうそう。
それでも腰が重い人は結構いると思います。
いや、すごく重いと思うよ。だからそれをここで一回テーマに出していきたいよね。
うん。実際私たちもね、経験がないところからはじめているんで。同じじゃないですか町の人も。
だからハードルをあまり感じないコンテンツっていいよね。同級生と喋ってみるとか、実際に改まって会いたい人に話聞く企画はめちゃくちゃいいコンテンツになると思う。
やってみたい人がいたら激推しします。
とりあえず、同級生は全学年制覇したいよね。
そういえば今日、たまたま上士幌町出身なんですよって人にあったな。
ちゃんと言った?
何をですか?
同級生に取材しませんか?って(笑)。
(みんな笑う)
その案内は必須だよ。
ちょっとそこまでは言えなかったです(笑)。だから意外と、上士幌町出身の人と出会うなあって思って。ちゃんと声かけて行かなきゃですね。
宣伝もできたし、これで終わろうか(笑)!
そうですね。たくさんの町民の方に携わってもらえるサイトになるようにみんなで頑張りましょう!
いかがでしたでしょうか?
メディアを作ったことのない若者と共にホロロジーは歩みを始めました。インターネット、そしてスマートフォンスが普及し、個々人で情報が容易に発信できるようになった時代。町の情報は特定の機関や人だけが発信するものではなくなってきているように思います。
自分の住んでいる町を知る。自分たちで情報を作り、発信する。その体験をすることで町をもっと好きになる。2人の町民ライターは、それを体現してくれたようにも思います。
ぜひ、たくさんの町の皆さんと一緒に、上士幌町の取り組みや人を伝えられたらなと、ホロロジー編集部は考えています。これからも長いお付き合いができるよう、皆さんと共に歩み続けていけるよう、努めてまいります。
町民ライター座談会・中編〜世代を問わず交流が増える〜
2020年12月に立ち上げたホロロジー。サイト立ち上げの準備期間中、上士幌町で生まれ育った2人の若者にライターとして携わってもらっていました。中編では、幅広い世代との交流をしてみての気づき、はたまた昔からの付き合いのある同級生の取材について語ってもらいました。前編はこちら
町民ライター
竹中 勇輔
上士幌町生まれの26歳。中学まで上士幌町にいた本日の主役の1人。淡々といつも笑顔でいてくれる。けれど、内に秘めている感情の波は情熱的。
町民ライター
宮部 純香
上士幌町生まれの24歳。高校まで上士幌町にいた本日の主役の1人。優しい笑顔で周囲を包み込む。ミーティングのときは、ビシバシ意見する頼りになるお姉さん。
在住ライター
西村 奈々子
大阪出身23歳。上士幌在住。メンバー最年少を理由にとことん甘えている。やるときはやります。この記事も書きます。ィングのときは、ビシバシ意見する頼りになるお姉さん。
ホロロジー編集担当
野澤 一盛
京都出身、帯広在住。年上を感じさせないフラットさが、皆に愛される。追い詰められたら、エンジンがかかる。この記事のファシリテーター。
これまでにない幅広い人と会話するように
取材してどんどん記事を作っていく中で、良かったなと思うことはありますか?
同世代の人でも、今まではなかなか話題に上がらなかったことについて話せたり、おじいちゃん、おばあちゃんとも話す機会が多かったり。こんなに幅広い人とこの短期間で話すことってないから、貴重な経験でした。
取材に行くことで世代を超えた課題みたいなものが見えてきたというか。見ている視点がいろいろあった。こうやって話してるときは僕らの世代の目線があって、違う世代と話すと、違う世代の人たちの話を聞くことができるから、そこを通してこの人たちはこう考えてるんだ。ここはいいと思っているんだというのを知ることができましたね。
うんうん。
多分それを通して、町としてどういう方向性でどんな町にしていったらいいかなとか。そういう話をする場ができたときに、上士幌町民にとってより良い町に近づいていくのかな、と思います。
ホロロジーで幅広い年代の人を取材することで、いろんな世代間の見方が見えてくると思うんですよね。だからこのホロロジーの情報を通して、まちづくりにつなげていけたら、めちゃくちゃいいなって思いました。
確かにここが情報の交流地点みたいになるといいね。
いろんな目線が入ってくることによって、この町の課題は何かとか見えてくるといいですよね。「こういうことを求めてたのか」という声が聞こえてくるサイトになったらすごくいいなっていいなって思います。
町の人たちの声がより届きやすくなればいいですよね。
確かに、町議とかになると年齢層も多分高くなるし。ホロロジーで若い人が書いているもの、それこそ同級生の話を町議の人たちが見て、何か動きが変わってきたら面白いですよね。
うん。めちゃくちゃいい動きだなって思います。
うん、やる意味を感じますよね。
町をより活性化させるための要素になったらすごくいいなって思う。
本当、そうですね。
同級生企画!?同級生と大人になった今、語ってみて
ちょっと話変わって、同級生と対談したじゃない。
はい。すごく面白かったですよ(笑)。
アルバムも持ち寄ってくれたもんね。
そうそう、めっちゃ恥ずかしかったけど盛り上がった(笑)。取材だから踏み込めて、改めて聞けたってことがありましたね。進路の話とか。実は知らなかったなみたいな。
うーん、しないよね。対談は高校が一緒の子だったの?
小中高が一緒の子で。でもクラスが違ったりとか、こっちは進学したけど相手は就職で。改めて、取材ということで突っ込んだ話をしてみて、全然知らないこともあったりして、面白かったです。
そうそう。取材をすると知らない話をたくさん引き出せるよね。
何回か一緒にご飯はしてるんですけど、「でもこんな機会ないと、喋らなかったよね」って同級生から進路の話をしくれて。だから、改まってじゃないとできない話って取材じゃなかったらできなかったし、やって良かったなって実感しています。
そうですね、いい話をしてくれましたね。
こういう話は町を作ってる大人たち、例えば「上士幌町に戻ってきて欲しい」とか「町内の会社に勤めて欲しい」と考える人にすごく参考になる話だと思うんだよね。そういうリアルな本音の情報って実はあまり聞けなかったりするから。
そうですよね。
そういう情報って、僕みたいに、地域外出身で移住してきた人間が一朝一夕で取材しても引き出せない話だと思っているんだよね。
たしかに、昔から馴染みのある顔、地元だからこそ、話せることってありますよね。
そうそう。地元だし、前から知っているからこそ話してしまうっていうね。しかも、取材が始まる前って昔話に花が咲くんだけど、当時の青春の話から始まるから、喋りやすい雰囲気が自然に作れるのもいいなと。
喋りやすい雰囲気を作るって大事ですよね。同級生だと気心知れてるから話しやすい環境に勝手になりますよね。
しかも、嘘ついたら絶対バレるじゃない。同級生は昔のこと大体知ってるし(笑)。
うん、バレる(笑)。
だから正直な話が出やすいと思ってる。同級生シリーズは。
かっこいいこと言おうとしてもバレちゃうよね(笑)。
バレますね。「そんな人だったっけ?」みたいに言われるし(笑)。
竹ちゃんは同級生企画をやってみてどうだった?
楽しかったです。でも昔の僕ってすごい嫌な奴だったんですよ。それを反省して、謝る感じにもなって(笑)。
(みんな笑う)
すごい嫌な奴だったんですよ(笑)。
記事読んでて伝わってきたよね(笑)。
(みんな笑う)
めちゃくちゃひねくれてたんですよ、今もひねくれてるかもしれないけど(笑)。
でも良かったんじゃない?このタイミングにああいう風に話ができて。
良かった、かな(笑)?
(みんな笑う)
でも同級生も取材がなかったら、近くにはいるけど改めて会うことはなかったと思うから。そういえば、取材をしてるときは中学校のときにタイムスリップしたような感覚があったんですよね。
へえー!
話し方とか声のトーンとか聞いたことあるぞみたいな。それがめちゃくちゃ懐かしい感じで。
うんうんうん。
その瞬間はすごい心地良かったですね。だから、タイムスリップしたい人がいたら、ぜひ。
やったらいいですよね〜。
本当にその10何年前に戻った感じというか。
戻れた感覚のときってやっぱり思考が変わったりするの?
中学校のときの自分に戻るんですかね。
取材の文字起こしや記事を作るときも思い出しているの?
そうですね。
「あのときの自分、ああだったからこれからはこういう風にしよう」とか。「あの態度は良くなかったからこれから気をつけようかな」とかそういうのはあったりする?
反省しかないですよ(笑)。
(みんな笑う)
取材が終わってから同級生からは、良かったねとか誘ってくれてありがとうといった言葉はあった?
終わった後ありましたよ。
良かったって?
そうそう。中学校のときは全然話してくれる感じじゃなかったけど、みたいな前置きがあって。改めて話せて良かったよ〜、またご飯行こうねってなりましたね。
おお、すごいね、恋も芽生えるかもね(笑)。
ね、今ちょっといいなあって普通に思っちゃいました(笑)。いいなあ女の子二人に囲まれて。
(みんな笑う)
そういうのを狙っている人はぜひ(笑)。
僕は上士幌町出身じゃないけど、好きだった子と対談したい。あのとき、僕のことをどう思ってたのって、答え合わせがしたい。
あはは(笑)。
やってほしいし、上士幌町の人にも。
うん、上士幌町の人にやってほしいから事例としてまず自分がやりたい(笑)。ホロロジーに関わることへのハードルを下げたいんだよね。上士幌町に同級生の初恋の人を連れてきた。みたいな企画やりたいもの。
やりたがりだ(笑)。
(みんな笑う)
そういう参加方法、あの子に取材できるならやってみようかなというムードをこのメンバーで作っていきたいと思うよ。それが楽しかったら尚更最高じゃない。。
たしかに。やりたい人はどこかで声かけてください(笑)!
いかがでしたでしょうか?話も盛り上がっているところですが、後編はこちらからご覧ください。
町民ライター座談会・前編〜取材の場をチャンスに会いたい人に会える〜
2020年12月に立ち上げたホロロジー。このサイトの立ち上げ時の特徴は、普段からプロライターとして活動している人が文章を書くのではなく、上士幌町の住民や関わりのある方々にライターとしてたくさん活躍してもらうことでした。そして、サイト立ち上げの準備期間中、上士幌町で生まれ育った2人の若者にライターとして携わってもらっていました。
町民ライター
竹中 勇輔
上士幌町生まれの26歳。中学まで上士幌町にいた本日の主役の1人。淡々といつも笑顔でいてくれる。けれど、内に秘めている感情の波は情熱的。
町民ライター
宮部 純香
上士幌町生まれの24歳。高校まで上士幌町にいた本日の主役の1人。優しい笑顔で周囲を包み込む。ミーティングのときは、ビシバシ意見する頼りになるお姉さん。
在住ライター
西村 奈々子
大阪出身23歳。上士幌在住。メンバー最年少を理由にとことん甘えている。やるときはやります。この記事も書きます。ィングのときは、ビシバシ意見する頼りになるお姉さん。
ホロロジー編集担当
野澤 一盛
京都出身、帯広在住。年上を感じさせないフラットさが、皆に愛される。追い詰められたら、エンジンがかかる。この記事のファシリテーター。
町民出身ライターの2人は上士幌町のことをこんな風に語ってくれました。
「ずっといる町だけど、知らない魅力が詰まっていた」
「町にいるけど、改まって話をする機会がなかった、このときを待っていた」
記事を書くために沢山の上士幌町の人に会い続けた2人。取材をしていくことでこれまで見てきた上士幌町とは異なる景色が見えたと言います。地元出身ライターとして関わってみて気づいたことをざっくばらんに語っていただきました。
取材が与えてくれた機会と学び、変化
ようやくホロロジーの公開を迎えるね。準備期間が2カ月あったけど、今までで印象に残ってる取材とかはある?
僕は安藤先生の取材ですね。
はげあん診療所の安藤先生へのインタビュー記事だね。それはまたどうして?
僕はもう、このメンバーに入るときから誰に取材したいかを決めていたんです。安藤先生に10年ぶりに会いたかったから。
初めてのミーティングのときから食い気味だったもんね。
もともと、取材メンバーに誘われたときに「竹中くんは、たくさんの人に会った方がいい」って言われて。人に会うとなると、まず安藤先生に会って話聞きたいなって。
実際会ってみて、記事を書いてみてどうだった?
改まって会う機会を作れると思ってはいなかったので、会えてよかったです。
ホロロジーには、取材の場を借りて会いたい人に会える環境があるよね。
それは本当に。ありがたいなって思いますね。
記事を書くことを通して、学びとか変化したこととかある?
安藤先生が、「できないことはやらない」っておっしゃっていて、それがとても印象的でした。
ほうほう。
初めてその考え方を知ったというよりは、ぼんやりと自分の中にもある考えだったんですが、背中を押してもらったじゃないけど、安藤先生もこう考えているんだったら僕も大丈夫かな、って思うことができたんですよ。
昔から尊敬する安藤先生の言葉だから響いたというか、心に入ってきたのだろうね。
そうですね。
取材を通して相談できるというか。自分の話を聞いてもらえるのもいいよね。
そこはすごい感謝しないといけないところですね。
記事を書くとなると、「話を聞く」だけじゃなくて、「書く」って作業が入ってくるでしょ。書く作業はどういう印象だった?
話を聞くだけとは、全然違いますね。話をして、自分で書き起こす作業って、さらに話した内容を咀嚼してる時間だと思うんですよ。会った時間がより濃くなって、自分の中に入ってくる感じはありましたね。これでただ話を聞くだけだったら、流れていってしまう言葉もあった気がします。
書き起こしてみて思い出す会話って結構あるもんね。
あとは記事としてもこのサイトに残るので、取材のときの気持ちを思い出したいときに読めば、その瞬間に戻れるのかなって考えています。
あやかちゃんは、印象に残ってることある?
特定の人がどうというわけではなく、この体験を通してメディアを見る目が変わったなって思ってて。
その話、詳しく聞きたい。
テレビ、雑誌、新聞とかそれこそネットでも、こういう風に情報って作ってるんだとか、そういう角度でこの人は物事を見ているとか。今まで考えてこなかったことを考えるようになりました。
経験したことがないことをやってみたことで、視野が広がったってことだね。
あと、自分以外の人の話や反応もとても勉強になります。同じ取材メンバー同士でも、人によって知りたいことが異なったり、この人はこういう視点で見てるんだとか。同じことを取り上げてても、違った情報のまとめ方になるんですよね。それは自分に生かせるとこともあれば、自分とはちょっと違うなって思うところもあって。そういう広い視点で、写真や文章そしてメディアを見るようになったと思います。
普段から目にする情報の取り方が、ホロロジーに関わる前と後で変わったということだね。
そうですね。取材も今まで本格的にやったことがなかったし、誰かの話を聞くといっても1人対大勢が多かったので、自分が知りたいことを聞き出すことがこれまでなかったんですよね。
なかなかそういう環境ってないよね。
今はほとんど1対1なので、そうなったときに、どういう質問をすると知りたいことが聞けるのかとか、どんな展開で話をしていくと心を開いてくれるのかとか。めちゃくちゃ考えることが多くて、今回やってよかった理由の一つですね。
学びが多いね(笑)!今後、取材の仕事をしないにしても、自分のことや仕事に生かせそうな視点を身につける経験ができたんだね。
うん。そうですね。
情報って意外とそのまま流れてると思っているけど、自分で情報を作ってみると案外、人の心情とかが入ってるんだ、って感じることも多いもんね。
そうですね。
育った町を改めて知ることで見方が変わった
上士幌町は2人にとっては生まれ育った町だよね。そして町を離れて戻ってきたときに、上士幌町の見方がちょっと変わったりした?小さい頃に思っていたことを思い出したり、今まで知らなかったことを今回の取材を通して感じることがあったのかなって。
ありますね。誰を取り上げるとか、どこを取り上げるかを考えたときに、その人の魅力や本来持ってるものって何だろうって。いくら知ってる人でも、いつもはただ喋っているだけで、記事にすることを考えてみると、意外と深いとこまで知らなかったりということに気づきました。
活動してる事実は知っているけど、その人がなぜそういうことをしてるのか知らなかったりすることは多いものね。
自分だけじゃなく、いろんな人の声を聞くから自分の町ってこういう風にできてるんだなとか、実はこういう人たちがいるんだなとか。そういうところはだいぶ目線が変わりましたね。だから知らない人にも声かけてみようかなとか、行ったことない店にも行ってみようかなとか。
もっと知りたくなってくるんだ。
例えば、今まで全然同級生と町で飲んだことがなかったけど、一緒に飲んでみようかなとか。やってみて気持ちが変わった部分ですね。
めっちゃいいですね。
上士幌町出身の人みんな、ホロロジーの取材メンバーとして関わってほしい!
そうですね、みんなやった方がいい(笑)。
うん、みんな町のことが好きになったりね、大切に思えたりするから。
こんなに上士幌町のこと好きな人たくさんいるんだってね、改めて知れるし。
そうですね。
中編は取材を通して増えた多世代の交流などについて語ってもらっています。
糠平温泉を次世代に続く、元気で豊かな温泉集落に~上村 潤也さん~
「ぬかびら源泉郷をもっと魅力的な地域にしたい。魅力を伝えたい」。上士幌町・ぬかびら源泉郷地区でネイチャーガイドをしている上村潤也さんは、ガイド業の傍らで地域活動に取り組んでいます。「まずは自分のできる範囲で」という上村さんの活動とは。(制作:ホロロジー編集部)
ぬかびら地域未来塾
上村 潤也さん
|うえむら・じゅんや|1986年生まれ、大阪府堺市出身。大手IT商社の営業職として帯広で勤務していた際、十勝に魅了されて移住を決断。大学時代に専攻していた「観光」への仕事に携わりたいと、ぬかびら源泉郷に移住。現在はNPOひがし大雪自然ガイドセンターでネイチャーガイドとして仕事をする傍ら、「ぬかびら地域未来塾」を立ち上げ、地域活動を行っている。
「糠平温泉を次世代に続く、元気で豊かな温泉集落にしたい」
そんな思いから、ぬかびら源泉郷で地域活動に取り組んでいる上村潤也さん。2013年にぬかびら源泉郷に移住し、ネイチャーガイドとして仕事をしています。
ぬかびら源泉郷の自然に惹かれて移住を決断した上村さんですが、地域住民の高齢化や若者世代の減少などにより地域に活気がなくなってきていることを憂えていました。かつては鉄道が敷かれ、スキー場建設やダム建設で人が集まり活気のあったぬかびら源泉郷ですが、時代とともに人口減少が加速していたのです。
「ぬかびら地域未来塾」を設立、地域活動を開始
「このままでは大好きなぬかびら源泉郷が衰退していってしまう。何か行動を起こさなければ」
そう考えた上村さんは、任意団体「ぬかびら地域未来塾」を設立。ネイチャーガイドの仕事しながら地域活動をはじめました。
「移住した当初から、観光の仕事に携わりながら、まちづくりに貢献したいという思いがありました。ぬかびら源泉郷のような小さな町であれば、それが実現できると思いました」と上村さんは話します。
上村さんがまず手がけているのが「地域観光資源の整備」です。草木が生い茂り景観が失われてしまった場所などを整備して、再び観光スポットとして蘇らせる活動を行っています。それも町の補助金などは使わずに自分たちの手で進めています。
「ぬかびら源泉郷にはすごく景観の良い場所がたくさんあるんです。それを取り戻したいと思いました。僕の本業はあくまでネイチャーガイドですので、まずは自分のできる範囲から始めようと、ガイド業の合間で活動しています」
なかには、ぬかびら源泉郷の住民だけでなく、上士幌市街地に住む人たちと一緒に整備した場所もあり、「ぬかびらの住民と市街地の皆さんをつないで交流が生まれた」ことも、この活動を通じての収穫の一つといいます。
また、並行して行っているもう一つの活動が、SNSを使ったぬかびら源泉郷の情報発信です。2019年に「ぬかびライフ」というSNSを立ち上げて、町の風景や季節の様子を伝えています。
「ぬかびら源泉郷は万人受けする地域ではないかもしれませんが、この地域が本当に好きというファンは多いんです。そんなファンの皆さんに向けて、地域の情報を伝えたいと思いました」と上村さん。
さらに、将来は自らガイド業を立ち上げることも視野に入れ「かみしほろ起業塾」にも参加。そこで学んだことをもとに、より魅力的なガイドツアーの企画や、観光客が気軽に立ち寄れるカフェバーなど、新しいサービスを検討しています。
まずは自分が動く
そんな上村さんが大切にしているのは「自らが動く」という姿勢です。
「他人を変えることって難しいと思うんです。それならまずは自分が動く。でも決して無理はせず、今できること、小さなことから始めていく。それが少しずつ広がっていけばいいなと思っています」
少しずつ、少しずつ。ぬかびら源泉郷をより魅力ある地域にし、次の世代にもしっかりとつなげていくため、上村さんは活動を続けています。
【ぬかびら地域未来塾(ぬかびライフ)】
URL:https://nukabilife.wixsite.com/nukabilife
Facebook:https://www.facebook.com/nukabilife
Instagram:https://www.instagram.com/nukabilife
Twitter:https://twitter.com/nukabilife
いつまでも昔の話で笑っていたい場所、「サン・クロス」【後編】
1968年に開業した上士幌町のカフェ「サン・クロス」。前編ではこのお店の歴史やこのお店のお母さん・辻洋子さんのお話をお伺いしました。後編は、たまたま居合わせた常連さんと上士幌町の歴史などについて語ることになりました。取材であっても、たまたま居合わせた方とトークを広げる、これが喫茶店のカウンターのよさですよね。少しでもこの場所の雰囲気を味わっていただければ。(取材日:2020年10月)
WRITER
須藤 か志こ
釧路市在住の24歳。北海道の各地域に出向き、取材や執筆をしています。この記事の執筆のため、上士幌に初めて訪れ、その面白さに心が惹かれています。
気球を飛ばしたあとは「サン・クロス」へ
お二人が営む「サン・クロス」の窓枠には、豪華なステンドグラスが嵌め込まれています。カラフルな気球のデザインが施されており、ここ上士幌町が気球の町であることを伺わせます。
気球の町として、いまよりももっと盛り上がっていた頃も、ここ「サン・クロス」は、多世代の交流の場として使われていたようでした。
そのときのお話を聞こうとしたとき、再び、別の常連さんが登場。すると、洋子さんが「ちょうどよかった!おいでおいで」とカウンターに招きます。
どうやら、この方・菅原博治さんが上士幌町を気球の町へと成長させた立役者の方とのこと。
せっかくなので、菅原さんも交えて、上士幌町が気球の町として知られるようになった経緯について伺ってみることに。
そもそも、なぜ上士幌町は気球の町として知られるようになったんですか?
元々大学生を中心とした気球チームが、ニセコなど、北海道各地でバラバラに気球を飛ばしていたんだよね。そのときに、みんなで一同に会して集まれる土地がないかと探していたとき、上士幌町が選ばれたんだ。
へえ!それは、どなたかが号令をかけて集まったんですか?
実は、私の知り合いが上士幌町に農業実習で来ていて。その知り合いの妹さんが気球をやる人で、「上士幌町ならできるんじゃないか」ということで、やってみることにしたんだよ。
なるほど。どうして上士幌町は気球を飛ばすのに向いているんですか?
まず、風が強い土地ではないからでしょうね。それから、上士幌町には、酪農家さんが多いでしょう。昔は牧草地がたくさんあってね。牧草を刈り取ったあとに気球を上げていたのよ。広い土地を目いっぱい使えるからね。
なるほど。海辺の町じゃできないことですね。地元の人の反応はどうでしたか?
うーん、地元の人でも参加している人はいたけれど、当時は賛成派とそうでない人が、半分ずつくらいだったかなあ。
それはなぜですか?
牛がびっくりしちゃうんですよね。だから最初は大変だったと思います。
そうなんですね。
それでも、だんだんと気球が定着していって、この間50周年を迎えたんだ。
50周年ですか!すばらしいですね。
最初にここで気球を飛ばし始めた連中は、まだまだ活躍中だよ。全国あちこちで大会を主催したりしているの。
いやあ、本当にきれいだったよ。気球をやろうって上士幌町に来てくれる大学生も多くて、「サン・クロス」にもよく来てくれたの。
当時から、外から来た人との交流の場所になっていたんですかね。
結果的にそうだったかもしれないですね。外からの人と地元の人でお店がいっぱいだったの。
いい景色の中で、気持ちよく気球を飛ばしたい。そういう純粋な気持ちを持った海外からの選手、若い大学生が上士幌町に来るんだ。気球を飛ばして終わりじゃなくて、みんな気球について話したくてしょうがないんだよね(笑)。だから自然と「サン・クロス」に集まっていたんだろうね。上士幌町にそんな人たちがたくさん来ることがないから、地元の人たちにとっては新鮮な経験だよね。上士幌町にいながら外から来た人と交流ができる。そんないい時代だったよ。
以前の上士幌町に思いを馳せる菅原さんの目は、過去の栄光を懐かしむものではなく、いま正に気球を目の前にしているかのように楽しそうに輝いています。
いつまでも同じ話を繰り返すように
およそ50年前「広くて風が強くないところ」という理由で気球人口が少しずつ増え、気づけば「気球といえば上士幌町」とまで認知されるようになった上士幌町。
民間による開拓、戦争、糠平ダム建設、そして気球。いくつもの点が連なり、上士幌町は現在に至ります。
上士幌町の歴史を伺ったところで、ホットコーヒーをすすりながら再び辻ご夫妻にお話を伺ってみます。
いまも昔も、ホットコーヒーが一番出ているメニューなんですか?
そうですね。帯広から豆を取り寄せているの。
何かこだわりはあるんですか?
うーん……。美味しいもの!
そうですよね(笑)。
そう、美味しいものを使ってます(笑)。昔はもっとたくさん出てたから、わざわざ配達に来てもらってたの。でも基本的には豆は豆屋さんにお任せ。だって豆屋さんなんですもの。
カラッと話す洋子さん。
この町で53年続けてきた「サン・クロス」ですが、何か印象的だった出来事はありますか?
そうですね……。どの時代にも、そのときそのときの大変さがあったよね。夜遅くまで営業していたときは体力も続かなくて、寝ちゃうときもあったし。子育てもしていたから、子供とお店と何回も往復して。
そうですよね。
それでも通ってくれるお客さんがいるからなんとかね。私、栄養士の資格を持っているから、お客さんに出す料理もいろいろ考えるわけ。美味しさと栄養のバランスを考えながら作るんだけど、料理を出しても誰も「美味しい!」なんて言ってくれないのよ。
ええ?どうしてですか。
みんな漫画に夢中なんですよね(笑)。だから味の感想なんて言ってくれないのよ。うちにはいまの副町長さんもずっと通ってくれていたんだけど、あるとき「美味しい?」って聞いてみたの。そしたらさ、「美味しくなけりゃ来るわけないっしょ!」って言ってくれて。いやあ、ほっとしましたね(笑)。
いまはお料理は出されていないんですか?
フライパンが重くて、腕を怪我しちゃってね。いまはフライパンを振れないんです。
そうだったんですね。
夫も病気がちで、あまり体調が良くない時期があったの。いろいろ重なって、店を畳もうと思ったときもあったんだけど、町の人が「ここがなくなったらほかに行くとこない」って言ってくれてね。細々と続けてきたら53年です。
でもお二人ともとってもお元気そうに見えます。
いやあ、身体は曲がるし胃は切除するし頭の回転は鈍くなるし(笑)。うちも井の中の蛙だからさ、新しい話も入ってこないわけ。
でも、ずっと同じ話をするのも楽しくないですか?昔の笑い話を繰り返すとか。
そうね、確かに「あの頃はさあ」とか「あのとき、あいつはさあ」とか。そういう話ならいくらでもありますよ(笑)。
—–
カウンターの向こうで冗談を言い合いながら、息のあったコンビネーションでドリンクを作るお二人の姿を見て、「きっとこのお二人は、ずっとこうしてきたのだろうなあ」と思います。
洋子さんのお気に入りだというチェ・ゲバラのTシャツと、隆弥さんのかっこいいベルト姿は、私には持ち得ない若々しさすら感じさせられます。
盛り上がったり落ち着いたり、騒がしくなったり静かだったり、目まぐるしく変わってきた上士幌町。町と共に53年間存在するこの喫茶店が、いつまでもそこにある変わらない場所として続くよう、願わずにはいられないのでした。
いつまでも昔の話で笑っていたい場所、「サン・クロス」【前編】
鬱蒼とした庭、小さな立て看板、その奥に覗くステンドグラス。ここは上士幌町の喫茶店「サン・クロス」です。A4サイズのコピー用紙に、丸っこい字で書かれた「9:00〜6:00までです。」という文字が入り口のドアに貼られており、なんだか秘密基地のよう。どんなお店なんだろうとワクワクしながら扉を開けると、すぐに耳に飛び込んできたのは、お客さんの小さな笑い声。「ああ、いいお店だ!」という期待と共に始まった、「サン・クロス」を営むご夫婦のインタビューをお届けします。(取材日:2020年10月)
WRITER
須藤 か志こ
釧路市在住の24歳。北海道の各地域に出向き、取材や執筆をしています。この記事の執筆のため、上士幌に初めて訪れ、その面白さに心が惹かれています。
上士幌町の若者が集まる「サン・クロス」
上士幌町出身の辻洋子さんと京都府出身の辻隆弥さんが出会ったのは、京都の大学でした。
結婚後、洋子さんのご実家がある上士幌町に戻ったのは54年前。
「一体この町で何ができるのだろう」と考えていたお二人に、洋子さんのお母様が提案したのが、喫茶店だったそうです。
私の母が上士幌町で歯科医をやっていましたので、そこで喫茶店をやってみないかって言われて。
2階が歯科医で、1階が喫茶店!珍しいですね。
そうそう。その頃、この町には喫茶店がなかったので、母はそういう場所があるといいと思っていたみたいで。
開業してから何年になりますか?
53年。
えっと……1968年ですね。
1968年といえば、若者文化の成長が著しかった時代です。学生運動なども盛んで、活気に満ちた時代に「サン・クロス」は誕生しました。
その頃、上士幌町には1万人くらい住んでいたと思います。いまの人口の2倍くらいは人がいたと思います。
そんなにいたんですね。お客さんは、どんな人が多かったですか?
もちろんずっと上士幌町に住んでいる人もいたけれど、当時大きなダムの開発事業が行われていたの。
糠平ダムですね。
そうそう。そこで働いている人も大勢いたし、昔、役場がこのお店の目の前にあったから、役場の人もたくさんいらっしゃいました。
地元の人と、そうじゃない人と入り乱れて。
もう、すごかった(笑)。毎日毎日お客さんがいらっしゃて……。いまは18時までの営業だけれど、当時は深夜の1時とか2時まで営業していました。
全然休めないですね。
当時、若い人が行くところがないので、それが当たったのね。とても忙しかったです。でも、私たちも若かったからやっていけて。朝にお店の前を通ったら、酔ったお客さんがお店の前で寝ていたことありました。
上士幌町ってお酒が好きな方が多いですか?私の個人的な印象なんですけど、皆さんお酒好きで、なおかつお強い気がします。
今の人はどうだかわからないけれど。ああ、そう!うちの人(隆弥さん)もお酒好きで、昔はお客さんと一緒にワイワイ騒いで楽しかったです。
……あんまりそういうこと言うなよ(笑)。
あはは(笑)。
インタビューなんだから面白いこと言った方がいいでしょ(笑)!
洋子さんと隆弥さんの些細な掛け合いも、「サン・クロス」に温かい笑いを生み出します。
取材の場には、普段から通われている常連さんも。お話を伺ってみました。
お店にはいつ頃から通われれているんですか?
僕は学生の頃から通っていますね。
俺はやっぱりこういう場所、喫茶店が好きだから。50年前から通っていてね。
うんうん。昔は、高校生もたくさん来てました。
そうだね。でも、みんなここしか来るところがないから、デートの場所がいつもかぶるんだ(笑)。
誰と誰が付き合ってたとかも覚えてるよ。結婚披露宴もたくさん呼ばれました。
しみじみとする洋子さん。
そうそう、あっちゃんも来てくれてましたよ。
「あっちゃん」というのは、ホロロジー・スタッフの宮部さんのお母様。
私も、親に連れられてよく来ていました。パフェ目当てで!
いまは作るのが大変だから出していないけれど、パフェも作ってましたよ。
長年通う常連さんや、小さい頃を知っている宮部さんと話しながら、洋子さんは目を細めます。
いまの高校生はどこで遊んでるのかなあ。
多分町外ですね。帯広まで出ていると思います。
あら、そう!いまじゃこの辺りで遊べるところがないからねえ。
話しながら、少し寂しそうに呟く洋子さん。ここで、話題を「サン・クロス」開店前、洋子さんの生い立ちと、町の歴史に移します。
洋子さんは昭和14年生まれだとお聞きしました。戦時中の上士幌町は、どんな様子だったんでしょうか?
私の父親は住職だったんです。彼は最初オペラ歌手になろうと思っていて、でも声が出なくて牧師に……。でもなんやかんやあって住職に。
インパクトのあるキャリアですね。
そういうわけで、父は疎開してきた人やら、傷病人の手当てなどをしていました。本別町では空襲があって、たくさんの方が亡くなったそうです。
そうなんですね。
当時はまだ農作物もなかなかとれなくて、いまのような美味しいご飯は食べられなかったんですよね。いまはスイートコーンやら何やらって美味しいものたくさん食べられるけれど、当時は何にもとれるものがなくて。子供たちはカボチャばっかり食べていたので、みんな手が黄色くなって。
不毛の土地だったんですね。
冬はとっても寒くて、マイナス20℃を下回る日も多くてね。それでも生きていたのですよ。
洋子さんは、帯広市の高校に通われていたんですよね。
SLで通っていました。チャッチャポッポチャッチャポッポって(SLの音を再現する洋子さん)。
言い方が明治なんだよなあ(笑)!
ふふふ(笑)。煤で顔を真っ黒にしながら通っていましたよ。
当時、この辺りの高校から大学に進学される方は珍しかったんでしょうね。
私の同級生は、実は商売人の息子さんや娘さんが多くて。今は、上士幌町に残っている人はおろか、帯広に残っている人も少ないんじゃないかな。
そうなんですね。意外です。
みんな、どこかに進学したり就職したりと、地元を離れていきましたね。だから私の世代で地元に残っているのは、私くらいじゃないかなあ。
洋子さんは京都の大学へ進学されたと伺いました。
そうそう、そこで夫と出会ったの。私は当時、食品化学関係の学部に通っていて、栄養士の資格をとるために勉強していてね。まさか帰って喫茶店開くなんて思っていなかったから、とっておいて良かったよねえ(笑)。
口を大きく開けて笑う洋子さん。すぐそばで話を聞いている隆弥さんも、静かに微笑みながら氷を砕いていました。
話の途中ですが、後編は、取材の途中で隣席に来られた常連さんにもお話をお伺いしました。多くの人が行き交うサン・クロスで、ステンドグラスの絵にもなっている気球の町へと成長させた立役者だと言います。ちょっと話は脱線して、上士幌町の歴史について少しお話もお伺いしました。思わぬ来客があるのも喫茶店のカウンターにいる良さですから。
上士幌×音楽で繋がる人たち 〜バンド『G-clef』座談会〜
ホロロジー座談会企画、今回は、『上士幌×音楽』で繋がる人たち。4区にある『すなっく話』を中心に活動するバンド『G-clef』の皆さんに集まっていただきました。2019年に結成した『G-clef』はほとんどのメンバーが上士幌町出身。音楽を始めたきっかけから、上士幌で活動するにあたっての想いを聞きました。
WRITER
苅谷 美紅 (かりや みく)
北海道千歳市出身。テレビ番組ADをしていた東京生活から、青年海外協力隊としてブラジルへ。コロナ帰国後、MY MICHI2期生を経て、取材メンバーとして活動しています。マイブームは朝起きて熱気球を探すこと。
<バンドメンバー>
リーダー/キーボード
岡崎 和恵さん
1963年生まれ。上士幌町出身・在住。「すなっく話」経営、ピアノ講師
ギター
髙瀨 悟史さん
1962年生まれ。上士幌町出身・音更町在住。十勝管内小学校勤務
ボーカル
山本 健二さん
1960年生まれ。上士幌出身・在住。山本商会(出光シェル石油 上士幌SS)経営
ベース
高橋 秀和さん
1966年生まれ。上士幌町出身・在住。電気工事士
クラリネット/パーカッション、時々ダンス
高橋 阿紀さん
1986年生まれ。上士幌町出身・在住。かみしほろ情報館勤務
ドラム
杉山 雅昭さん
1969年生まれ。上士幌町出身・在住。(株)コントラサービス勤務
ドラム
安田 涼さん
1973年生まれ。2017年に横浜から上士幌町へ移住。(株)生涯活躍のまちかみしほろ勤務
メンバーの出会いとバンドの始まり
――このバンドは30代から60 歳を超える方まで幅広い年齢層のメンバーが集まっていますが、どんな繋がりから生まれたんですか?
まず、私と秀和(高橋秀和さん)が姉弟なんですよね。
僕と和恵ちゃんが小・中学校の同級生。僕が新得町でバンドをやっていたときに、そのライブに和恵ちゃんが来ていてね。それを見て「上士幌でもバンドを組むんだけど、ギター弾かない?」って誘われたんだよね。
そう、たまたま遊びに行ってたんだよね。それで声をかけたことが最初のきっかけだったね。健二さんは元々奥さんと仲良くさせてもらっていたんだけど、あるとき歌を聞いたらものすごく上手くて。それでバンド組むときは絶対にボーカルに誘うって決めていた。阿紀ちゃんも前に一緒にやっていたから声をかけてね。
まだ私が結婚する前でしたよね。
涼さんはたまたま阿紀さんが紹介してくれたんだよね。
何かの食事会で阿紀さんと相席になったんですよね。確かそのときに、高校時代にドラムを叩いていたという話をしたんですよ。でも声をかけられたのは、それから1年以上経ってからだったね。
そう。「涼さん、ドラム経験があるって言っていましたよね?」って。
よく覚えていたよね(笑)。
――そういえば、どうしてドラムは2人なんですか?
涼さんが参加できないときに僕が助っ人で入ったんですよね。和恵さんとも、昔からの音楽仲間だったし。
<バンドメンバー相関図>
メンバーはみんなバンド経験があったけど、健二さんだけ未経験者だったよね。
――初めてのバンドはどうですか?
上士幌町で生まれ育って、60年もこの町に住んでいるんだけど、この年齢になって30代や40代の人と一緒にやることがすごく楽しいですね。60歳になっても新しいことができるというワクワク感があります。
メンバーは和気藹々としてます。
ボーカルが若い人じゃなくて、還暦を過ぎた人がやることに価値があると思うよ。シニア世代に希望を与えられるじゃない。
健二さんは商売をやってるから、お客さんを盛り上げるのが上手いよね。
このバンドで初めてチャリティーライブをしたのが2019年の9月で、それが僕の記念すべきバンドデビューだった。
――チャリティーライブですか?
2018年に東胆振の震災があったじゃないですか。それでチャリティーライブをしようということになって、その1年後の9月にやったんですよ。チケット売上の何割かを寄付して。2020年もやりたかったんですけど、コロナウィルスが流行しちゃったから見送ったんですよね。
音楽を始めたきっかけ
――皆さん、音楽を始めたきっかけは?
私はまず親が好きだったね。その影響で小学校の頃からベンチャーズとか聞いていたから。幼稚園のときからオルガン習っていたし、それからエレクトーンを習うようになって、大人になってからは自分が生徒さんに教えるようになって。だから鍵盤は小さいときからずっとやってます。
僕は中学生のときに同級生と初めてバンドを組んだ。高校時代も続けていたけど、社会人になると一度離れちゃった。時々弾いてはいたけれど、ちゃんと再開したのはこのバンドがきっかけだな。
ブランクがあるのによく弾けてるよね。
昔取った杵柄ってやつだな。昔一生懸命練習したことって、やっているうちに思い出してくるんだよ。
僕は最初にドラムを叩いたのは中学生のときで、33歳くらいまでバンドやってた。子供ができてから一度ピタッとやらなくなっちゃったんだけど。
いわゆるヴィジュアルバンドでドラム叩いてたんですよね?
当時のリーダーがラジオのDJやっていて、その人を中心に全道をまわっていたね。CDも何枚か作らせてもらって、テレビにも何回か出させてもらったよ。
一同 えー!すごいじゃん!
涼さんはいつから叩いてるの?
僕は高校時代ですね。ディープパープルのコピーから始まって。あとは大学時代に少し。まさか上士幌でバンドやるとは思っていなかったですよ(笑)。
僕は中学3年生のときに同級生の家でフォークギターを触ったのが最初のきっかけだったな。
私は中学校の吹奏楽部で初めてクラリネットに触った。高校も吹奏楽部で、卒業してからも帯広の吹奏楽団で活動もしていて。その間も何度か和恵さんに誘われましたよね。
そうね、何度か声をかけてるね。(秀和さんと阿紀さんの)子どもたちも音楽好きよね。歌が始まるとよくリズム取っているもの。
家にも練習用のドラムやキーボードがあるからよく触ってますよ。
スティックで障子は破られたけどね(笑)。
――健二さんは60歳でバンドを始めて、ご家族の反応はどうでしたか?
最初は息子も孫も「本当にやるの!?」って驚いてたけど、ライブを見に来てくれて「かっこよかったよ」って言ってくれたことが嬉しかったですね。
良かった。スカウトした甲斐があったわ(笑)。
上士幌で活動する思い
――バンドのコンセプトってあるんですか?
自分たちや客層に合わせて、昭和の歌謡曲やポップスを意識しているんだけど、聞いた人が踊りたくなるような曲を提供することかな。
十勝管内を見れば、昭和の曲が好きな人って、すごくたくさんいるよね。さっきの新得もそうだけど、いろんな町で地元の人がバンドやってる。だから上士幌でも絶対にやりたいって思ってた。
このバンドも、上士幌のまちづくりに少しでも貢献できたらって思うよね。スナックや居酒屋でもっと演奏して、みんなを楽しませることができたらいいなって思う。この「すなっく話」も最初からライブ演奏ができるスペースを作ったんでしょ?
そう。昔からやりたいっていう気持ちはすごくあったから。エレクトーン1台でもいいから置いて何か弾けるようなお店をやってみたいって思ってて。それで自分がお店をやることになったときに、絶対に演奏できるお店にしようって思ったの。
――今はライブも難しい状況ですよね。
今は活動は自粛しているんだけど、悟史さんを中心にして上士幌町をPRできるオリジナル曲を作っています。
――へえ、どんな曲ですか?
今作っているのは『上士幌Tonight』というタイトルで、この店(すなっく話)での男女の関わりをストーリーにした曲。そして、上士幌のご夫婦の愛を歌った『ずっと一緒に上士幌』、ナイタイ高原牧場をモデルにした『ナイタイで逢いたい』っていう曲。上士幌をテーマにしたご当地ソングを、全国に発信できたらと思います。
音源を作ったら音楽配信もしたいって話してるよね。たくさんの人に聞いてもらって、皆さんと一緒にまちづくりに役立てたいなと思ってる。
ボーカルが肝心ですから、頑張ってくださいね(笑)。
はい(笑)。
みんなで盛り上げていけたらいい
――ほかにもやってみたいことはありますか?
雪が溶けて暖かくなったら、わっか(生涯学習センター)の横のステージで野外ライブやりたいな。
いや、ナイタイ高原で野外フェスでしょ(笑)!
ナイタイ高原で『ナイタイに逢いたい』演奏したいですね。
航空公園は?
バルーンフェスティバルで演奏するのもいいな。実は昔出たことがあるんだ。
道の駅もできたしね。お願いすれば外で演奏できるんじゃない?
僕は高校から町を出て行ったから、人口が減っていくことを憂えていたけど、今は逆に涼さんのような移住者も増えているじゃない。新しいものもできて町全体が面白くなっていると思うんだ。そんなときにバンドに声をかけてもらって、ふるさとの人たちと繋がっていけるのはすごく嬉しいよ。
「すなっく話」も昨年(2020年)の10月にオープンした新しいお店ですしね。
昔に比べたら人口は減っているけど、ただ寂しいって言っていても何にもならないじゃない。だから私にできることをしようって思ったの。
でも本当に、和恵さんが声をかけてくれたおかげでこのバンドができたからね。
新しい生きがいをありがとう。
せっかくお店もできたから、この「すなっく話」が上士幌をテーマにした音楽や文化の発進拠点になっていったら面白いと思う。
僕も自分の子どもの頃の原体験とか、タウシュベツ川橋梁のような観光資源も題材にした曲を作ってみたいな。町花のすずらんとか熱気球とか、テーマもいろいろあるし。
みんなで活性化できたらいいですよね。自分たちだけじゃなくて、私たちの音楽を聞いてくれる人たちも含めて盛り上げたい。
そうね、頑張りましょう!
上士幌町で生まれ育ってずっと住んでいる人、本州から上士幌町に移住して来た人、別の町で暮らしていても地元上士幌町に関わりたいと思っている人。年齢が離れていても、「音楽」を通して「上士幌」で繋がっている皆さんがとても素敵に感じた時間でした。皆さんの音楽が、一人でも多くの耳に届くといいなと思います。
バンド『G-clef』の皆さん、ありがとうございました。
神社があることは当たり前じゃない。上士幌神社を守る神主さん
神社という場所は、古来からその地域の人にとって特別な存在として大切にされてきました。今まで私は、神社というのはどこの地域にもある存在だと思っていました。恥ずかしながら神社といえば参拝客としてお参りしたりおみくじを引いたりする場所としか認識しておらず、いわばいつでもどこにでもあるのが当たり前。そんな風に考えていた私ですが、上士幌神社・宮司の山内さんのお話を伺い、その認識を180°改めることになるのでした。
WRITER
須藤 か志こ
釧路市在住の24歳。北海道の各地域に出向き、取材や執筆をしています。この記事の執筆のため、上士幌に初めて訪れ、その面白さに心が惹かれています。
宮司
山内 豊一さん
礼文島出身。札幌でさまざまな仕事を経験した後、神職の道へ。本州での修行時代を経て北海道神宮、帯廣神社に仕えたのち、昭和60年4月1日より上士幌神社の宮司となる。
山内さんのトンデモ修行の日々
上士幌神社を訪ねると、「ようこそいらっしゃいました」とニコニコ出迎えてくれた山内さん。
滅多にお会いすることがない神主さんという職業の方を前に、少し緊張しながら「今回の記事は、どちらかというとポップな感じで考えていて……」と切り出すと、「いいですね!」とまたまたニッコリ。どうやら山内さんは、私がイメージしていた「神主さん」とは、一味違うキャラクターの持ち主のようです。
僕は社家の出身ではない神主なんですよ。
シャケ……?
そう。代々神社に神職として仕える家系のことですね。一応お伝えしておきますが、「神社は一人一家の私的にするべきではない」としてこの制度は明治に廃止されていますが、実際には現在も旧社家の人間が継ぐことが多いと思います。なので、私のように社家の出身ではない人間が神主をしていることは比較的珍しいのではないでしょうか。
山内さんは上士幌町の出身なんですか?
いえ、礼文島の出身です。私は中学校を卒業したタイミングで礼文島を離れ、札幌へ行きました。札幌でさまざまな職業を経験したあと、姉から「神社に仕えなさい」と言われましてね。当時姉は北海道神宮のガールスカウトに所属していて、その影響から僕を神職にしたかったようなんです。それで姉の言うことを聞き、山形県の神社へ行くことになります。それからそこでの勉強を終え、続いて東京へ。そこでお世話になった宮司さんが、とても厳しいことで有名でして。
どんな風に厳しいんですか?
神職としての勉強、所作、話し方はもちろん、なんと笑い方まで指導を受けるんですよ。
笑い方まで!?
なんでも、そこの神社での勉強が続く人は稀で、僕は4年間お世話になったのですがこれは異例だと言われました(笑)。
どうしてそこで勉強を続けることができたんでしょう?
そうですね……。僕は何かをやるならきちんとやりたいタイプで。そういう性格もあり、続けることができたんでしょうね。
そこの宮司さんはお酒も煙草もやらない人だったんです。ご自身に対しても厳しい方でした。ただ、僕は酒も煙草もやるという……(笑)。
怒られなかったんですか?(笑)
怒られはしないですね。むしろ、宮司さん同士の付き合いの場でお酒が出る場合は、僕が代わりに出席していたくらいでしたから。でもいま思えば、それも一つの勉強として行かせてくれたんだと思います。
メリハリがある職場だったんですね。
その後、その宮司さんに「お前はもっと勉強するべきだ。大学へ行け」と言われまして。ただ、その頃の僕は「東京でやるべきことはやり切った」と思っていたので、北海道に帰りたいと思っていたんです。だからその大学の入試は一応受けたんですが、全部白紙で出しまして。
(絶句)
とんでもないですよね(笑)。さすがに大学に呼び出されました。そのことをきっかけに、宮司さんにも「そんなに北海道に帰りたいなら帰れ!」と言われました。しかし北海道でお世話になることができる神社もあまりなくて……。1カ月だけ受け入れてくれる神社があったのですが、北海道に帰ってきたことが姉にバレまして、「北海道神宮で面倒を見てやる」と言ってもらい、札幌へ戻るわけですね。
ここまでがたった数年の話ですよね……。すでに記事のボリュームが心配です(笑)。
それからやっと札幌に戻ることができたと思ったんですが、続いて帯廣神社から「人手が足りないから手伝ってくれ」と声をかけていただき、異動することになります。
神社にも異動があるんですね。
帯廣神社では必死に働きました。お社を建て直すこともあり、とても忙しかったんです。ヤンチャだった僕の面影がなくなるくらい(笑)。ここで5年半ほど一生懸命働いたので、「そろそろ札幌に戻れるんじゃないかな」と思っていたら、次は「上士幌神社に行ってくれ」と。
ああ、やっと上士幌に!
礼文島から上士幌神社へ
波乱万丈の修行時代を経て、ついに上士幌町の地を踏んだ山内さん。
同じ北海道とはいえ、礼文島出身の山内さんは内陸の上士幌町の文化に戸惑うことも多かったようです。
僕が上士幌神社に来た理由は、先代が高齢で退職されるからでした。上士幌町唯一の神社の宮司さんがいなくなっては困るということで、僕がやってきたわけです。
知らない土地で、いきなり宮司さんに。
そうなんですよ。上士幌町に来たとき、この町の経済状況があまりよくわからなくて戸惑いましたね。僕は海沿いの町の出身ですから、港町でのたくさん物が売り買いされて、派手にお金を使うような経済スタイルはわかるんです。上士幌町は農村地域なので、どちらかというと自給自足、自分たちで食べるものや使うものを育て、自分の家で消費するような生活が中心。なので、最初は探り探りで町の状況を調べ、僕のような経歴の人間の経験を生かせる機会がないか考えていました。
なるほど。
僕自身は、「せっかくここに来たのだから、旧態依然とした環境を変えたい!」と息巻いていました。上士幌神社がそうだというわけではなく、全国的に神社の世界は旧態依然とした価値観が根付いていたことを知っていたので、自分がその価値観を変えるような先駆けになることができればいいなと思っていたんです。
今まで全国を渡り歩いてきた経験を生かすときですね。
僕が外から上士幌町に来た人間で、いい意味で地縁に縛られない立場だということもあり、チャンスだと思いました。いかに神主としての職務をまっとうしながら、地元の人を巻き込みながらこの神社をより良くしていくか。これが使命だったわけですね。
最初に上士幌町に来たとき、地元の皆さんの反応はいかがでしたか?
上士幌町民の皆さんは、「帯広からわざわざ来てくれてありがたい」と言ってくれました。ただ、お寺と神社の違いをあまり意識されていなかったかもしれませんね。あくまで「宗教関係者」という風に僕のことを認識されていたかもしれません。
と言うと?
お寺に勤めていらしゃるお坊さんは、法事や読経で檀家さんを周られますよね。神社の神主は周らないんです。僕は「そこにある」ということが、神社の役目の一つだと思っています。神社は一つの地域に必ずあり、そこに地元住民がお参りするもの。だからこそ、地元住民で守らなきゃいけないものだと思っているんです。
神社は、神主さんだけが守るのではなく、地域全体で守っていくものという意識が大切だということですか?
そうです、そうです。神社は無くしちゃいけないものなんですよ。地域ができるときには、最初に神社と学校ができるものなんです。役場などの行政機関はその後についてくるんですね。
行政機関と同じくらい大切な施設なんですね。
僕はそう思っています。
公開される神社
上士幌町の皆さんにもっと神社の重要性を意識してもらうために、どんなことに取り組まれたんでしょうか?
一番初めに取り組んだことは、組織づくりですね。
おお!
これには全町あげて取り組みました。ここで、上士幌町神社の経営状況を公開したんです。
ええ!?いいんですか!?
もちろんいろいろ言われましたよ。でも、お参りや御祈願で地元の皆さんからお金をいただいている以上、そこについては公開すべきだと私は思っています。それから、地元の皆さんに上士幌神社の経営状況を知ってほしかったということもあるんです。
地元の皆さんの反応はいかがでしたか?
かなりびっくりしていたようです。皆さん、「こんなに大変だったのに、前の神主さんは一人でやりくりしていたんだ……」とおっしゃっていました。他にも、僕が1日何をしているのか、スケジュールも公開しました。朝は何時に起きて、こういうお務めをして、ということを公開したんです。
お話伺っていると、ますます民間企業のようです。
今まで見えてこなかった神社のベールを剥いで公開すると、住民の方の神社へのイメージがガラッと変わったんです。「神社ってこんな場所だったんだ」「神主さんはこんなことをしていたんだ」と知ることで、印象が変わったと言ってくださいました。神社があることは「当たり前」かもしれない。だからこそその「当たり前」は、地域で守っていかなきゃいけないものなんです。
いつでも話せる神主さん
そんな上士幌神社で話題なのが、気球のお守り。その見た目の愛らしさから、地元新聞紙を中心に話題となりました。
このお守りですが、どういった経緯で作られたものだったんでしょうか?
先ほども話した通り、神社と地域は密接に結びついています。この新型コロナウイルスの影響で、少なからず上士幌町もダメージを受けており、以前と比べると町に元気はありません。何か神社として町の助けになれればと思い、制作したものなんです。
正直、お守りや絵馬って見た目も少し堅苦しくてあまり買わなかったんですが、思わず手にとってしまう可愛らしさです。こういう新しいことに挑戦するパワーは、どこから湧いてくるんですか?
私は「やらない」「やるな」ということは言わないんですよ。「やる」「やってみたらいい」ということばかり伝えています。みんな能書きは思いつくんですよね。でも手を動かしてみないとわからない事があるのではないかと。今まで挑戦してきたこと、すべてそうでした。神社のあれやこれやを公開するなんて前代未聞ですし、ほかにもここでは話せないこともいっぱいあります(笑)。でもまずはやってみることが大事なんじゃないですかね。神社に相談にくる方にも、よくそうやって話していますよ。
「神社に相談にくる」?それって一般の方がってことですか?
そうですね。地元の方とか。
山内さんと話していると忘れそうになりますけれど、私、神主さんって気軽に話せる存在じゃないと思っていました。
ああ、そうかもしれませんね。私はよくここで地元の人とお茶をしながら話していますよ。子供から大人まで、いろいろな人が訪ねてくるんですよ。
皆さん、どんなことをお話ししていくんですか?
まあ、他愛もないことから、いろいろな相談ですね。私のところには、悩みに対して解決策が欲しくていらっしゃる方もいますし、ただただ耳を傾けてほしいという人もいます。それぞれがどんな風に話を聞いてほしいかに合わせて話を聞くように心がけています。
神主って、いつでもここにいる存在かなと思うんですよ。「会いにいける神主」みたいな(笑)。先ほども話した通り、神社は「そこにある」ことが役目の一つですから。だから、神主である僕もいつもいて、気が向いたら話すことができる。そんな風に地域の人に親しみを持ってもらえていたら嬉しいです。
「神社がある」ことは「当たり前」かもしれないけれど、その「当たり前」は誰が作っているのか?そんなことを考えたこともなかった私にとって、今回のインタビューはとても衝撃的でした。
「まちづくりと一緒ですよね。『当たり前』は自然発生するものじゃなくて、誰かが作っているんだから」とインタビュー中にサラッと話す山内さんの言葉を聞いて、身が引き締まる思いです。
「そこにある」ということは、一見すると簡単に見えるかもしれません。しかし、「そこにある」を継続し、次の世代まで繋げていくことは容易なことではありません。思わず「いやあ、本当にすごいですね……」と声を漏らすと、「いや、先代は45年間一人で神主をやっていましたから。僕はまだここへ来てから30年ちょっとしか経っていないので、あと15年経ってから評価してください(笑)」となんでもないように言う山内さん。その言葉一つひとつを、改めて大切に考えていきたいと思うのでした。
小学1年生の勉強のお手伝いをしてみました!
2020年12月に私たちJICA訓練生は「町内の方々の困りごとを、訓練生が人材センターの会員として自分たちの得意分野を活かして解決します」という企画を行いました。私たちが8月に来町してからお世話になった人たちに向けて、「何かお手伝いできませんか」と声掛けをしたところ、勉強のお手伝いの依頼をいただくことができました。
WRITER
田中 亮 (たなか りょう)
JICA訓練生。1982年生まれ。茨城県出身。自然が好きで、土や水の分析をしてきました。自然豊かな上士幌町に「個性」を感じています。もっともっとこの町の「個性」を発掘していきたいです。
今回、勉強のお手伝いをするのは、小学校1年生の千葉空(そら)ちゃんです。お父さんの学さんとお母さんの礼子さんからは「勉強の面白さを教えてほしい」と要望をもらいました。今回、教えるのは国語。今、授業では、ひらがな、カタカナ、漢字をやっているそうです。空ちゃんは、もともと絵を描いたり、折り紙を折ったりするのが大好きなのだそうですす。
テキスト作成
勉強の面白さを知ってもらうため、絵を描くことが好きな空ちゃんには塗り絵と組み合わせれば、楽しく学習できるのではないかと考えました。そこで漢字の成り立ちを絵にして、塗り絵をしてもらうという勉強方法を編み出しました。
1年生で習う80字の漢字から「目」と「口」を選ぶと・・・
ロボットの完成です。足や手を付け加えたりお絵かきすれば楽しめるはずです。
自然系では、山、川、木、田んぼなど。
こう考えると、漢字を考えた当時の人たちの想像力はかなりすごかったことが実感できました。きっと、空ちゃんは、漢字の成り立ちを知ったら驚くだろうなとわくわくしながら準備を終えました。
当日〜漢字の成り立ちを学ぼう〜
今日は、漢字の勉強をしてみよう!
やるー!
まず今日、勉強で使うのはこの絵だよ。
(ロボットのイラストを手に取り)これは、目でしょ。これは口だよ。目はね、目の形をしているから目なんだよ。ほら、横にすると目になるでしょ。
・・・。
当初は、漢字の成り立ちを一緒に考えて、塗り絵をしながら教えるつもりでしたが、すでに空ちゃんは知っていました!
用意した山、川、木、田のイラストも次々とめくりながら、漢字の成り立ちを話してくれます。
こちらの思惑通りにはいきませんでしたが、空ちゃん、面白さをわかってるじゃん!!
漢字の書き取り
すると急遽、お父さんから翌日の漢字テストに向けて対策をしてほしいとリクエストをもらい、漢字の書き取りの特訓を始めました。最初の要望に立ち返って面白さを伝えるため、クイズ形式にしました。
イラストを描いて〇で囲んだ部分を漢字にしてもらおうと考え、女の子を描いていたら
空ちゃんが興味を持ってくれたみたいで
「これ、空じゃん」
といいながら、漢字を書いてくれました。イラストが上手く伝わったみたいで安心しました。
漢字も完璧です!!
耳も右側の部分がきちんと突き抜けていてバッチリです。
調子にのって、あるキャラクターに寄せてイラストを描いてみたら・・・
世代が違いすぎて伝わりませんでした(苦笑)。
しぶしぶ口頭で伝えて漢字を書いてもらうことになりました。
女忍者のくの一から「女」の成り立ちを覚えてもらおうとしましたが、こちらも世代が違いすぎたのか、難しすぎたのか、女忍者が伝わりませんでした・・・。
似ている漢字
次は似ている漢字の書き取りです。
早速、書いてもらいます!
「木」「林」「森」の漢字を書き終えて空ちゃんが一言、
これってポケモンの進化みたいだね。
進化??
後でわかったのですが、ポケモンは3段階に進化するみたいで、それを例えていたようです。ピカチュウもピチュー、ピカチュウ、ライチュウに進化するんだとか。きっと、空ちゃんには林がピカチュウに見えたことだと思います。空ちゃんの感性にますます驚きっぱなしです。
また空ちゃんは漢字の一覧表を見て、
「見、貝、目は似てるね」と、3つの漢字を並べて書いてくれました。
ますます、空ちゃんの着眼点はすごいなということに気が付かされました。 お勉強は、ここで時間がきてしまいました。
空ちゃんからのお礼
今度は空ちゃんからお礼にと折り紙を教えてくれました。
とても丁寧に教えてくれて、四つ葉のクローバーができました。
空ちゃん、ありがとう。
最後に
勉強のお手伝いは、空ちゃんから教わることも多く、有意義な時間を過ごすことができました。
最後に空ちゃんからは「次は、2年生の漢字を教えてもらいたい」との言葉をもらい、今回のことで漢字を少しでも好きになってくれればこれより嬉しいことはないなと思いました。
今回は、かみしほろ人材センターを通して、お世話になっている方々に困りごとを聞いて、出てきた依頼でした。やってみると、当初の目標の「勉強の面白み」を空ちゃんに教えるだけでなく、私も一緒に味わえたような気がしました。今後もこのような世代を超えた交流が進めばいいなと思っています!
※かみしほろ人材センターの事業紹介記事はこちらから
上士幌の水は美味しい?水のプロのJICA訓練生が調べてみました!
上士幌町の水が美味しい。それは市販されているミネラルウォーターではなく。蛇口を捻って出てくる「水道水」のことです。そう、ここ上士幌町は、水道水が美味しいのです。私は関東にいたときは水を飲むと言えば「ミネラルウォーターを買っていた」のですが、その習慣が上士幌に来てからはすぐになくなりました。上士幌町の水の美味しさをホームページにアップされている「水質検査結果」から解明してみました。
WRITER
田中 亮 (たなか りょう)
JICA訓練生。1982年生まれ。茨城県出身。自然が好きで、土や水の分析をしてきました。自然豊かな上士幌町に「個性」を感じています。もっともっとこの町の「個性」を発掘していきたいです。
私は前職が分析機関で、水道水や工場排水の成分分析や成績書のチェックなど、水を中心とした仕事をしてきました。年間数百件の成績書のチェックをしていたこともあり、大変興味深く上士幌町の水の検査結果を見ることができました。普段は、水が法律の範囲内に収まっているかどうかを確認するだけだったので、水の美味しさを見つけられることにわくわくしてきます。
そもそも美味しい水って!?
まずは「美味しい水」を簡単に定義していきたいと思います。調べていくと、「おいしい水研究会」という団体が水の美味しさを定義していることを発見しました。
そもそもこの団体は、1985年に日本の水道水の美味しさと背景を調査し、美味しい水の要件を検討するために厚生省(現在の厚生労働省)が設立した団体らしいのです。この団体が、美味しい水の定義を発表しているので、見るべき項目を「上士幌町の水」と「他の都市A、B、Cの水」として比べてみました。
蒸発残留物
蒸発残留物(じょうはつざんりゅうぶつ)とは、水を蒸発させたあとに残る残留物で、この成分は主に水のミネラル分になります。この成分が適度に含まれていれば、コクのあるまろやかな味となりますが、多すぎると渋みや苦味が増してしまうらしいのです。
美味しい水 | 上士幌町 | A市 | B市 | C市 | |
蒸発残留物 | 30~200mg/mL | 104 | 74 | 91 | 150 |
上士幌町の水は、美味しい水の範囲内に収まっていることがわかりましたが、どの都市も範囲内に収まっていて蒸発残留物では違いがわかりませんでした。
硬度
次は、硬度(こうど)です。硬度は、カルシウムとマグネシウムの含有量で表します。
硬度が低いと「軟水(なんすい)」と呼ばれ、味にクセがなく素材の味を引き出す料理に向いているとされています。硬度が高いと「硬水(こうすい)」と呼ばれ、洋風の煮込み料理に向いているとされています。
境目については、いろいろな基準がありますが、通常、60㎎/L以下を軟水、60~120㎎/Lを中硬水、120 ~180 mg/Lを硬水、180mg/L以上を超硬水としています。
美味しい水 | 上士幌町 | A市 | B市 | C市 | |
硬度 | 10~100mg/mL | 29.8 | 27 | 45 | 69 |
これらの情報をもとに見てみると、上士幌町の水は「軟水」に分類され、水の味にクセがないことがわかりました。ちなみに市販されている日本アルプスで採水しているミネラルウォーターも軟水で親しみやすい水だということがわかりました。
残っている塩素濃度が低い
法律では感染症を防ぐ目的から水道水中の塩素濃度を確保しなければならないとされていて、0.1mg/L以上必要とされています。この量が多すぎるといわゆる「カルキ臭」が発生し、水の味が悪くなります。
美味しい水 | 上士幌町 | A市 | B市 | C市 | |
残留塩素 | 0.4mL/L以下 | 0.2 | 1.2 | 0.8 | 0.7 |
上士幌町の値をみると、とても値が低いことがわかりました。もともときれいな水なので消毒する必要があまりないと思われます。
水温が低い!!
水を美味しく感じる温度は20℃以下だそうです。結果を見てみましょう。
美味しい水 | 上士幌町 | A市 | B市 | C市 | |
採水日 | 8月4日 | 8月4日 | 8月19日 | 6月4日 | |
水温 | 20℃以下 | 13℃ | 23.4℃ | 33.1℃ | 22.1℃ |
上士幌の水道水は、なんと夏場に採水しても水温が13℃と、気温よりも低いことが判明。他県では20℃よりも高いのに。大雪山系の雪解け水が影響し、夏でもひんやりした水が飲めるんですね。ここは他と比べて顕著に差が出たところでした。
上士幌町の水は自慢できる水です!
今回、水のおいしさ研究会が出している全ての項目については調べることができませんでしたが、全国の水の状況について見ることができました。
日本のどこの都市においても水の基準値は下回っており、日本に住んでいる以上、水道水は安心して飲めることがわかりました。しかし、それ以上に上士幌町の水は、他の都市と比べると、カルキ臭が少なく、水温が低く、飲みやすく「美味しい水」だということがわかりました。
都会にいたときは、夏場、水道をひねっても出てくるのは生ぬるい水だったため、あまり美味しさを感じたことはありませんでしたが、上士幌町に来てからは水が冷たく美味しさを感じています。今後、JICAの活動において海外に出たときに自信をもって上士幌町の水を伝えることができるなと思いました。
皆さん、上士幌町の水は「カルキ臭が少なく、水温が低いので、美味しいんだよ!」と他県の人に自慢できますよ!
書店がない地域にも本を届けたい~「鈴木書店」鈴木 司さん~
「書店がない地域にも本を届けたい」。そんな思いから十勝管内で移動書店の活動を行っている鈴木司さん。「将来は地元の上士幌町に書店を開業したい」という志を持ちながら、活動を続けています。(制作:ホロロジー編集部)
鈴木書店
鈴木 司さん
|すずき・つかさ|1967年上士幌町生まれ。上士幌高等学校卒業後、10年間上士幌町役場に勤務した後、現在は帯広市内のクリニックに勤務。2017年より十勝管内で移動書店事業を開始、イベント出店などを行っている。2020年度より上士幌町「ハレタかみしほろ」にて出店を開始。将来は上士幌町内に書店を開業することを志している。
本に触れる機会を提供したい
「書店がない地域にも本を届けたい。本に触れる機会や購入できる場を提供したい」
帯広市内の精神科クリニックに勤務する鈴木司さんは、そんな思いから移動書店に挑戦し、活動を行っています。活動をはじめたのは2017年から。本業が休みの週末などを使い十勝管内のさまざまなイベントに出店し、自ら厳選した本を販売しています。
現在は帯広市内に住んでいますが、鈴木さんは上士幌町の出身です。かつては上士幌町にも書店があり、学生時代によく通っていたと鈴木さんは言います。
「学校帰りによく立ち寄っては雑誌や文庫本を購入していました。僕自身、それがきっかけで本が好きになった。書店がなくなると本に触れる機会が減ってしまう。すごくもったいないことだと思うんです」
リアルな場だからこそ出会いが生まれる
そんな自身の原体験もありチャレンジしている移動書店。これまで上士幌町内でもフリーマーケット「楽楽市」やハレタかみしほろ、クラフトキッチンなどでイベント出店を行い、出店回数は約30回を数えます。
「今はインターネット通販で書籍も簡単に購入することができます。購入履歴からはお勧めの本が紹介されてすごく便利ですが、一方で偶発的な出会いが少なくなっていると思います。リアルな書店に並ぶ書籍の中から表紙や背表紙を見て、直接手に取ることで、思いがけない一冊に出会うこともある。それが書籍の良さだと思うんです」
そう話す鈴木さんは、同時に「コミュニケーションの大切さ」も指摘します。
「リアルな場だからこその出会いや発見ってありますよね。お客様との会話から、嗜好がつかめたり人柄が見えてきたりすることもあります。じゃあこんな本に興味があるかなといってお勧めしたり、そんなやりとりが楽しいんです。自分がお勧めした本を購入いただいたときの喜びはひとしおですよ」
また鈴木さんは、移動書店の活動と並行して映画の自主上映活動も行っています。
「書籍が映像化されることはよくありますし、映画を観て原作に興味を持つこともありますよね。いろんなきっかけから本に興味をもってほしいんです。もっとも、僕がどちらも好きということが大きいのですが(笑)」
将来は上士幌町での開業を
そんな鈴木さんは「地元の上士幌町で書店を開業したい」という志を持っています。その実現に向けて事業開業について学ぶために「かみしほろ起業塾」にも参加しました。まずは移動書店を継続させながら、中長期的に開業に向けてのプランを描いています。
「いつか書店を開いたときには、本はもちろん映画も気軽に楽しめる空間にしたいですね。インターネットでは味わえない、お客様との交流の場をつくりたいと思っています」
鈴木さんの活動理念は「本との出会いで豊かな未来を」。
本は世界を広げてくれるだけでなく、時に人生の大切な指針を示してくれることもあります。それは誰でもない鈴木さん自身が知っていること。だから「本を届けたい」。鈴木さんの挑戦は続きます。
※鈴木さんの活動スケジュールは、下記のブログやSNSで告知しています。
鈴木書店ブログ:https://obijisyu.exblog.jp/
Facebookはこちら
「スマホの使い方を教えて欲しい」に応えました!
2020年12月に私たちJICA訓練生は「町内の方々の困りごとを、訓練生が人材センターの会員として自分たちの得意分野を活かして解決します」という企画を行いました。今回は、まちのお世話になった方々に向けて、何か困りごとがありませんかという依頼をしたところ、スマートフォンの操作が分からないというシニアの方が多数いらっしゃることがわかりました。そこで、そんな方たちのお役に立ちたいとスマホ講座を企画しました。その一部始終をお伝えします。
WRITER
田中 亮 (たなか りょう)
JICA訓練生。1982年生まれ。茨城県出身。自然が好きで、土や水の分析をしてきました。自然豊かな上士幌町に「個性」を感じています。もっともっとこの町の「個性」を発掘していきたいです。
身近に聞ける人たちがいない!
「わからなければすぐに家族に聞くことができるし、スマホ講座の需要なんてあるのだろうか?」
そんな心配も抱きながら、手探りの中からの始まりでした。しかし、講座の案内をしてみると、ぞくぞくと参加したいとの声が!参加者の声を聞いてみると「子どもたちには聞きにくい」「詳しい友だちに聞くのは気が引ける」とちょっと遠慮気味。第三者だからこそ聞きやすいということなのかもしれません。
メッセージアプリを使いたい!
参加者にはコロナ禍の中で会えないご家族とのコミュニケーションツールとして新たにスマートフォンを導入された方もいらっしゃいました。
また、メッセージアプリは入っているものの、使い方が分からないという方も多かったので、まずはメッセージアプリでコミュニケーションが取れるようになる講座を開催しました。
参加者の中に仲間同士で釣りに行っているという方がいたので、普段どのように連絡を取っているか聞くと、リーダーがメンバー一人ひとりに電話で連絡をしていたことがわかりました。
そこで講座では、グループを作ることで一斉に連絡ができることをお伝えしました。
操作自体は簡単なので、皆さんすぐに習得されて、メッセージやスタンプを送り合いながら楽しんでいました。これからは、釣り仲間への連絡もバッチリではないでしょうか!
また、気軽にテレビ電話ができることもメッセージアプリの特徴です。2020年の年末年始はコロナの影響もあり、遠方に住んでいるご家族が帰省できなかったという声も多く聞きました。
アプリを使うことで遠く離れたお子さんやお孫さんとも簡単にコミュケーションが取れることをお伝えすると、それは便利と喜んでいただくことができました。積極的に活用していただけると嬉しいですね。
2次元バーコードの読み取りにチャレンジ!
続いてお伝えしたのは、2次元バーコードを使った友だち追加の方法です。
すでにメッセージアプリを利用していても自分の2次元バーコードがあることを知らない方もいらっしゃったため、「これは簡単で便利ね」と、とても喜んでいただけました。
さらに通常の2次元バーコードの読み取りも行いました。バーコードの読み取り機能がついていないカメラでも、メッセージアプリを使えば簡単に読み取ることができます。
テレビや町の広報誌などで2次元バーコードを見つけても「これって何だろう?」と思っていた方も多かったのですが、ここで覚えていただけたことで「今度試してみたい」とおっしゃっていた方もいらっしゃいました。
終えてみて
今回、初めてスマホ講座を開催しましたが、皆さん多種多様な困りごとを抱えていることがわかりました。また私たちにとっては簡単な操作でも、受講者にとっては難しい作業はたくさんあることも実感しました。
しかし、講座を一緒に進めてみると、皆さん使い方をすぐにマスターしていったので、「スマホを使えるようになりたい」「アプリを使ってみたい」という意欲は高いということがわかりました。
ある受講者の方からは「帰り道に自然に笑みがこぼれて、人通りのないところでは大きな声で歌いながら家路につきました。ハッピーな時間をありがとうございました」というメッセージが届きました。このように思っていただける方もいて、本当に嬉しかったです。
このような講座がもっと盛んになり、町のあらゆる世代の人たちがスマートフォンを使いこなせるようになったら、もっと楽しめることがたくさん生まれてくると思います。また世代を超えて人々が交流し、みんなが笑顔になる時代がやって来たら嬉しいなと思いました。
母のチャレンジとそれを応援する息子が営む「やどかりカフェ」
2020年7月から「ハレタかみしほろ」では、月曜〜水曜日のランチタイムに「やどかりカフェ」が営業中です。カフェを運営する、普川奈緒子さん(63)が茨城県から上士幌町に移住してきたのは2004年。15年以上にわたる上士幌の生活で地域の人に支えられた恩返しをしようと考えていました。そこで生まれたアイデアが、何の経験もなかった飲食業。ハレタかみしほろで飲食店にチャレンジできることを知り、スペースを借りました。また還暦を超えた奈緒子さんの挑戦を応援しようと、飲食業の経験がある息子・元晴さん(37)が一肌脱いだのでした。(制作:ホロロジー編集部/取材:2020年10月)
介護がつなげた、まちとのつながり
――今日はお時間をいただきありがとうございます。2020年7月にオープンし、4カ月ほど経ちますが、お店はいかがですか。
奈緒子さん:お店をはじめて間もない頃は、体がしんどいときもありましたが、ハレタの人たちや周りの皆さんが励ましてくれたから頑張ってこられたかなと思います。実際にやってみて、健康でないと続けられないと分かりましたね。
――そうですよね、ずっと立ち仕事だと、肉体的にも精神的にも相当大変だと思います。上士幌町には移住されてこられたと伺っていますが、こちらの暮らしはどうですか。
奈緒子さん:夫が獣医をやっていて、転勤で全国を回っていました。熊本で13年間、茨城で14年間を過ごして、2004年に上士幌町に来ました。当時、神奈川県藤沢市に住んでいた母が認知症だったこともあって、上士幌に来てもらったんです。そうしたら地域の方たちが母のことを手伝ってくれて、まちや地域との関係というのかな、そういうつながりができたことが印象的です。
――家事をしながら介護と両立させるのはとても大変だったんじゃないですか。
奈緒子さん:周りの人たちの支えもあって、母は上士幌に来たときよりも調子が良くなって結局、藤沢に戻ったんですよ。
――すごい。上士幌町に来て元気になられたのですね。
母がはじめて口にした「やりたい」
奈緒子さん:それから、このまちに何か恩返しがしたいと考えはじめました。でも、結婚してからはほとんど専業主婦だったから何をすればいいのか自分でもわからなかった。それでも人生このままでいいのかという考えはあってね。そんなときにまちづくり会社がチャレンジカフェを募集していると聞き、相談に行ったことがこのカフェの始まりです。
――ご自宅で料理はされていたとはいえ、お店で提供するメニューはまた違うから大変だったんじゃないですか。
奈緒子さん:最初は1人でやるつもりだったんだけど、息子(元晴さん)にカフェで出すメニューを考えてもらうようになっているうちに、一緒にやることになったんです。
――親子仲がいいんですね。息子さんにとっても大きな決断だったでしょうね。
奈緒子さん:息子はイタリアンレストランやバーで働いていて飲食業のことは詳しかったから本当に助かりましたよ。
――元晴さん、お母さんのお話を聞いていかがですか。
元晴さん:なにせ母がはじめて「やりたい」って言ったことでしたからね。うん、それはもう。
――それはもう、応援するしかない、と?
元晴さん:そうですね。母を助けたい気持ちもありましたけど、自分にとっても東京から上士幌町に来てまちの人と関わるチャンスをもらったと思いました。行くしかないだろうと。
まちのためを考える
――上士幌町でカフェにチャレンジすることにハードルは感じましたか。
元晴さん:このまちにあるといいなという場所を作り、まちのためを考えたらうまくいくと思っていました。
――ガパオライスなど周囲のお店で出していない、こだわりのあるメニューもありますよね。
元晴さん:レパートリーは30種類ほどあるので、お客さまの反応を見ながら、継続的に楽しんでもらえる方法を考えていけたらと思っています。
――このチャレンジをはじめてから、新しい発見などはありましたか?
元晴さん:まず驚いたのは、来たお客さまはほとんど料理を残さずに帰ってもらえているということ。東京などで飲食店をいくつか経験したけれど、こんな経験ははじめて。本当に嬉しいことです。
――すごい!美味しいのはもちろん、提供されたものはしっかりといただくというのが上士幌町の皆さんには根付いているのかもしれませんね。
元晴さん:上士幌町の皆さんには本当に良くしてもらっていますが、そういう、人となりが滲み出ているなと感じています。
――「ハレタかみしほろ」の使い心地はどうですか?
奈緒子さん:ここがチャレンジカフェだったからはじめられたよね。そうじゃなかったら飲食店なんてできなかった。たくさん相談に乗ってもらえたし、ご飯だってここの職員さんが試食してくれたり、感想を伝えてくれたり、安心して営業ができる環境を整えてもらっています。感謝しかありません。
――チャレンジカフェを卒業したあとはどうしていきたいですか。
奈緒子さん:まずは息子がいなくても1人でできることを目指さないとね。どんなお店がいいのか分からないけど、まちに住む人たちの居場所を作りたいなと思っています。自分で盛り付けのイメージをノートにまとめてレシピを作っているし。やっぱり店は同じ味になるようにしなきゃいけないもんね。
――卒業をイメージしながら、今試行錯誤できるということですね。
奈緒子さん:そうですね。大変なことも多いけれど、楽しみにしてくれている人も出てきて、頑張りたいなと思っているところです。
――長時間いただき、ありがとうございました。新たな店の開業を楽しみにしています!
取材を終えてみると、2人の仲の良さがにじみ出る場面が随所にあり、2人3脚という表現がぴったり来る親子でした。地域の人たちにも段々と認知されている「やどかりカフェ」は、「しなやかに」地域で根を伸ばしていると感じました。
※まちづくり会社の「ハレタかみしほろ企画・運営」事業についてはこちらをご覧ください。
酪農を知ろう! 荒井牧場見学 〜機械化する酪農の形~
2020年11月から「MY MICHI プロジェクト」第2期に参加した私は、プログラムでサンクローバーさんを見学し、その模様をこのホロロジーに掲載しました。そしてプログラム終了後も上士幌町に残ることにしたのですが、せっかくこの町にいるのならば、酪農が盛んな上士幌町のもっといろんな酪農の形を見てみたいと思いました。
ということで、今回は、萩ヶ岡地区にある荒井牧場さんにお邪魔しました。驚いたのは、「牧場のお仕事ってここまで機械化されていたの?」ということでした。酪農の世界で働く皆様には、見慣れた機械かもしれませんが、酪農をまだまだ知らない私にとっては目新しいものばかり。皆さんも、機械化された酪農の形を一緒に見てみませんか?
▶︎酪農を知ろう!サンクローバー牧場見学【前編】〜1億5000万円!?「酪農界のメリーゴーランド」に迫る牧場探検〜
▶︎酪農を知ろう!サンクローバー牧場見学【後編】〜削蹄師の仕事を間近で見学〜
WRITER
苅谷 美紅 (かりや みく)
北海道千歳市出身。MY MICHI2期生を経て、取材メンバーとして活動しています。1ヶ月だけのつもりで来た上士幌生活に魅了され、気づけば5ヶ月目に突入。
荒井牧場の転換期
荒井牧場さんは、代表の荒井力也さんと奥様の登喜子さん、お二人で経営されています。現在の牛の頭数は搾乳牛120頭、育成牛110頭。畜産クラスター事業をきっかけに、平成28年に、牛舎内に牛を固定・つなぎ留めて飼養する「繋ぎ飼育」から、休息場とエサ場を自由に行き来できる「フリーストール牛舎」に方針を転換、「搾乳ロボット」をはじめ新たな機械を導入しました。聞くと今では、荒井牧場さんのように搾乳ロボットを導入したり、機械化が進んでいる牧場も少なくないのだそうです。
その『搾乳ロボット』がこちら。
牧場で活躍する機械① 『搾乳ロボット』
なんと24時間全自動で稼働し、1台につき1日60頭の搾乳ができます。荒井牧場さんにはこの搾乳ロボットが2台あり、1日に120頭の搾乳を自動で行っています。
自動搾乳の様子はこちら▼
牛たちは自ら搾乳ロボットに入ってきますが、これは美味しい餌で呼び込んでいるのです。この搾乳ロボット、3頭連続で問題が起きると、通知が来るシステム。外出中や夜間に通知が届くこともありますが、いち早く対応することができているそうです。
そしてその搾乳データは全て、このパソコンで管理されています。
搾乳されたミルクの量や搾乳に失敗した回数といった、搾乳に関する情報をはじめ、体重や発情予想などもこのパソコンで確認しています。肉体労働のイメージが強かった酪農のお仕事が、だんだんとデータで管理する仕事に変わって来ているのだと感じました。
搾乳ロボットを導入する前は、1頭1頭、乳房炎になっていないかの確認、乳首の洗浄や消毒、搾乳機の取り付けなど、手作業で行なっていたそうです。24時間自動で搾乳が行われることで、搾乳に張り付いている必要がなくなり、ご夫婦2人という少ない人数で牧場経営をするための大きな負担軽減に繋がっているのですね。
牧場で活躍する機械② 糞尿をかき集める『スクレーパー』
続いては、牛の糞尿をかき集める装置。
長い牛舎を頻繁に掃除するのにとても便利な『スクレーパー』です。通常スクレーパーというと、床にこびりついたガムなどを剥がすヘラの形をした工具を指します。牛舎で活躍するスクレーパーは、ロープに繋がれた矢印のような形をした鉄状の装置で、これが地面の糞尿をかき集めていきます。なんとなく、スクレーパーのイメージは湧きましたか?
では、実際に動いている様子をご覧ください▼
牛は1頭につき1日約60kg前後の糞尿をします。荒井牧場さんのように120頭の搾乳牛がいれば、1日に720kgの糞尿を処理する必要があります。集められた糞尿は、ピットという溝に落とされ、巨大な堆肥場に運ばれていきます。
牛の寝床と餌場の間には、数カ所水飲み場が設置されていますが、そこの糞掃除、寝床の糞掃除は雪の降る地方ではお馴染み、雪かきをするための道具『ラッセル』を使い手作業で行われていました。手作業で通路に落とした糞尿は、スクレーパーによって運ばれていきます。
牧場で活躍する機械③ 『餌寄せロボット』
こちらは『餌寄せロボット』。広がった牛の餌を、食べやすいように牛の顔の近くまで寄せてくれます。
その様子がこちら▼
まるで巨大なロボット掃除機のようです。この餌寄せロボットが設置されていない外の餌場では、雪かきの『ラッセル』を使い手作業で餌を寄せていました。
牧場で活躍する機械④ 『哺乳ロボット』
ところで、私と同じ時期に上士幌町に滞在していたJICA訓練生が行っていた、荒井牧場さんでの酪農チャレンジの記事はもうご覧になられましたか?
▶︎かみしほろ人材センターで酪農にチャレンジ!(前編)~餌やり編~
▶︎かみしほろ人材センターで酪農にチャレンジ!(後編)~ミルクやり・お産立ち合い編~
この記事では手作業でミルクを飲ませていましたが、手作業で飲ませるのは生後1週間程度まで。生後1週間を過ぎてから生後60日まではこちらの哺乳ロボットを用いて自動でミルクが与えられています。
1頭につき1日4回(1回500ml×4=2L)。まだ飲ませる必要がある仔牛がピットに入ってきた場合は、乳首がぴょこっと出てくる仕組みです。
機械の洗浄も自動で行われるため、荒井さんご夫婦が日常的に行っているのはミルクの補充だけなのだそう。哺乳ロボットはデータでの正確な哺乳管理ができ、1日に複数回に分けてミルクを与えることで子牛の消化効率を高めて下痢の発生を抑制するなど、仔牛にとってもいいことが多いのだそうです。
牧場で活躍する機械⑤ 『オートマチックトラクター』
最後にお見せするのは搾乳牛への餌やりの様子▼
車を走らせながら、餌を置いていました。長い牛舎でもこれなら短時間で餌をあげることができます。この車の全貌はこちら。
機械化で負担が減る酪農の仕事
「生き物を扱うため、1日も休むことができない」
「肉体労働で大変」
私を含め、酪農に対してそんなイメージを持っていた人も多いと思います。今は機械化が進んでいる牧場も増え、肉体的な負担はかなり軽減されているのだそうです。
荒井さんご夫婦も、初めは、機械化することに対して大きな不安があったと言います。機械がうまく作動せず、夜も眠れないのではないかと心配し、半年間は事務所に泊まり込む生活を覚悟もしていました。
しかし、当時大学生だった息子さんが休学をして導入のサポートをしてくれたこともあり、実際は一度も泊り込むこともなく、スムーズに機械化に移行できました。一方で、全てがデータ化されるため、些細なことに気づき過ぎてしまうこともあるそうですが、従来の飼育手法に比べたら格段に負担が軽減されていることから「もっと早く機械化すればよかった」と登喜子さんはおっしゃっていました。
そしてその息子さんが牧場を継ぐことも決まり、荒井牧場さんにとっては、機械化が牧場を良い方向に導いてくれたようです。「酪農のイメージが良くなったらいいな」そうおっしゃっていた登喜子さんですが、この町に来てから私は、間違いなく、酪農のイメージが変わりました。
1回目のサンクローバーさんに始まり、今回、見学させていただいた荒井牧場さん。上士幌にはさまざまな牧場の形があることを実感しました。私自身、まだ上士幌町に滞在しますので、これから先も、もっともっとさまざまな酪農の形を知れたらいいなと思います。
荒井牧場さん、ありがとうございました!
上士幌町ならではの体験!熱気球で空の旅!
2020年8月末から5カ月間、JICA訓練生として上士幌町に滞在していました。上士幌町ならではの体験をたくさんさせていただいたのですが、その中でも上士幌町といえば「熱気球」。「一度は乗ってみたい!」と思っていたところ、上士幌バルーンクラブさんのご協力のもと、熱気球搭乗を体験させていただきました。今回は天候も良く、最高のフライトでした!
WRITER
瀬谷 友啓
JICA訓練生。栃木県出身。自然溢れる北の大地で景色を楽しみ、人と話し、美味しいものを食べる。さまざまな機会に触れて、町の魅力を感じて自分の言葉で伝えることができたらいいなと思っています。
まずは熱気球について学びました
熱気球の歴史
今すぐにでも気球の上からみた景色を皆さんにご紹介したいのですが、この機会に熱気球の歴史を調べてみました。
熱気球の歴史は結構古いのです。1783年フランスで、研究家モンゴルフィエ兄弟によって発明されました。煙突から昇る煙の様子からヒントを得たと言われています。
たしかに煙は上に昇りますね。紙で補強した絹で大きな袋を作り、湿ったわらを燃やして温めた気体を集め、気球として飛ばしたことに始まるそうです。日本では1969年9月に北海道洞爺湖付近で、京都イカロス昇天グループが製作した球皮とゴンドラに、北海道大学探検部が製作したバーナーを搭載した「イカロス5号」が初めて空を飛んだそうです。日本の歴史は意外と最近なんですね。
上士幌町は、日本で初めて本格的な気球の大会を開催した町です。1974年に(昭和49年)に第1回上士幌熱気球フェスティバルが開催されました。上士幌町は日本の中でも、年間を通じて平均気温が低く、気球を飛ばすには絶好のコンディションが整っています。また、着地場所の障害物が少なく、収穫後の畑が使えることも上士幌町で熱気球が盛んに行われている理由の一つだそうです。
熱気球の仕組み
また、気球が空を飛ぶ仕組みも調べてみました。熱気球は球皮の中の空気をバーナーで熱することで、内側の空気が温まり膨張しはじめます。温かい空気は上へ、冷たい空気は下へ向かうという原理を生かして膨らませるのです。そして、球皮を温かい空気で膨らまして外に押し出した分だけ、周囲より空気の密度が低くなり、浮力が生まれます。温かいものは冷たいものより軽いという原理で気球は浮かび上がります。
熱気球が飛ぶ主な時間は1日の中でも風が穏やかな時間帯、日の出後や日の入り前の凪の時間です。
熱気球のパーツ
・球皮(きゅうひ・風船部分のことを指し、熱気を包み込んでいます)
ナイロン製が一般的で、バーナーを炊くと球皮内の温度は70~100度まで上昇します。球皮の頂点の温度が最も高くなるため、強度の強いナイロンを使用します。球皮を膨らませると高さ22m、幅16mほどになります(5階建てのマンションと同じくらいです)。
・バスケット
気球の人が乗るところで、燃料の設置場所です。軽さ、柔らかさ、強さが特徴的な籐製のものが主流です。
・シリンダー(燃料ボンベ)
熱気球のエネルギー。1機につき3〜4本を積み込みます。燃料はLPガスで、満タンに入れると20kgほどになります。なかなかの重さです。
・バーナー
燃料を燃やすための器具。バーナーを炊き、急上昇すると5分もしないうちに1000mまで上昇します。バーナーは必ず二つ搭載されていて、万が一、一つが停止しても飛行できるようになっているそうです。
離着陸地
熱気球はとても大きいため、飛ばす準備や着陸をして片付けるには、田んぼ一枚分ほどの障害物のない場所が必要になります。そのため熱気球が飛ぶ地域は必然的に、電線や集落、森林が少ない地域となります。上士幌町は、ほぼ500m四方に道路が整備されており、夏の小麦や牧草の刈り取り後の11月頃から5月頃までが作物への影響が少なくなるため、飛びやすい時期になるそうです。町の北西にある大雪山系の影響で、冬季は西風か北または北東風が多く、プランによってはロングフライトも楽しむことができるそうです。
いよいよフライト!
皆さん、お待たせしました。いよいよフライトの様子をお伝えします!今回は上士幌バルーンクラブの菅原博治さんに搭乗させていただきました!
同じく上士幌バルーンクラブのパイロットの青木知子さんです。
今回乗せていただいたのはこちら。上士幌バルーンクラブの熱気球「Dreamin’」号です!
立ち上げ
離陸地を決め、機材を降ろします。機材はバンなどの大きな車を使って運搬しています。
次に球皮を袋から出し、広げていきます。気球の頭の部分が最後に広がるように引っ張っていきます。
気球はバスケットも含めて高さが20m近くあるため、袋から出してその大きさに驚きました。
球皮を広げたら、大型の送風機を使って膨らませていきます。その風圧は、正面に人が立つと飛んで行ってしまいそうになるほどです。
入り口をかまぼこ型にして、空気を送り込んでいました。
球皮に十分に空気が入ったら、バーナーで中の空気を熱します。
「ボ~~!」と何度見ても驚く火力で、迫力満点です。一瞬で塊肉がローストビーフになりそうです。
加熱された空気は軽いため、気球の頭だけが持ち上がってしまわないようにロープ(クラウンロープといいます。気球を膨らませるときや着陸時などに気球が動くのをコントロールします)を引いて押さえます。ここで、ようやく想像していた気球の姿になりました。
気球が十分に膨張したら、ゆっくりロープを緩めて気球を立ち上げます。
準備完了! ここまで40分ぐらいでした。みんなで押さえていないと、すぐに飛んでしまいそうな状態でした。
いざ、熱気球搭乗!
炎の勢いを強め、空へと飛び立ちます。
離陸の瞬間は、飛行機のように地面からの距離が離れていくにつれて、「上に上がっているな」と実感するのかと思いきや、なんの感覚もなく、気が付くと一瞬で熱気球は上昇していました。
気球の操縦は、球皮の頂上部にある排気弁(パラシュート)の開閉と、バーナーの火力調整で行います。この操作で可能なのは上下動きのみで、横の動きは自然の風任せです。
自然の風を読み、知識と経験をもとに気球を操ります。パイロットの腕の見せ所ですね。搭乗しているとき、私は風向きなどほとんど分かりませんでした。
大地に映る、太陽に照らされた気球のシルエットの写真。
私はこの風景が一番好きです。見る人も笑顔にしてくれます。
気球に搭乗すると、目に映る空の景色が変化しました。何もない広大な土地が、熱気球1機でがらりと風景が変化するのです。私が子供の頃に夢見ていた「風船に乗って空高くまで飛んでみたい」そんな感覚が、夢から現実になる瞬間が熱気球にはあるのではないかと思いました。
バスケットに乗り込み、激しく燃えるバーナーを見てそんな想いを感じることができた空の旅でした。
今回、熱気球搭乗という貴重な経験をさせていただきました。大きな機体を準備する役割。熱気球を車で追跡し、時間や場所により変化する風の状況をパイロットへと伝えて、熱気球を目的地へと誘導する役割。何か一つでも欠けたらパイロットは飛ぶことができません。支えてくれる仲間との信頼関係があってはじめて飛ぶことができるのだと感じました。皆さん、貴重な体験をありがとうございました!
上士幌町では、夏と冬に「北海道バルーンフェスティバル(冬は「上士幌町ウィンターバルーンミーティング」)」が開催されます。全国各地からバルーンニストが集まり、各自の技量をバルーンに託し、空の上で競い合います。いつかこの大会を見るために上士幌町に来たいと思います!
西原農場さんで農作業体験!〜後編・ゴボウの出荷作業とぼっこ抜き〜
2020年10月、海外派遣前訓練で上士幌町に滞在している私たちJICA訓練生4人は、西原農場さんにゴボウ収穫のお手伝いに行ってきました。今回、私たちは4日間西原農場さんでお世話になり、ゴボウ収穫以外にも長芋のツル下ろし、ぼっこ抜きなどさまざまなお仕事を体験させていただきました。今回は後編。では早速、作業の様子をお伝えします!前編はこちら
WRITER
中山 舞子
1992年生まれ。千葉県在住。青年海外協力隊としてインドに派遣予定。海外派遣の目途がたたない現在、上士幌町に5ヶ月間滞在中。外からの目線で上士幌の魅力を掘り下げて行きます!
ゴボウの出荷作業
午後、私は特別に正行さんにゴボウの出荷場所である農協の選果場へ連れていってもらいました。ゴボウのコンテナを荷台一杯に搭載したトラックに乗り込み、出発。
到着!ここが農協の選果場です。
受付と計量を済ませたら、荷下ろしをしていきます。
農協の職員さんがものすごいスピードで次々とコンテナを降ろしていきます。
指定の場所にフォークリフトで運び、あっという間に出荷は完了。せっかくなのでゴボウの選果の様子も見させてもらいました。選果は倉庫の中で行っており、農協がかみしほろ人材センターなどを通して募集した町民の方々が作業を行っていました。
まずはゴボウの茎の部分を切り取り、ベルトコンベアに乗せていきます。
これがゴボウの茎です。次にゴボウを選別していきます。
ベルトコンベアに乗って流れてきたゴボウを大きさや長さによって階級分けしていきます。階級はかなり細かく分かれており、大きい順に、3L、2L、L、M、2M、S、2S、3S、4S、そして規格外品です。それぞれを袋に詰めて商品の完成!
さっきまで土に埋もれてぬくぬくしていたゴボウたちがこうして綺麗に袋詰めされ、今から世に送り出されていくのかと思うと、ちょっと感慨深い気持ちになりますね。
畑に戻ると、長芋畑のツル下ろしがかなり進んでいました!
ちょうど良いタイミングで、西原さんから15時の休憩に呼ばれました。
休憩スペースに到着すると、お鍋にたっぷりのお芋が用意されていました!
西原さんがみんなのために煮てきてくれたのです。このジャガイモは西原農場さんで取れるキタアカリ。
「みっちゃん(西原さん)が煮る芋、本当に美味しいからみんなたくさん食べなよ!」
「え!?!?!?!これがジャガイモ!?!??!?」
それが一番初めに口に入れたときの素直な感想。完全に今までのジャガイモの概念が覆されました。あまりの甘さにジャガイモとは思えません!
西原さんにどうやって煮たのか聞いてみると「お水と少しのお砂糖で柔らかくなるまでじっくり煮るだけだよ」と言います。この絶妙なお砂糖と火加減がジャガイモの旨みを最大限に引き出しています。
「適当だよ」と西原さんは話すけれど、その絶妙な加減が真似できないんですよね。
西原さんも、みんなにたくさん食べてもらえてとても嬉しそう!
お腹も満たされたところで最後のひと踏ん張り、作業に戻ります。
ぼっこ抜き
長芋畑の準備は、ツルが下ろせたら、あとは地面に刺さっているぼっこを抜くのみ。ぼっこは地面に深く刺さっており、ツルが巻きついていることも多く、簡単には抜けません。
正行さん曰く、腕の力をつかわず体をぼっこに近づけて屈伸運動で全身の力で持ち上げるのがコツなんだとか。言われたようにやってみると確かに体に負担がなくスポっと抜けます。それでも何本か抜くだけで私たちはヘトヘトです。ただ「全力で頑張ります!」とお約束した手前、泣き言は言えません。無心でどんどん抜いていきます。
大分慣れてきてなんだか楽しくなってきました!コツをつかんでくるとぼっこがスポっと抜ける瞬間がたまらない。
「農業は地味な仕事の積み重ねさ」そう正行さんは言います。
確かに野菜の収穫に至るまでどれだけの労力が必要か、想像するのも容易くはありません。でもその一つひとつ一の地味な作業の何か一つでも手を抜くとと美味しい野菜はできないのでしょう。
この広大な農地を背負う正行さんが言うからこそ、その言葉は真実であり、そして真髄なんだと思います。
帰り際にゴボウ畑に目をやると、なんとも神秘的な光景が広がっていました。
最後まで自然の力を感じる1日でした。
今回、この日を含めて4日間お世話になりましたが、収穫作業だけでなく他のさまざまな体験もさせていただき、驚きと学びばかりの非常に勉強になった4日間でした。もちろん慣れない作業に毎日体はバキバキ、1日が終わると体はヘトヘトでしたが、それ以上にこの最高なロケーションでいろんな経験をさせていただき、毎日が新鮮でとにかく楽しかったです。
4日間のお手伝いだけでは、私たちが知れたことなどごく一部に過ぎないとは思いますが、それでもいかにこの上士幌が恵まれた土地であるか、この畑の景色が特別なものであるか。そんなことが少しでも皆さんに伝わったら嬉しいです。
西原さん、4日間ありがとうございました!
西原農場さんで農作業体験!〜前編・ゴボウ収穫と長芋ツル下ろし体験〜
2020年10月、海外派遣前訓練で上士幌町に滞在している私たちJICA訓練生4人は、西原農場さんにゴボウ収穫のお手伝いに行ってきました。今回私たちは4日間西原農場さんでお世話になり、ゴボウ収穫以外にも長芋のツル下ろし、ぼっこ抜きなどさまざまなお仕事を体験させていただきました。普段は土に触れる生活をしていないのですが、ここは農作物の一大産地。ぜひ体験しお手伝いをしたい!そして魅力も伝えたい!西原農場さんでの体験をレポートしていきたいと思います。1日でも密度の濃い体験でしたので、まずは前編として、ゴボウ収穫と長芋のツル下ろし体験をレポートします!
WRITER
中山 舞子
1992年生まれ。千葉県在住。青年海外協力隊としてインドに派遣予定。海外派遣の目途がたたない現在、上士幌町に5ヶ月間滞在中。外からの目線で上士幌の魅力を掘り下げて行きます!
キッカケはかあちゃんばーちゃん野菜市
ことの発端は、かあちゃんばーちゃん野菜市でのこと。
10月に入ってすぐのころ、いつも通り買い物をしながら野菜市の皆さんとお話していました。
実は私たち、農家さんのお仕事に興味があるんですが、今の時期何かお手伝いできることはありませんか?
もう少しでゴボウの収穫時期を迎えるわよ。ゴボウは繊細だし、作業はキツいけれど大丈夫?
ゴボウの収穫が始まるんですね。全力でやりますので、もし私たちでもご迷惑でなければやらせていただきたいです!
本当?後で泣いても知らないよ(笑)。
そう言いながらもお世話を焼いてくれる石川さん。
西原さん、今年のゴボウ収穫は人手は足りてる?この子たちが手伝いたいんだと。
もし来てくれるならありがたいけど、本当にいいのかい?
ぜひお願いします!しっかり働きますので!
そうして話が進み、4日間お手伝いをさせていただけることになりました。農業はすべてが天気次第。いつ開始できるかは、当日にならないと分かりません。
収穫をする日の朝に電話するね!
そして迎えた作業日。この日のために、ヤッケ・ゴム手袋・長靴すべて揃えてきました。準備は万端!
ゴボウ収穫に初挑戦
西原農場さんは上士幌町の市街地を少し抜けた高台にある農家さんで、十勝の主要4品目(小麦、ジャガイモ、てん菜、豆類)をはじめとしたさまざまな作物を栽培されています。家族経営ですが、その農地の広さはおよそ60ヘクタール。なんとディズニーランドをすっぽり入れてもまだ余りが出るくらいの大きさです。
今回農作業体験をさせていただいた西原さんご家族。
まずはじめは、今回の主作業であるゴボウ収穫です。
ゴボウ畑に到着。天気は快晴です!このゴボウ畑だけで3.2ヘクタールあるそうです。
作業の前に畑の下見に来ていたのですが、そのときに見た畑からの眺めが気に入ってしまい、天気が良い日にはこの辺りまでジョギングをしに来ていました。ここで4日間も作業できるなんてそれだけで幸せです。
収穫作業のメンバーは大体7〜8人ほど。普段から西原さんの畑で働いているメンバーも多く、和気あいあいと作業が進められています。時折、畑の中から笑い声が響いてきます。
ゴボウ収穫は、まず機械でゴボウの葉を刈り、その後にゴボウを土ごとトラクターで掘り起こしていきます。掘り出された土の中から機械でゴボウはつまみ上げられ、格子状の台の上へと落とされていきます。
私たちの仕事はそのゴボウを台から素早く回収し、並走しているコンテナに入れていくことです。トラクターの後ろに並んで列を作り、一人ずつ順番に作業を進めていきます。
自分の番がやってきました。
かなりのスピードでゴボウが落ちてきます。手に取るタイミングが難しい!
少なすぎてもダメですが、もたもたしていてもゴボウが堆積し重くて運べません。
今だ!
お、重い!!!!!!!!!ゴボウの重量を大分侮っていました。
ベテランの皆さんがものすごい量を1回で運ぶ姿に驚きを隠せません!
ふらふらしながら何とかコンテナに運びます。
ゴボウが傷つかないよう注意しながら向きを揃えて入れていくのもなかなか大変。
「無理してたくさん持たなくてもいいよ」
ベテランの皆さんがそんな優しい言葉をかけてくれます。しかし何といったって私たちが最年少。人一倍動きます!
コンテナが一杯になるまでひたすらゴボウを集めては入れ、集めては入れを繰り返します。
そうするとすぐに左手がパンパンに。上士幌町に来て運動を怠っていたツケがここでくるとは・・・。
休憩時間には、西原さんが用意してくれたお茶やお菓子をいただきながらみんなで団らん。今回一緒に働いているメンバーは、派遣会社から来ている方や仕事の合間に来ている方、すでに定年退職をされた方、ご夫婦、ママさんなど、多種多様。
驚くのは、皆さんが始終明るく元気なこと!
作業を終えるころには皆さんともかなり仲良くなり、いつも「また明日も来てね!」と言ってもらえることがすごく嬉しかったのを思い出します。
西原さんご夫妻との会話
私は男性陣がゴボウ収穫をしている間、西原さんと一緒にゴボウを入れるコンテナの袋掛けの作業もしていました。
このゴボウを入れる籠に黒い大きなビニール袋をかけ、ゴムで止めていきます。
この日は風が強く、ビニールをかけるのも一苦労。収穫したゴボウを入れるコンテナが足りなくなっては大変!西原さんと急いで作業を進めます。
「いや~、今日はぼわれるね!」
そんな言葉を何度かかけられました。あとで分かったのですが、どうやら「次々に作業に追われる」という意味の方言のようです。
「クァークァー」
突然空から大きな鳴き声が聞こえてきました!
見上げると大きな白い鳥がものすごいスピードで飛んでいきます。
「もう冬かい。あれは渡り鳥の白鳥だよ。冬になると寒いところからやってくるんだ」
西原さんは渡り鳥の到来で冬の訪れを感じるようです。ここ上士幌では暮らしの中で自然を感じる場面が本当に多いことが実感できます。
それにしても北海道の冬は早い。まだ10月中旬ですが、もう間もなく冬がやってきます。
「昔はこの時期でも霜が降りてたんだよ」
ご主人の竹一さんがそう話していたのを思い出します。竹一さんは機械がなかった時代、水道が通ってなかった時代からずっとここの畑を耕してきました。
「上士幌町の好きなところはどこですか?」
竹一さんにそんな質問を投げかけてみました。
「作物にとって環境が良いところだな。ここの野菜はほかの町に比べて質が高いんだ。
牛屋さんが多いから、たい肥が豊富で良い作物が育つんだよ」
竹一さんにとって野菜づくりは生活そのもの。考えるのはいつも作物のことばかり。会話の至るところから野菜中心に生活が回っているのが伝わってきます。毎年美味しい野菜をつくれることが、竹一さんにとってこの上ない幸せなんだとか。
長芋収穫作業
さて、場面は変わり、次は長芋畑に移ります。
西原農場さんでは今人気の高い「十勝太郎」という品種を種芋用に栽培しています。長芋の収穫は10月末から11月の初旬。収穫に向けて私たちも畑の準備をしていきます。
が、まずその前に!
正行さんが長芋を掘らせてくれるとのことで、長芋堀り体験をしてみることに!
まずは周りの土をシャベルで掘り起こします。長芋の土はかなり硬めです。正行さんが穴を掘ってくれました。
長芋が少し顔を出しています。土にかなり根深く埋もれているので、すぐには取り出せません。周りの土をどけて・・・
よいしょ!!
写真では分かりづらいですが、掘り出したときに先が折れてしまいました。強い力で少しでも曲がった方向に引っ張るとすぐ折れてしまうそうです。長芋が”超繊細”野菜と言われる理由が分かりますね。
その後も何本か収穫し、何とか折らずに掘り出すことができました。
さて、仕事に戻ります!まずは長芋のツル下ろしの作業から。
長芋のツルは等間隔に埋められた3mほどの高さのポール(北海道の言葉では「ぼっこ」と言います!)に這うようにして伸びています。ツルを繋ぎ止めるためのロープを解き、ぼっこからツルを下ろしていくのが作業の流れ。
ロープを外します。
竹一さん曰く、ロープを外すときにゴミが出ないよう結び目の中央部分に切り込みを入れるのがポイントなのだとか。細かなところまで工夫が凝らされていて、長年やってきたからこその知識と知恵の量に驚かされます。
そしてツルをぼっこから取り外していきます。
ツルがぼっこに引っかかっているため、なかなか外れません。簡単なように見えますが、気力と労力をつかう作業です。
まだまだツルが残っていますが、12時になったところでお昼休憩です!
この永遠に続きそうな長芋畑の一本道、大空の下でいただきます。この日は金亀亭さんの豚丼弁当でした。農家仕事×絶景×美味しいご飯のトリプルコンボがとにかく最高です!
ツル下ろしの作業で汗ばんだ体も太陽の下でゆっくり乾いていきます。
作業はキツいこともありますが、これからも畑で食べるお昼ご飯を楽しみに毎日頑張れそう!
ということで、前編はここまで!後編も楽しみにしてください!
上士幌の素晴らしき廃線跡巡り 美しいアーチ橋見学&幻の鉄道・拓鉄を探る!【18年間だけ存在した幻の鉄道】
上士幌町の見どころの一つで旅行者を惹きつけているのが、今も残っている国鉄士幌線の廃線跡。特に、鉄道ファンにとっては日本の数ある廃線跡の中でもかなり有名な存在です。しかし、「タウシュベツ川橋梁は知っているけれど、ほかにはどんなものがあるの?」と思っている方も多いはず。前回は士幌線跡でしたが、後編は70年も前に廃線となり地元でもほとんど忘れ去られている、北海道拓殖鉄道(拓鉄)の廃線跡も訪問してきました! 最後までお付き合いいただけますと幸いです。
前編はこちらから
WRITER
伊藤 卓巳
三重県出身。MYMICHIプログラム2期生。青年海外協力隊としてウズベキスタンで観光業に携わっていましたが、コロナの影響で一時帰国。初上士幌どころか初北海道ですが、壮大な景色と美味しい食事に日々感動中。
幻の鉄道、北海道拓殖鉄道跡へ!
さて、舞台を上士幌の市街地に戻します。
今回の「MY MICHIプロジェクト」の一環で、上士幌小学校の校長先生にお話を伺ったときのこと。鉄道に造詣のお深い校長先生から、士幌線のお話はもちろんのこと、「北海道拓殖鉄道」という聞きなれないワードを耳にしました。
「え、なんだこの鉄道?」
調べてみると、走っていた区間は上士幌から新得まで。しかし上士幌を走っていたのは1931年(昭和6年)から1949年(昭和24年)のたった18年間だけとのこと。つまり70年も前に走っていた列車ということになります。
詳しくお話を伺うと、「そもそも人が住んでいるところを通すのではなく『とりあえず線路を通して沿線に人が住んでくれたら』という感じで線路を敷いた」「当初は士幌を通って足寄まで達する予定だったけれど、士幌で線路敷設に反対されたので上士幌へ線路を通すことになった」「途中のトンネルが変形してしまい危険な状態になったので路線を廃止してしまった」などと、興味深い話が盛りだくさん。そこで私は知れば知るほど気になる鉄道、勝手に「幻の鉄道」と命名したこの拓鉄こと北海道拓殖鉄道を調べていくことにしました。
上士幌町内にはほとんど痕跡がないようですが、お隣の士幌町には橋の跡が残っているとのこと。拓鉄に興味を持った時点で何となくこの廃線跡に呼ばれているような気がしたので、一人で探索してみることにしました。
とはいえ場所はいまいちよく分からず、ネットで検索してもほとんど情報が出てこないので、もはや探検の域になりそう。しかしにわか廃線跡ファンとはいえ意地があります。何はともあれ行ってみることに。
やはりスタートは上士幌駅跡があった交通公園。この南から不自然に曲がっているこの道路が、かつての拓鉄路線跡ということです。
が、いきなり畑の中に消えていきます。これは追っても仕方ありません。
ここから一気に士幌町内にある廃線跡を目指します。いざ士幌町へ! 音更川に架かる西上橋の近くに橋の跡があるらしいので探索開始!
…が、土手を行ったり来たりしてもそれらしきものは見つからず。なんせ情報がほとんどないので、当てずっぽうで探してみるしかないのです。
とりあえず橋を渡りきり、左手に少し行くと広大な空き地があったので、ここからアタックしてみることにします。空き地の奥は笹を掻き分けて進まなければならず、若干ジャングル状態。
と、目の前に唐突に現れたのはコンクリート建造物。人の背丈の3倍ぐらいあるでしょうか。ジャングル状態の中に人工物が出現する不思議な光景です。
それらしき文字などは全く書かれていませんが、間違いなく拓鉄音更川橋梁跡です。こんなに自然と一体化しているなんて…。
橋桁や橋脚は全くありませんが、何となく見当を付けて対岸へ戻ってみると反対側の橋台を発見しました。こちらは特に笹に阻まれることもなく、土手沿いの道からすんなり行けました。
さらにこの周りにはもう一つの橋梁跡、ウオップ橋梁があるとのこと。それもぜひ伝えたい! との思いから次の橋梁を目指します。
いくつか牧場の前を通ってウオップ川橋梁があるらしき場所にたどり着きましたが、やはり確かな場所が分からないので川沿いをうろうろ。やはり笹で覆われた茂みもありましたがそこではなさそうで、最終的に川と畑の間の細い道を抜けていくことに。
すると見えてきました、しかも橋台だけではなく橋脚もある!
廃線になって以降は川の流れが変わってしまったようで、橋脚は荒地の中に突っ立っていました。スリムで頼りなさそうなこの橋脚ですが、列車が走らなくなっても川の流れが変わっても70年間耐えてきたのです。
この先の畑の中には上士幌の次の駅の中音更駅跡があるらしいのですが、冬は陽が傾くのが早いため、ここから上士幌へ戻りました。
ということで、玄人向きな北海道拓殖鉄道廃線跡めぐりはいかがでしたでしょうか?国鉄士幌線だけではなく、70年前に廃止された知られざる鉄道の痕跡もしっかり残っているなんて、ロマンを感じませんか? 貴重な遺産として、これからもずっと残っていてほしいものです。ありがとうございました!